投稿

9月, 2011の投稿を表示しています

『日本の作家が語るボルヘスとわたし』

イメージ
ボルヘスを直接語るのはなんだかコワイのである。『千夜一夜物語』や『ドン・キホーテ』を語るのはこわくはないのに、ボルヘスだと躊躇してしまう。 だからボルヘスの「周辺」をかたることでしか、(ボクは)ボルヘスを語れない。 だから明日、岩波書店から刊行される『日本の作家が語るボルヘスとわたし』を執筆する人はえらいと(ボクは)感じてしまう。よくボルヘスを語れたな、と。 『日本の作家が語るボルヘスとわたし』 http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/4/0247790.html 明日、買いに行こうっと。

レゴ・オリジナル・ミニロボット

イメージ
. ミニフィグが乗れて、なおかつなるべく小さいロボット、というお題で作成。この手の小型ロボットって、SF映画ではもううんざりするぐらい使われてますねー。『エイリアン3』とか『マトリクス3』とか『ガンヘッド』とか『第9地区』とか。無理だってわかってるのに、どうして二足歩行に憧れるんでしょうね、男子って。 前から。手は3本指。 後から。箱みたいなのはバックパック。

書かれたものは残り言われた言葉は飛び去る 『ボルヘス、オラル』『遠野物語』『平家物語』『千夜一夜物語』

イメージ
小学校のころ音読という国語の授業があった。もちろん今でもある。教科書に書かれた小説や詩を声に出して読むのであるが、これがなかなか厳しいもので、一字一句読みまちがえてはいけないのである。まちがえると、前にもどって訂正しつつ再読させられる。ひどいときなど数回読みまちがえると「立ってなさい!」と罰をうけたりする。なぜこんなに厳しいかというと、音読のもととなっているものが活字のテクストであるからだ。学校教育においては、テクストに書かれたことは絶対なのである。 人から聞いた話をまただれかにつたえるとき、最初の人の言い回しはほとんど無視される。話の筋や物語やオチが重要であって、筋をつたえるための語彙の選択やレトリックはこのさい関係ない。「山のようにおおきな鬼の影が、村をすっぽり包み込んでしまった」という話も、ひどい場合は「でっかい鬼が村にきた」とつたえても厳密にまちがいではない。まして訂正させられたり立たされたりするわけもない。なぜなら話者がもとにしているのは、文字ではなく話し言葉、耳から入る口頭の情報だからである。 ここが書き言葉(リテラシー)と話し言葉(オーラリティー)の違いである。 もともと文学とは口承の芸術であった。いや、文学だけではなく学問とはもともとすべて口頭でおこなわれていた。 ピタゴラスは膨大な数学的・物理学的・哲学的発見をしておきながら、一切文字に書き記すことをしなかった。はじめからピタゴラスは文字の効用を信じていなかったのだ。ピタゴラス教団においてすべては、口頭による伝承だけで受け継がれたのである。 そこにかの有名な言葉が生まれるようになった。ピタゴラス教団の師と弟子が議論をするとき、彼らは最後にこういうのである。「Magister dixit(師曰く)」。 これは議論の終了を意味する符丁でもあり、ピタゴラスという師の考えを反復する行為でもあり、実証的に正しいものを優先することでより真理に近づこうとする理論でもあった。ピタゴラス教団がかなりカルト的で謎めいていたこともあって、「ピタゴラスが言ったんだからそれ以上議論するべきではない」という妄信的な言葉であると思われていることが多いが、実際は真実だと決定できた事柄を同心円としてさらに論理を発展させるためのオープンエンドの言葉なのである。 ボルヘスは「知の伝承、伝達の絶対的

記憶と記憶補助装置としてのノート

イメージ
スーザン・ソンタグは「ノートとは、全てを主題とするものにとって、完璧と言える文学形式である」という。だからノート、というか記録のための道具はいろいろと試してみた。 しかし気づいたのは、憶えたことをメモしてもなんの役にもたたないということである。メモすべきは「忘れる予定」の事柄にすべきだ。 そして、記憶には短期記憶と長期記憶があり、メモは短期記憶であるはずの事柄を長期記憶におきかえる儀式でもある。 さらにいうと、記憶をノートやデータベースに移し替えるということは、書いた内容をそっくりそのまま忘れてしまうということである。忘れても大丈夫だという安心感が必要なのだ。 しかし、書いた内容はすべて忘れてもよいのだが、それを書いたことは記憶しなければならない。「なんだか忘れたがたぶんソンタグにかんしてのメモしたよな」という漠然とした記憶である。ここは人間の得意な記憶で、比較的長期記憶になりやすい。 イギリスの詩人W・H・オーデンはこう言っている。 「自分の知っていることしか書くことはできない。ただし書いてみるまでは、自分がなにを知っているのかということも、知らないことのひとつである」 写真を撮るとは、フレームに収まらなかったその他すべてのものを「撮影しなかった」ということでもある。絵を描くとは、その絵の対象となったもの以外は「描かなかった」ということと同義である。憶えるとは、憶えた事柄以外のすべてを知らないということである。 だから記憶とは、そして記憶の補助装置としてのノートとは、書いた事柄以外は、すべて記憶していないし書いてもいないということである。 記憶を誇ってはいけない。どんな人間でも、ボルヘスの恐るべき短編に書かれたすべてを記憶するフネスのような人間になることは不可能だし、むしろそんな記憶に本質的な意味はない。 われわれが意識すべきは、記憶された事柄によって、かえって未知という空虚がわれわれの周囲に広がるという事実だ。ひとつを知ることによって、その他すべてを知らないということをわれわれは知るのである。 .

編集もまた創作である。『映画もまた編集である』『ヒッチコック 映画術』『真夜中の子供たち』『人間の条件』

イメージ
10年のあいだにブッカー賞を受賞した全作品のなかから、さらにそのなかの最優秀賞をあたえるという派手な企画、ブッカーオブブッカー賞を受賞したサルマン・ラシュディの代表作 『真夜中の子供たち』 は、執筆当初ラシュディの自伝的なリアリズム小説であった。できあがった原稿をよみかえし、ラシュディは彼に影響をあたえたマジックリアリズムの手法を大胆にとりいれ、内容を組み替え、当初書かれた分量の半分をけずって現在出版されているかたちにおちついたという。いちど創作されたものの手法を入れ替え、物語を組み替え、半分にダウンサイズするのは、もはや編集というよりも創作そのものにちかい。ちかいというか、編集と創作は不可分だからそもそもわけて考えることのほうがほんとはおかしい。もともとの原稿からは似ても似つかぬはずの(残念ながらラシュディの最初の原稿は残っていない)あの歴史的な作品がうまれてくるなら、むしろ『真夜中の子供たち』にとっては、後半の編集作業のほうが真の創作行為と言えるだろう。 が、現実は「芸術」といえば奇矯な発想とそれをとりまくインスピレーションのことばかりが話題になりがちである。俳句や川柳であればインスピレーションの重要度はそうとう高いだろうが、芸術ぜんぶがぜんぶインスピレーションによって発生するわけではないのである。 とくに日本人の芸術家像には、気むずかし屋で一瞬のインスピレーションを最重要視し、短時間の爆発的衝動によって芸術を遂行する、自然主義を信奉する、ヒゲ面で破滅的な芸術家の極端なステレオタイプが存在しているような気がする。西洋の戯画にみる「出っ歯の日本人」とさしてかわらぬこの偏見み満ちあふれた芸術家観は、つまるところ芸術家の創作行為と、われわれが日々こなす労働がまったく別のものだと思い込みたい一般人のロマンチックな欲求からでていると思う。芸術はコツコツと労働をしつづける徒労とは対局にあると、どうしてだか人々は考えようとする。そしてその代償として、芸術家に芸術家ならではの苦悩をあたえて満足する。 ユダヤ系アメリカ人の政治哲学者ハンナ・アーレントはその著書 『人間の条件』 において、人間の活動を3つに大別している。1.活動、2.仕事、3.労働、である。 「活動」は人間関係においておこなう行為である。これは平等で差異のない人間同士のあいだにおこることである。この行為によって

サブリミナルの修辞学 『メディア・レイプ』ブライアン・キイ『映像の修辞学』ロラン・バルト

イメージ
サブリミナルの例 他の光源とくらべて、蛍光灯の光を「疲れる」という人がいる。よく聞く話である。なかには「チカチカしてる気がする」と表現する人もいる。インバーターでないかぎり、たしかに交流をつかう蛍光灯は電極の関係で1秒間に100〜120回ほど点滅をくりかえしている。これが「疲れる」原因であり「チカチカする」と感じる理由のひとつなのはまちがいなさそうである。 しかし理論上は1秒間に100回の点滅を知覚できる人はいないはずである。だから人間の知覚には、蛍光灯はつねに光っているように見える。それでも「つかれる」とか「チカチカしている」と人がいうのは、高速の点滅のように意識の閾値下でも環境やものごとを把握する能力があるということなのだろう。つまり知覚していることが、意識にのぼるすべてではないということである。 意識と潜在意識のこの能力に着目した表現方法がサブリミナルである。そのなかでもとくに有名なのはジェームズ・ヴィカリ博士が映画館でおこなった実験で、映画本編に非常に短いフレームレートでコカコーラの広告をはさむと、上映後のコーラの売り上げが18%だか20%だか伸びたという話である。 しかし、実はこれは眉唾もので、博士の発言以外にきちんとした論文にもなっていないし、そもそもこの実験そのものがおこなわれていなかったのではないかという指摘も多い。鈴木光太郎の著書『オオカミ少女はいなかった』には、オオカミ少女「アマラとカマラ」、「クレバー・ハンス錯誤」などとともに、歴史上にいくつも存在する心理学実験のデマであったと書かれている。 その後、研究室でなされたヴィカリ博士の同様の実験が予想していたほどの結果でなかったこともあり、閾値下の高速フレームレートが潜在意識と生体にどのような影響をあたえるのかはほんとうのところはよくわかっていないし、サブリミナルの恐怖は容易に人口に膾炙する、つまりゴシップになりやすいパラノイア的な要素を多分に含んでいることにも注目しておくべきだ。ただしいろいろな放送団体が自主規制しているように、視聴者の認識しえない部分においてメッセージを伝えるのはフェアでないことはたしかだろう。 メディアのなかの映像表現、とくに広告における表現に隠されたこのアンフェアさに鋭く切り込んだ書物といえば、やはりウィルソン・ブライアン・