うつ病とメランコリア 『メランコリア』ラース・フォン・トリアー

うつ病の人がおおい。厚生労働省の調査結果では日本人のおよそ15人に1人はうつ病だという。うつ病を発症させる因子が社会性ストレスといわれているところから、現代病の一種と考えている人もおおいようだが、そうでもない。増えたのは、この病気が社会的に認知されたからである。
うつ病という名前がなかった昔は、それを「メランコリア」と言っていた。紀元前400年頃すでに、「医学の父」とよばれるヒポクラテスがこの悩ましい病気について言及している。
ヒポクラテスによると、人間には4つの体液があるという。血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つの体液が正しい状態にないと、人は病気になるという。これを「四体液説」という。
四体液説を信じている医者はもういないが、それでも体内のバランスが崩れて病気になるという考え方はいまでも通用している。なんのバランスなのか指摘できないのに、やたらとバランスが大事だという人がいるのは、2400年前に流布した四体液説のなごりかもしれない。
その四体液説のうちの黒胆汁が過多になると患うのが、メランコリアである。メランコリアになると悲しみや不安や憂鬱をかんじ、病気が進行すると無気力になり、妄想や幻覚をみることもあるという。つまりいまでいううつ病である。

16世紀初頭の版画家アルブレヒト・デューラーの傑作『メランコリアⅠ』は、まさにこの鬱気質を描いている。
版画の中で、小屋の前に腰かけた翼のある人物が右手にコンパスと本を抱えている。しかし彼女が見ているのは手元の本ではなく、版画の枠外のどこか遠くのようである。足もとには大工道具が転がっており、痩せた犬が寝そべり、不思議な多面体が置かれている。はしごが立てかけられた背後の小屋の壁には、魔方陣が描かれ、鐘、大きな砂時計、はかりがつるされている。背景は波のない海のようであり、上空に虹が架かり、その向こうを巨大な彗星が飛んでいる。
「うつ病」というアカデミックで散文的な用語にはなく、「メランコリア」という言葉には存在する意味に、憂鬱、憂い、思索、悲哀といったものがある。デューラーの『メランコリア』には、そのどれもが含まれているように思える。暗い顔の天使は、うつ病というよりもなにかを憂いているようにも見えるのである。

ヒポクラテスの四体液説は、物質の四大元素(空気・火・水・土)につながっていく。人間の健康や気質はこの四大元素の組み合わせによって決定されるというのだ。だからそれぞれの元素をつかさどる惑星の運行に、人間の運命は左右される。ヒポクラテスでいう黒胆汁は、占星術でいう土星にあたる。土星人は鬱気質でありメランコリアであるが、一方で土にむかう、つまり内向する性質をもっているがゆえに、思索にむいており、芸術、音楽、数学、哲学などにすぐれている。(若桑みどり『絵画を読む イコノロジー入門』)
図像学はしらないが、デューラーの描いた天使の周囲にある小道具はおおかたこの知的職業に関連するものである。思索が内向し憂いとなり、やがてその顔をくもらせる憂鬱となる。コンパス、時計、はかり、魔方陣のどれをつかって計測してみても、この天使の憂鬱は払拭できない。むしろ計測し計算することで、彼女の憂いは現実のものとなるのである。
そのむこうを巨大な彗星が地に落ちようとしている。彗星を指し示すかのように、コウモリの広げた翼には「メランコリア」と書かれている。

カンヌ・パルムドール作家であるラース・フォン・トリアー監督の新作『メランコリア』を観てきた。
ラース・フォン・トリアーも長らくうつ病に苦しんだという。この映画の初期の着想も、うつ病療養中に得たという。ストーリーもうつ病である。この映画はひとつの壮大なうつ病物語といっても間違いなかろう。
ラース・フォン・トリアー作品の例にもれず、物語は第1部と第2部にわかれる。第1部は妹ジャスティンのひどく豪華な結婚式を描く。しかし幸せなはずのジャスティンの行動は不可解としか言いようがない。2時間式に遅れたのはしかたないとして、出席者のスピーチの最中に抜け出してゴルフコースのまんなかで野シッコする、子供部屋で寝込んでしまう、ケーキカットの時間に出席者を待たせたままお風呂につかって出てこない、新郎のセックスを拒み、彼からのサプライズプレゼントをむげにあつかい、バンカーで見知らぬ男と姦通し、あげくの果てには仲人の上司に「アンタは無以下のくそったれよ」といって会社をくびにされてしまう。彼女の奇矯な行動に興ざめした来賓たちが帰宅する明け方には、とうとう新郎さえも「別の可能性もあったんだが」といって帰って行ってしまう。奇行をたしなめつつ、嫌悪をあらわしながらも、ただひとり姉のクレアだけが「なにかすごく怖いの」というジャスティンを心配するのである。翌朝、2人は馬に乗り森へいく。ふと空を見上げてジャスティンがいう。「アンタレスが消えている」
第2部は姉のクレアが主人公である。うつ病が進行し、歩くことさえままならなくなったジャスティンは、クレアとその富豪の夫ジョンのもとに寄宿することになる。クレアは地球に衝突するかもしれないと言われる惑星「メランコリア」を気にしているが、夫のジョンは「科学者の計算では衝突はしない」という。夜ごとメランコリアの光を裸体にあびるジャスティンは、徐々に回復していく。不安がるクレアにジャスティンはいう。「地球は邪悪よ。だから消えてなくなるの」。メランコリア接近につれ混乱するクレア。それを科学的理論でなだめるジョン、逆にますます回復するジャスティン。とうとうメランコリア最接近の夜、彼らは豪邸のテラスで巨大なメランコリアが地平線からのぼる姿を見るのだったが・・・。

ラース・フォン・トリアーの章を区切るアイデアには昔から感服していたけれど、これほど分割が上手くいった例はなかったのではないか。結論めいたことをいってしまうと、第1部は「世間から見たうつ病患者」であり、第2部は「うつ病患者の側からみた世界」である。だから第1部で「なんだか怖い」というジャスティンの奇行に人々はいうだろう。「考えすぎだ。それよりも今夜の披露宴を成功させるのがいちばん肝心だろう」と。結婚式という人生でもっとも重要な瞬間において、言葉にもならない不安を気にするのは文字通り病的である。ジャスティンがもっとよく天空のアンタレスを見ていれば、もしかするとこの世がもうすぐ終わることに気づいたかもしれない。しかし仮にそうなったとしても、ジョンのいう科学者の理論にはさからえない。土にむかう思索者の憂鬱は、豪華な宴会からしめだされ、孤立するしかないのである。
ところが第2部ではそれが逆転する。メランコリアから見た世界が現実になるとは、うつ病患者の憂鬱が特別なものではなくなるということである。世界の終わるイメージ、憂鬱の巨大な象徴である惑星、混乱する人間、すべてメランコリアの内部でおこっていることである。それが、内部と外部が入れかわっているのである。だからジャスティンは物語後半でもっとも冷静な人物となる。世界が終わることも、われわれが死ぬことも、地球は邪悪にみちているということも、ジャスティンはとっくに計測、計算、思索済みのことなのである。
それはまるでデューラーの天使のようである。どう計算しても、人間を救うすべがないと知った神の使いの「天使の憂鬱」である。人間が邪悪にしかなりえず、神によって滅ぼされる運命をさけられないという結論に達してしまった思索の天使の暗い顔である。
そしてまさにそのむこうに、邪悪なコウモリが指し示すように、巨大な彗星が地に落ちようとしているのである。
だが、それがほんとうに天使の計算と思索のように、邪悪な世界の終わる予兆なのか、あるいは自分の結婚式さえ満足にできず周囲に迷惑ばかりかける感情障害のたんなる不安に帰依しているのか、それはだれにもわからないことなのである。

スタジオ撮影、CG、効果音、照明など複数の点で、ラース・フォン・トリアー監督が信奉する映画理論「ドグマ95」の「純潔の誓い」を自ら破りまくっているし、だれにでもオススメできる映画ではないが、スーパースロー再生のプロローグの美しさ、プルーストが「もっとも完成された芸術」と絶賛したワグナー「トリスタンとイゾルデ」のサントラ、あいかわらずの手持ちカメラのブレとピンぼけによる臨場感、どれもみごとである。もしかすると今年のナンバーワン映画をボクははやくも観てしまったのかもしれないと思えるで出来である。
少なくとも、人類史上もっともうつ病を深く、壮大に描いた映画であることはまちがいないだろう。
世界を憂う人に、おすすめである。


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