旅行記のしあわせ、の本棚 「パタゴニア」「ハワイイ紀行」「中国鉄道大旅行」他

「天井桟敷」で有名なマルセル・カルネ監督がナチス占領下で作った映画「悪魔が夜来る」の中の台詞に、こんなのがある。

「故郷では忘れられ、余所では名もない。それが旅人の運命だ」

カルネ監督作品なので、この台詞は脚本家のジャック・プレヴェールの作だろう。なんにせよ旅というものの苦労と、しかし旅に魅入られた者が感じる自由もそこに表現されている。
旅人というと大げさだが、旅行は大好きである。できるなら旅先で死にたいとも思う。が、そんな簡単に旅にでることができないのは、社会人ならみなおなじだろう。だからその欲求を解消するためなのか、旅行記が大好きである。
江戸時代におこったお伊勢さんブームでは、村人全員が金を出し合って籤にあたった一名のみがその金で伊勢まで旅行できる、という制度が各地にうまれたそうだ。このしあわせな村人は、道中見聞きしたものを村に帰ってみなに話す。作家が旅した見聞を書物にして出版したものをボクが旅行記として買ってきて読むのは、この籤引きお伊勢さんと非常に似た関係性だといつも思う。大多数の人間ができないから、できる状況にあるラッキーなものが代表として旅をする。ただし旅行記はお伊勢さんとちがって金は後払いであり、道中見聞きしたものがおもしろくなかったらもとはとれない。
誤解を恐れずにいうと、旅行記なんてだれでも書ける。対象そのものが珍しいのだからテクニックは二の次である。実際そのように考えて出された本も、他のジャンルに比べて多い。内容も凡百の旅行記ブログと大差ない。場合によってはタレント本と紙一重のものもある。旅行記が好きで多少は読んできたつもりだが、そんなわけで「あたり」はそんなに多くない。
ここではいくつかの方向性にわかれた旅行記を紹介する。A級作品もあるし、B級もある。行き先もテーマもさまざま。ただ、それぞれの方向性の上での「あたり」を紹介しようと思う。


「パタゴニア」ブルース・チャトウィン

これは立派な文学であるが、旅行記でもある。
主人公の「私」は子どもの頃に祖母にみせられた「ブロントサウルスの毛皮」が忘れられずに、採取地の南米パタゴニアを夢見るようになる。その土地の風景描写、風俗理解、歴史の記述など一切ない。まるでチャトウィンが好きかキライかで判断しているようだ。もちろん旅行記につきものの命がけの移動などもない。気楽だが横方向に広がる主人公の思い出はたのしく、知識はすさまじい。旅行記の体裁の文学というものがあるなら、それはこの「パタゴニア」だろう。


「中国鉄道大旅行」ポール・セロー

作家というより旅行記作家といったほうがしっくりくるポール・セローの「中国鉄道大旅行」は、著者が1年かけた中国旅行記である。軽快な文体、意外な着目点、毒舌、ユーモア、博学と、よい旅行記に必要な要素がすべて入っている。出版が1988年であるが、いま読み返すと中国は何一つかわっていないことにビックリする。巨大なビルができて万博やオリンピックが開催され、世界一の経済大国になろうとしているが、中身はまったくセローの見た中国のままなのだ。「どこでやめるべきかを知らない」国民は、そういえばこんな姿をしていたのだな、と思い出すことのできる本である。


「ホテルアジアの眠れない夜」蔵前仁一

貧乏バックパッカー界のバイブル雑誌「旅行人」の有名編集長、蔵前仁一のアジア系旅行エッセー。50度をこえる灼熱のインドのゲストハウス、金を払わずにいると夜中に起こされて請求される中国の多人房(ドミトリー)の話、ラダックのゲストハウスのシャワーの秘密など、旅行にまつわる小ネタがつきない。
惜しむらくはこの本を購入する人がそのような体験をすでに自分でしたことのあるバックパッカーばかりだから、あんまりビックリもカルチャーショックも感じないことだ。実際すごい体験なのだが。


「マリファナ青春紀行」麻枝光一

先に言うが、マリファナは日本国内ではとうぜん違法である。タイでもインドでも違法だ。しかし麻枝光一はマリファナもハシシュもヘロインもLSDもがんがんやって、そうとう危険な場所も行為も人物も体験し、行く先ほとんど全ての国の法律を破る。しかしなぜか明るい。昔、パキスタン国境近くのインド山中でマリファナ畑を見たことがある。あの禁じられた植物には、禁じられたからこその魅力があるのだろう。
自動車用のヘンプ型消臭剤をルームミラーに平気でぶら下げる日本人は知らなさすぎるのかもしれない、例えばパキスタンではマリファナよりも飲酒の方が罪が重いということなどを。


「ハワイイ紀行」池澤夏樹

旅行に行く前にはやはり下調べをしてからいきたい。地理や経済はもちろんのこと、歴史、文化、政治、国民性、食生活なども。
ハワイは多くの人に愛されてはいるが、そういった勉強をしてからいく人の割合がもっとも低い観光地のひとつである。そもそもそういう気分にさせないところがハワイのよいところなのだが。
池澤夏樹の「ハワイイ紀行」は脱観光ハワイ旅行にうってつけの本である。最低限これぐらいは知っておこうね、というラインがすべて押さえられている。


「日本列島を往く」鎌田慧

厳密にいうと鎌田慧の「日本列島を往く(1)国境の島々」はルポルタージュだが、旅行記としても楽しめる。
日本は島国なのだが、ほとんどの国民はその地理的な中央に住んでいる。海の向こうは国外と考えがちだが、実際はその水平線のずっと先にある島々がその国境の役目をになっている。そこでは日々なにがおこっているか、おおかたの中央住まいの日本人は考えたこともない。この本を読むと、日本人という強固だった観念が予想以上に曖昧で多様性を帯びていることを発見するだろう。

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