ボルヘスの「カフカの先駆者たち」をまねて「安部公房の先駆者たち」の本棚。

ボルヘスの評論集「続審問」のひとつに「カフカの先駆者たち」というテーマの評論がある。ボルヘスにしては評論というよりもエッセーにちかいものだが、ボルヘス先生、あいかわらず思考の飛翔と驚異的な想像力で当初は「類例をみない独自の存在」だと思っていたカフカの先駆者を列挙する。
「カフカの先駆者たち」のように凡人では思い出すことさえ難しい作家同士の関連を軽快に結びつけるボルヘスの技をみると、この想像力と連想力、それにこの博覧強記はどこからくるのか。どうすればボルヘスのような評論がかけるのか。と考えがちだが、そもそもボルヘスはそのように単純な憧憬がまったくあてはまらない作家である。この評論集「続審問」も、「続」とついていながら正編は存在しない。以前の出版元である晶文社はそこを気にしてか「異端審問」という意訳的なタイトルにしていたが、岩波の文庫になって元の意味に近い書籍名となった。そもそも正編のない(かつては存在したらしいが)書籍に「続」とつけると、どうしても「正」をさがしてしまう。そこが罠なのだ。しらずに探しはじめると、あっというまにボルヘスの迷宮、バベルの図書館に引き込まれてしまう。
だから作中に言及されている作家や作品も、ボルヘスの罠によって2,3架空のものがまじっているような気がしてしかたがない。作品そのものは実在したとしても、この引用はほんとうにセルバンテスなりの作品にかかれているのか不安になる。ボルヘスの引用を再度引用するなどという行為は、こわくてボクはできない。ボルヘスとはそういう作家である。
そのボルヘスが高く評価するカフカの先駆者にあたる作家を捜そうというのがこのエッセー「カフカの先駆者たち」のテーマである。
だがボルヘス自身もこのエッセーの冒頭でカフカを「類例をみない」と言っているし、カフカに先駆けてカフカ的なものが存在するなら、たぶんそいつがカフカであって、いままでのカフカはカフカではない、と誰もが思うところだろう。だからボルヘスはいちおうこう断りをつける。「彼の声、彼の癖をみとめる」と。声? 癖? ボルヘスはまっとうな隠喩と、まるで読者をあざわらうような普通では理解できない隠喩を交互に書くことで、そのどちらかだけではたどり着けなかった表現をしてみせることが多い。ここでいう「声」も「癖」もカフカにあったことのないボルヘスには架空のものでしかない。この先に提出されるであろう過去の書籍を前にして、ボルヘスはすでにこのエッセーが博覧強記の遊びであると、例の隠喩のように宣言しているように思われるのだ。しかし、たぶん、これはボクの深読みだろう。そうと気づいていながらも、しかし足下をすくわれぬよう用心する。つまり、やはりボルヘスとはそういう作家であるのだ。
カフカの先駆者としてのはじめは「運動を否定するゼノンのパラドクス」をあげる。古代ギリシア、エレア派の哲学者ゼノンの考えた、動いている矢は永遠に止まっている、というアレである。アキレスと亀の話として有名だ。たしかにカフカの「城」は「運動の否定」でありパラドクスである。
つぎに9世紀の作家、韓愈の麒麟にかんする寓意譚を紹介する。麒麟はめでたいし見つけたいが、だれも麒麟などみたことがないのだから、そもそも麒麟をみて「麒麟だ」と判断できるかどうかわからない、といった「静謐で謎めいた」一文をカフカの先駆とする。
第三にキルケゴールをあげる。知的親和性もそうだが、ボルヘスはキルケゴールとカフカのあいだに共通する「中産階級的主題にもとづく宗教的寓話がたくさんある」のだそうだ。そして第四番目にブラウニングの「恐怖と疑念」をあげる。その他、レオン・ブロワ「不快な物語」、ダンセイニ卿「カルカソンヌ」など。
最後にボルヘス先生から種明かしがある。
「程度の違いこそあれ、カフカの特徴はこれらすべての著作に歴然とあらわれているが、カフカが作品を書いていなかったら、われわれはその事実に気づかないだろう。」
「ありようを言えば、おのおのの作家は自らの先駆者を創り出すのである。彼の作品は、未来を修正すると同じく、われわれの過去の観念をも修正するのだ」
40近くある評論の中からこの「カフカの先駆者」を「続審問」の書評としてボクが選んだ理由は、この作品がもっともわかりやすくボルヘスの手法と知識を表しているからだ。驚異的な記憶力と、作品同士をむすびつける着想力、それに優秀な弁護士がそうであるように、強引であるがゆえに説得力のある発想。つまり、膨大な知識の土台の上であれば、発想はとっぴであればあるほどよく、さんざんテクストを広げても、あとはカフカなりの主題がその作品のちからをもって理論を助ける、というボルヘスの手法を。
だからボクはカフカを安部公房に置き換えて、「過去の観念」に対して安部公房が影響をあたえた作品をさがしてみようと思う。とうぜんカフカが安部公房の本当の先駆者なのは別問題として。



「巨匠とマルガリータ」ブルガーゴフ

これは不遇のロシア作家ブルガーゴフの作品である。この本もブルガーゴフの死後まで発禁状態だった。二本足で歩く黒猫ベゲモートや巨漢のファゴット、全裸の魔女をひきつれた悪魔ヴォラントは、モスクワの知識人をつぎつぎに斬首し殺害してく。いっぽう「巨匠」と呼ばれる精神病院に入院中のもと作家はポンテウス・ピラトに関する原稿を火にくべる。小説の舞台は一挙に2000年前のローマで、皇帝ピラトが罪人ヨシュアを磔刑に処すまでの駆け引きと苦悩がかかれる。
右目で見ると名刺の人物、馬の下半身を持つ医者、顔のない夫、箱に住む男・・・。安部の登場人物とそのとっぴな舞台装置はブルガーゴフを先駆者と呼んでもよいだろう。


「天の声」スタニスワフ・レム

マスターズ・ヴォイス計画発足1年後から中心人物としてその計画にかかわったホーガス博士の死後、その遺稿からみつかった原稿を後年一冊の本にまとめた、という体裁をとっているのが「天の声」である。マスターズ・ヴォイス計画は、こぐま座の方向からとどいたニュートリノの規則的な信号を解読することを任務としていた。そもそもその信号は異星人からの手紙なのか、それとも自然がつくる理論なのか。そうしてその信号を解読したあかつきには、いったいなにが待つのか。「天の声」スタニスワフ・レムレムの特異なところは、スタイルと細部のつくりこみをハードSFとしながらも、つねに人間の認知と孤独、ディスコミニュケーションをえがいてきたことにある。つねに人間の認知をこえた存在を与えることで、人間はディスコミニュケーションを克服し、認知を広げ、また大きな孤独の中に帰って行く。
安部公房もSFが好きであった。失敗作のすくない安部だが、彼のSF作品「第四間氷期」はお世辞にも傑作とはいいがたい。レムのような作品を多数書いていても不思議ではない作家であったのだが。

「鷹」石川淳

じっさいに師弟のような関係にあったふたりだから、先駆者というのはおかしいかもしれない。しかし安部の超現実の描写が他に類例をみないといわれながらも、石川淳の「鷹」には安部につづく超現実描写が安部以上の大胆さでかかれている。
「鷹」は石川淳おとくいの歴史ファンタジー小説を現代に置き換えた、一種のアナーキズム小説である。舞台が現代だから歴史物にあるよりはアナーキズムがわかりやすく書かれる。みるたびに文字が移動し意味をかえる「明日語」などはその最たるものだ。
「万人の幸福」を考えたために主人公「国助」は専売公社をくびになり「国際的たばこ密造団」の仕事をする。「国際的たばこ密造団」の作る「ピース」は専売公社のピースよりもはるかにおいしい。それは密造団の「ピース」が「明日のピース」だからだ。密造団のなかでは明日おこることが書かれた新聞があり、専売公社と国はやっきになって密造団を検挙し根絶やしにしようとする。最後にヒロインの少女と国助は独房の窓から月にむかい、鷹となって飛んでいく。
かようにこの小説には膨大な暗喩が塗り込まれている。暗喩がなにを意味しているかは読む人、時代、イデオロギーによりさまざまではあろう。安部が石川淳に影響をうけたのはこのSF的ともいえる暗喩の使い方だったのではないだろうか。
またキュロットスカートをはいて鞭を振るう革命を象徴する少女の存在も、安部の小説に出てきてもなんら不思議ではない。いまでいうツンデレ少女、オタクの安部公房の好みだったはずだ。

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