図書の悲劇 -1 『薔薇の名前』
本屋が大好きである。とくに古本屋はたまらない。古本屋もふくむ本屋に立ち寄って手ぶらで帰ることにそうとうな努力が必要である。だから家に本があふれてくる。つい先日もそうしたが、あふれてくると本棚を買ってくる。安物の本棚だが、いつも本棚を買うときに思うのだ。この本棚を買う金があれば本が何冊もかえるじゃないか! と。
かつて京都にあったレコード屋ジェットセットレコードの社長が言っていた。ターンテーブルを2台もっているDJなんか本当のレコード好きじゃない。2台目のターンテーブルの金でレコードが何枚も買えるだろうに! と。
かくして本は増え続け本棚の置き場にもこまると、最終的には古本屋に売りに行く。何年も前に買ったおなじ古本屋に偶然もっていくこともある。しかし売ってしまうととうぜん手元にのこらないので読んだ事実が記憶にしか残らない。記憶も薄れてくると今度はおなじ本を買ってしまい、3割ほど読んだところで「あ、これ読んだわ!」と気がついたりする。昔の本だと、本棚に置いてあるのにおなじ本を古本屋で買ってくるという、まるで植草甚一みたいなことも2、3度したことがある。
読書家や本好きの人ならそんなエピソードをもっとお持ちだろう。実際、蔵書で床が抜けたとか、家が傾いた人とかも多いし、自分の本棚が倒れてきて圧死したといった笑えない話もある。
でも本好きなら、本の重さに対しての悲劇よりも、その本好き精神そのもの、あるいは本の内容そのものが引き起こす悲劇を論じたい。
ヴァレリーは「文学論」のなかでこう言っている。
「書物は人間とおなじ敵を持つ。いわく、火、湿気、虫、時間。そうしてそれ自らの内容。」
ここでは本の集積、つまり図書自体が引き起こす悲劇の物語をあつめてみた。偶然にも、どれも現代の知の巨人が書いた物だ。本というメディアで本自体を物語の対象とするメタフィクショナルな物語を執筆しようというからには、そうとうな博学が問われるだろう。そこには作者と読者の緊迫した勝負のようなものさえ感じるのだ。
「薔薇の名前」ウンベルト・エーコ
原題は「The Name of The Rose」である。nameにもroseにも定冠詞がついている。直訳すると「その薔薇のその名前」となる。とうぜん、作中にも薔薇は出てこない。作品の最後にはベルナールのラテン語の詩句が書かれている。
「以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする」
エーコはこの異端審問時代の暗く悲劇的な密室殺人事件の裏に、中世で繰り広げられた普遍論争をふくませている。普遍論争とは中世哲学で議論された普遍概念についての論争である。薔薇と呼ばれるこのモノは、薔薇という類に属している。この「類」の概念を形相(フォルマ)と呼ぶ。薔薇は目の前に存在するが、これが薔薇であると認識するには類の概念が必要なのだ。しかし知覚できる個別存在の薔薇に対して、薔薇という類の普遍概念はそもそも存在するのであろうか。
観念論者のバークリーは言う。
「天に蝟集し地に充満するすべてのもの、すなわちこの世界の膨大な輪郭を構成する物体は、心の外には存在しないーーーそれらが存在するとは知覚されるか知られることの謂である。したがって、それらが私によって現実に知覚されるか、私の心もしくは何かある被造物の精神のなかに存在するかのいずれかでないかぎり、そらは全然存在しないか、あるいは永遠なる絶対精神のなかに存在するかのいずれかである。」
机の上にある本や森の樹が、だれも見ていないふれていないときにも存在するかどうかは古くから議論されていた。21世紀の現代で机の上の本が観念を通してでないと存在できないと考える観念論者は少数だろう。むしろ「そこにあるから知覚できる」と考えるのではないだろうか。しかしバークリーは言う。
「あなた自身は、つねにそれらを知覚するか考えるかしているのではないでしょうか。それはただ、心の中で観念を想像したり形成したりする能力があたなにあることを示しているだけで、思考する事物が心の外に存在すると想定してもよいということを示すものではないのです」
ボクは、なぜ現代では観念論が理解できないかに、この論争のある程度の答えがあると考える。つまり存在がすべて「被造物」であるという認識の上に両者がたっていないからだ。存在が人間の知覚とは関係無く存在し続ける連続性を持つのは、あるいはそう理論的証明ができるのは、つまりは神がその本を創造し、神がその森の樹を認識しているからだ。
エーコのしかけた副題、ことによると本題は、この点に要約されるだろう。ヨハネの福音書もこうはじまる。
「はじめにことばありき。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」
だから事物はその後に存在したのだ。ことばとは体系であり、秩序である。ことばが存在しない世界では薔薇は花でもなければ植物でもなく、美しくもなく醜くもない、ひとつの混沌なのだ。神が混沌から世界を作ったのであれば、名前のない世界では薔薇は存在せず、混沌があるばかりと考えておかしくはない。
一般的には、「薔薇」とは副主人公メルクのアソドが男女の関係をもってしまう村の娘のことだと解釈されている。しかもこの娘だけはエーコから命名されないままで、読者はその名前をしらない。つまりはこの娘がなにをあらわすために登場してきたかが解読の鍵となる。
この娘はまだ若いメルクのアソドと厨房で肉体関係を持ってしまい、主人公バスカヴィルのウィリアムのライバルである異端審問官ベルナール・ギーにより火刑にされてしまう。彼女は悪魔の化身なのだろうか。中世から見た場合、観念論のわからぬわれわれは悪魔だろう。また主人公バスカヴィルのウィリアムのモデルであるといわれるオッカムのウィリアムは、われわれに近い唯名論者であったそうだ。
薔薇が先なのか名前が先なのか、といった論争はこの作品のなかを貫く二つの立場を浮き上がらせる。要はその二つがいったいなにかということだろう。観念と記号、中世と現代、神と悪魔、混沌と秩序、教義と人間性など、作中に出てくるあらゆるテーマが二元論に還元して考えることができる。残念ながらどれも正解であり不正解であるのだろう。
つづく・・・
図書の悲劇 -1 『薔薇の名前』
図書の悲劇 -2 『薔薇の名前』つづき
図書の悲劇 -3 『眩暈』
図書の悲劇 -4 『バベルの図書館』
かつて京都にあったレコード屋ジェットセットレコードの社長が言っていた。ターンテーブルを2台もっているDJなんか本当のレコード好きじゃない。2台目のターンテーブルの金でレコードが何枚も買えるだろうに! と。
かくして本は増え続け本棚の置き場にもこまると、最終的には古本屋に売りに行く。何年も前に買ったおなじ古本屋に偶然もっていくこともある。しかし売ってしまうととうぜん手元にのこらないので読んだ事実が記憶にしか残らない。記憶も薄れてくると今度はおなじ本を買ってしまい、3割ほど読んだところで「あ、これ読んだわ!」と気がついたりする。昔の本だと、本棚に置いてあるのにおなじ本を古本屋で買ってくるという、まるで植草甚一みたいなことも2、3度したことがある。
読書家や本好きの人ならそんなエピソードをもっとお持ちだろう。実際、蔵書で床が抜けたとか、家が傾いた人とかも多いし、自分の本棚が倒れてきて圧死したといった笑えない話もある。
でも本好きなら、本の重さに対しての悲劇よりも、その本好き精神そのもの、あるいは本の内容そのものが引き起こす悲劇を論じたい。
ヴァレリーは「文学論」のなかでこう言っている。
「書物は人間とおなじ敵を持つ。いわく、火、湿気、虫、時間。そうしてそれ自らの内容。」
ここでは本の集積、つまり図書自体が引き起こす悲劇の物語をあつめてみた。偶然にも、どれも現代の知の巨人が書いた物だ。本というメディアで本自体を物語の対象とするメタフィクショナルな物語を執筆しようというからには、そうとうな博学が問われるだろう。そこには作者と読者の緊迫した勝負のようなものさえ感じるのだ。
原題は「The Name of The Rose」である。nameにもroseにも定冠詞がついている。直訳すると「その薔薇のその名前」となる。とうぜん、作中にも薔薇は出てこない。作品の最後にはベルナールのラテン語の詩句が書かれている。
「以前の薔薇は名に留まり、私たちは裸の名を手にする」
エーコはこの異端審問時代の暗く悲劇的な密室殺人事件の裏に、中世で繰り広げられた普遍論争をふくませている。普遍論争とは中世哲学で議論された普遍概念についての論争である。薔薇と呼ばれるこのモノは、薔薇という類に属している。この「類」の概念を形相(フォルマ)と呼ぶ。薔薇は目の前に存在するが、これが薔薇であると認識するには類の概念が必要なのだ。しかし知覚できる個別存在の薔薇に対して、薔薇という類の普遍概念はそもそも存在するのであろうか。
観念論者のバークリーは言う。
「天に蝟集し地に充満するすべてのもの、すなわちこの世界の膨大な輪郭を構成する物体は、心の外には存在しないーーーそれらが存在するとは知覚されるか知られることの謂である。したがって、それらが私によって現実に知覚されるか、私の心もしくは何かある被造物の精神のなかに存在するかのいずれかでないかぎり、そらは全然存在しないか、あるいは永遠なる絶対精神のなかに存在するかのいずれかである。」
机の上にある本や森の樹が、だれも見ていないふれていないときにも存在するかどうかは古くから議論されていた。21世紀の現代で机の上の本が観念を通してでないと存在できないと考える観念論者は少数だろう。むしろ「そこにあるから知覚できる」と考えるのではないだろうか。しかしバークリーは言う。
「あなた自身は、つねにそれらを知覚するか考えるかしているのではないでしょうか。それはただ、心の中で観念を想像したり形成したりする能力があたなにあることを示しているだけで、思考する事物が心の外に存在すると想定してもよいということを示すものではないのです」
ボクは、なぜ現代では観念論が理解できないかに、この論争のある程度の答えがあると考える。つまり存在がすべて「被造物」であるという認識の上に両者がたっていないからだ。存在が人間の知覚とは関係無く存在し続ける連続性を持つのは、あるいはそう理論的証明ができるのは、つまりは神がその本を創造し、神がその森の樹を認識しているからだ。
エーコのしかけた副題、ことによると本題は、この点に要約されるだろう。ヨハネの福音書もこうはじまる。
「はじめにことばありき。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」
だから事物はその後に存在したのだ。ことばとは体系であり、秩序である。ことばが存在しない世界では薔薇は花でもなければ植物でもなく、美しくもなく醜くもない、ひとつの混沌なのだ。神が混沌から世界を作ったのであれば、名前のない世界では薔薇は存在せず、混沌があるばかりと考えておかしくはない。
一般的には、「薔薇」とは副主人公メルクのアソドが男女の関係をもってしまう村の娘のことだと解釈されている。しかもこの娘だけはエーコから命名されないままで、読者はその名前をしらない。つまりはこの娘がなにをあらわすために登場してきたかが解読の鍵となる。
この娘はまだ若いメルクのアソドと厨房で肉体関係を持ってしまい、主人公バスカヴィルのウィリアムのライバルである異端審問官ベルナール・ギーにより火刑にされてしまう。彼女は悪魔の化身なのだろうか。中世から見た場合、観念論のわからぬわれわれは悪魔だろう。また主人公バスカヴィルのウィリアムのモデルであるといわれるオッカムのウィリアムは、われわれに近い唯名論者であったそうだ。
薔薇が先なのか名前が先なのか、といった論争はこの作品のなかを貫く二つの立場を浮き上がらせる。要はその二つがいったいなにかということだろう。観念と記号、中世と現代、神と悪魔、混沌と秩序、教義と人間性など、作中に出てくるあらゆるテーマが二元論に還元して考えることができる。残念ながらどれも正解であり不正解であるのだろう。
つづく・・・
図書の悲劇 -1 『薔薇の名前』
図書の悲劇 -2 『薔薇の名前』つづき
図書の悲劇 -3 『眩暈』
図書の悲劇 -4 『バベルの図書館』