架空の地名と血族 『昏き目の暗殺者』『アブサロム、アブサロム!』『消去』

土地は恐ろしい。国家というものがそうであるように、土地とは暴力の限界域のことでもある。その主権と暴力の及ぶところと及ばぬところの、その広がりをわれわれ近代人は「土地」と表現する。自然状態の山や川や平野は「土地」とはいわない。人間が自然に介入し、所有の観念をもってはじめて自然の大地が「土地」となるのだ。マックス・ウェーバーは国家を「ある特定の領域において正当な暴力行使を独占する」ものだと規定している。「ある特定の領域」を指呼する土地がなければ国家は現在のかたちではありえないし、戦争ももっとずっと少なくてすんだはずである。
経済という、近代国家にとってもっとも重要な問題が発生する以前には、民族という組織単位が土地を収奪し管理し相続していた。経済がいまよりもっと小さな社会で成立できていた時代には、土地こそが民族や国家の最重要課題であり、民族そのもの、国そのものでもあったのだ。
民族をもっと細かくわけると、血族となる。だから血族や家族はつねに土地と結びついている。都会に出てきた地方出身者が思い描く「ふるさと」のイメージは、つねに血族のことであり土地そのもののことだ。出自の過去から逃れようとするものは、つねに自分の中の「血」と「地」に対して戦うことを余儀なくされる。
だから作家は自分や登場人物の中にある「血」を書き出そうとすると、土地は避けて通れないファクターとなる。逆に土地というものを描くには、そこに生きる家族を通してしか描写ができないのだ。そして土地を書き出すとは、国家や民族がそうであるように、どこか暴力と呪詛の暗い影がつきまとうのだ。
今回は、「血」と「地」にまとわりつくその暗い影を見事に書き出した3作品をご紹介しようと思う。どれもすばらしく奇妙な架空の地名を与えられた土地が舞台である。地名が架空なのは偶然ではない。実際に存在する土地では、彼・彼女らが書き出す血と暴力と呪詛の重みに耐えきれないからだ。


『昏き目の暗殺者』マーガレット・アトウッド
架空の地名「ポート・タイコンデローガ」

「昏き目の暗殺者」は、死の近い老婦人アイリスが、自分の体験したチェイス家での5世代にわたる悲劇を、あうこともない孫娘のマイエラが自分の死後に発見してくれるよう手記にしたためたという体裁をとっている。祖父母の話、街一番の名士で釦工場を経営する父の話、母の死の話、釦工場が労働運動の激化で失敗する話、住み込みの家政婦リーニーの話、事業の失敗により父のライバルであるグリフェンに嫁ぐことになった話、そのために別れた恋人の話、家出したきり帰ってこない娘の話など、架空の土地ポート・タイコンデローガのほぼ100年近い歴史を語るアイリスの手記が主軸である。
しかしそこに妹ローラの死が絡む。妹ローラは、戦争終結の10日後に車ごと橋から転落し死亡した。事件は事故死と判定されたが、アイリスは父に「どんなことがあっても面倒をみてくれ」と約束させられた憎むべきローラの死を自殺だと判断する。80才のアイリスは考える、ローラの死が意味するものはなんだったのだろうか。
さらに妹の死後出版された小説「昏き目の暗殺者」が今やカルト的な人気をよんでいる。そこには身分の違う男女の不倫が書かれており、作中で男は女に自分の構想するSF小説の話をする。不倫する彼らのモデルはいったい誰なのか。ローラの死は本当に自殺だったのだろうか。そもそもローラが書くポート・タイコンデローガとチェイス家没落の歴史は本当なのだろうか。なぜマイエラはこの手記を読まないのだろうか。
アトウッドは「現代文学の総決算みたいなものを書きたかった」とあとがきでのべているが、血族の憎しみや愛を中心としながらも、3重、4重の入れ子構造の各階層をミステリ、ファンタジー、SF、ロマンスと多方向の要素にあてて多重層の物語として成立させている。ローラの毒舌も読んでいると心地よくなってくるが、基本は没落する家族の秘密と悲劇の物語である。最後にすべての秘密が明かされるのでミステリー的な読み方でもスッキリする。



 『消去』トーマス・ベルンハルト
架空の地名「ヴォルフスエック」

小説を読んでこんなにビックリしたことはない。比べるべきものもないのでよいとか悪いとかの価値判断がまったくできなかったのだが、読み進むにつれてますます驚きが大きくなる。上下巻あわせて700ページ以上の小説で、ただの1回も改行せずに、ただひたすら自分の産まれた土地ヴォルフスエックと家族とドイツへの呪詛を延々と語っている。それは自己の否定であり血の否定でもあり、世界の否定でもある。ここには心休まる一切のものが存在せず、否定と消去と死だけが無限に反復される地獄である。
物語は、ローマに住む主人公ムーラウが、いなかの兄と両親が自動車事故で死亡したという電報を受け取り、いままで近づきもしなかったヴォルフスエックに葬式参列のため帰郷する、というただそれだけの話である。上巻では電報を受け取り葬儀にでる決心がつくまでのほぼ一日を、下巻では葬儀のためヴォルフスエックを訪れた1昼夜を書いている。
とにかくあり得ない小説である。特に予備知識の一切ない状態で読み始めたボクは、上巻の終わりにくるまで、読みながらその内容が信じられなかった。まさかこのまま最後まで行く小説なんか絶対ないよね、と思いながら読んだ。手法があたらしいとか、文体が画期的だとかいうのではない。こうまで絶望的で呪詛と否定と死の影に覆いつくされた極限の小説なのに、読み始めると止まらず、いっそ「楽しい」と表現してしまってもよいぐらい驚異的な世界を創り出すことに成功し、その無謀な作品の企画を成し遂げている。死ぬまでにもう一度読みたいとさえ思うのであった。



『アブサロム、アブサロム!』ウィリアム・フォークナー
架空の地名「ヨクナパトーファ」

小説を評する際によく「ストーリーを話してもしかたがない」などと言うが、フォークナーのこの小説は、実際そうするか、あるいは徹底的にストーリーを追い、恐るべき主人公サトペンを中心とした詳細な家系図を作り、ヨクナパトーファの俯瞰図を描き、想像を絶する事件の年譜を用意する以外に方法はない。とうぜんここではそうするスペースも時間も能力もないため、前者の方法をとるしかない。
主人公サトペンはインディアンからだまし取った縁もゆかりもない広大な土地、ヨクナパトーファに黒人奴隷をひきつれて突如あらわれ、まったく新しい血脈をここに誕生させようとする。しかしはじまりから呪われた血は、何世代にもわたって狂気の復讐を受ける。つまりこの小説は「血」の物語である。ライフル銃で撃つと飛び散る「血」でもあり、父から息子へ、あるいはたとえ誕生とおなじ日に殺される名もなき嬰児だろうとかわらず受け継がれる「血」でもあり、白人にも黒人にもかわらずながれているはずの「血」の物語である。
そして主人公サトペンをはじめすべての登場人物が過剰であり、すべてがその内をながれる血によって呪われており、すべてが暴力の臭いに包まれており、すべての登場人物が物語りがはじまる時点で死に絶えている。
ニューヨークやカリフォルニアはアメリカというスープの上澄みだ。その鍋の底には南部という得体の知れないドロドロとした澱や残滓や芥が体積しており、フォークナーはそれを人類が共通に持つ人間の原罪にまで煮詰めたのだ。最後まで読み終わると、ヨクナパトーファという地名はその人のなかで暗く暴力的で呪われた第二の「ふるさと」となるだろう。

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