メタ推理小説 『哲学者の密室』『虚無への供物』


うどん好きは、週に10食とかただひたすらうどんを喰うのに専念するのに対して、蕎麦ずきは喰う量は少ないくせにやたらと文句をいいたがる。割合は二八がいいとか十割が最高とか、薬味はどこどこのワサビにしろとか、つゆには半分しかつけたらいけないとか7割までつけろとか、そば湯をつかうのは最初だとか最後だとか、噛むなとか噛めとか、挙げ句の果てには蕎麦を入れる器にまでいちいち好みを言い立ててやたらとうるさい。おなじ麺類だが、うどんと蕎麦ではこうも好きになる人種がちがうのかといつもビックリする。さらに言うと、うまいうどん屋は流行り、店もおおくなり全国にひろがるのに対して、うまい蕎麦屋はつねに1店舗だけである。どんなにうまくてもフランチャイズしている蕎麦屋の蕎麦を「うまい」とは絶対にいいたくない、蕎麦ファンにはそんな捻れた心理があるようだ。

蕎麦とおなじぐらいボクも推理小説が好きで比較的よく読むのだが、推理小説ファンには蕎麦ファンに通じる「頑固さ」「めんどくささ」があるように思う。
いわく、推理小説には他のジャンルには存在しない「流儀」というものがある。その最たるものが推理小説作家でもあるヴァン・ダインの「推理小説20則」である。
「20則」では犯人に設定してよい人物の職業、探偵役の人数、事件解決方法、プロットの立て方、やってはいけないトリックなど、推理小説にかんするさまざまな禁則が語られている。なかには「推理小説は犯人を正義の庭に引き出すことであり、男女を結婚の祭壇につれてくることではない」と、推理小説内でロマンスを語ることを禁じる内容さえあり、読んでいると頑固じじいの遺産相続にかんする遺書かなにかのような印象さえもってしまう。もし「蕎麦ずき20則」みたいなものがあれば、きっとこうなっていたろう。
かといって、じゃあ推理小説ずきの読者はそういう風潮に辟易しているかというと、そうでもない。あんがい嬉々として20則的な「頑固さ」を受け入れている。

他の小説ジャンルにくらべると、推理小説には「作者対読者」の構造が目に見えて顕著である。作者は読者をだまし「あ、そうか!」と言わしめるのを仕事とし、読者は作者の意図を先読みして「犯人が読めた!」と言いたいがため貴重な時間とお金をかけて読書にはげむ。だから推理小説にはつねに対決の緊張感があり、その緊張感に興奮をおぼえるようになると、さらに難敵をめざして精進しようと思うようになる。
その結果、蕎麦ずきと通じる、求道者たちの「頑固」で「めんどくさい」かんじの小さく硬質の世界ができあがってしまう。それは閉じられた狭い社会でもある。シェークスピアやゲーテが毎年あたらしい若い読者を獲得しつねに社会のなかで成長していくのに対し、推理小説はおなじ少数の読者が熱烈につきしたがう世界である。
また、「推理小説とはなにか?」という疑問がヴァン・ダイン以外にもおおく示され書かれていることからもわかるように、蕎麦ずきが蕎麦そのものよりも蕎麦を食す文化を批評し形成しようとしているのとおなじで、推理小説ずきは推理小説そのものを論じるのがすきである。うどんずきがだまってうどんを食べ続けるのとは対照的である。
だから作者対読者の熾烈な戦いのもっとも激しい前線を勝ち抜いてきた勝者たちは、自ずと「メタ推理小説」という世界をつくりあげるのである。推理小説そのものと、推理小説とはいったいなんなのかという自己認識が混合し、不可分になり、それがひとつの推理小説という作品に再度、結晶化されるのである。そうなるともう昨日きょう推理小説を読みはじめた人間にはとうていついていくことのできない硬質のミクロコスモスができあがる。そこには自己認識の逡巡や古典への愛の告白や敬愛する探偵のパロディーやオマージュがてんこもりになっている。素人にはまったく意味がわからない部分を読んで「クスッ」と推理小説ファンが笑うのをみたら、きっと素人は推理小説の世界から逃げ出したくなるだろう。もっとも前線に位置する、硬派で超知的な推理小説とはそのような世界である。

そのなかでも、読解力と知的推理力さえあれば推理小説の素人でも楽しめる作品もあるにはある。推理小説オタク臭を消し去ることに成功した、しかし徹底的に推理小説オタクでしかなしえない作品が、ボクはすきなのである。読みながら「ほんとドおたくだな、この作者」とほくそ笑みながら読むのである。それもじゅうぶんキモいのであるが。



『哲学者の密室』笠井潔(ちょっとネタバレ)

創元社の創元推理文庫版で1182ページ、まるでレンガのような文庫本である。重さをはかると574グラムもある。こんな文庫、推理小説でしかありえない。「上下巻わけずにぜひ1冊で」という作者の強いこだわりをかんじ、それを受けて立とうとする読者の戦意が分厚さと重さという数字に表れてしまっている。暇つぶしになんか読もうかなと考えながらふらっと立ち寄った本屋で、この本を選ぶ人は絶対いないだろう。ましてタイトルが『哲学者の密室』である。しんどすぎる。
中身はもっと「しんどい」ものである。現代時制の1970年代のある日、パリの富豪ダッソー家で殺人事件がおこる。しかし死体のあった場所は外部から施錠され、その部屋に通じるすべての通路と窓は完全に密閉された状態であり、さらにその部屋はダッソーにより厳重に監視されていた。今作で4回目の登場となる主人公、矢吹駆は、ダッソー氏とその屋敷に滞在するすべての客が30年前にナチスのコフカ強制収容所に収監されていたユダヤ人であったことをつきとめる。これと平行して、30年前の強制収容所でおこったおなじ3重の密室殺人事件が語られる。
主人公、矢吹駆の得意とする現象学的本質直感は、フッサールの現象学をもとにした現象理解から本質を導き出す思考方法である。哲学者三木清の孫であるという設定の矢吹は、とうぜん三木清とおなじくフッサールを師とし、三木清と同学であったハイデガーとも対決することになる。本作で「ハルバッハ」と微妙に名前を変えたハイデガーは、ナチス荷担と強制収容所への認識というハイデガーの思想的遍歴の最大の謎をあきらかにしていく。現象学から影響を受けた矢吹が、そのもうひとつの哲学的成果であるハイデガー哲学と、ナチス強制収容所という人類の最大の問題を中心に哲学論争をくりひろげるのである。それは作者である笠井潔のハイデガー認識の成長のようでもあり、ハイデガーを乗りこえる苦しみでもあるようにかんじられる。それを、笠井潔という作者はニヤッとするほど古典的な密室殺人事件という推理小説のセオリーの枠内でおこなおうとする。もはや犯人がだれなのかという推理よりも、ハイデガーほどの哲学者がなぜナチスに荷担してしまったのか、という謎が興味をよびおこす。その謎を解くためには、ダッソー家の密室殺人を解かなければならないし、ダッソー家の密室殺人を解くためには、30年前のコフカ収容所での密室殺人を解かなければならない。『哲学者の密室』は、もはやメタ推理小説というよりは、ぎりぎり推理小説の枠に収まった重厚長大なハイデガーとナチスにかんする思索逍遙といったかんじである。ハイデガーの発言がすべて作者の想像であるのとおなじで、このナチスとユダヤ人迫害の物語はあくまでもフィクションであるのだが。
にしても、とにかく長すぎるのである。作者対読者もここまでくればもう消耗戦というか、兵糧攻めの勢いである。この本には、この世のもっとも難解な哲学思想のひとつをつぎこみ、あるジャンルにおけるすべての知識を開陳して敵を迎え撃つ作者と、ハイデガーの『存在と時間』にかんする思想的な独白をするりと読み抜け、さらにはドイツ観念論とナチス思想を援用して真犯人を言い当てようとする読者との、どちらかが死ぬまで戦おうという意気込みが伝わってくる。とんでもないがそんなものに付き合っていられるわけがない。普通の読者はとっとと逃げ出してしまうだろう。哲学がわかり、ハイデガーの『存在と時間』を読んだことがあり、ドイツにくわしく、ナチスと強制収容所の予備知識に事欠かない、かつ高度な推理小説ファンが納得する本である。そんな人、日本にたぶん1000人もいないだろうが。それほど高いところにいる読者を意識した小説なのである。



『虚無への供物』中井英夫(ネタバレ)

夢野久作『ドグラ・マグラ』、小栗虫太郎『黒死館殺人事件』とならんで「日本三大奇書」とよばれているらしい。奇書ならもっと他にあるだろうが、ミステリーでいうならこのあたりが妥当な3冊だろうか。なかでも『虚無への供物』は物語としては異常なところはみられず登場人物も常識的な人間たちで、『ドグラ・マグラ』のような実験的手法による構成の混乱も、『黒死館殺人事件』のような膨大なペダントリーで読者をまどわすこともなく、3冊中いちばん読みやすく現実的な物語である。しかしそこにふくまれるメタ推理小説へのこだわりは並大抵のものではない。作者みずから「アンチ・ミステリー」と言うように、このミステリーは、推理小説という枠組みで推理小説そのものに言及し、推理小説そのものを破壊しようとする壮大なひとつの計画なのである。
1954年12月10日、下谷にあるゲイバーで、サロメの7つのヴェールを踊る舞台から物語ははじまる。かつては宝石商として財をなした氷沼家末裔の紅司は、まだ書き始めてもいない推理小説の筋書きを主人公亜利夫に話す。その物語ではAがBを殺し、BがCを殺し、CがDを殺し、生前しかけたAのトリックによってDが死ぬという円環をなす殺人事件である。洞爺湖丸事件で父と母と叔父をなくした氷沼家の紅司、蒼司、いとこの藍司と、叔父の橙次郎は目黒の氷沼家でくらしている。氷沼の遠い親戚であり後見人でもある藤木田老と亜利夫が氷沼の家に滞在中、風呂場で紅司が死んでいるがみつかる。みつけたのは紅司の指示で買い物にでかけていたじいやであった。密室であった風呂場に横たわる紅司の背中には、SMプレイでうけたとおもわれる傷痕があった。
もともと異常なミステリーずきの面々は、亜利夫を氷沼に紹介した友人の久生もまじえて、紅司殺害トリックの推理コンペを開催する。亜利夫は5つの不動明王と5つの棺をもとに、玄武、朱雀、青龍、白虎、黄の色の由来と氷沼家の人間におおくつけられる色にちなんだ命名を殺人の由来とし、最期は不動明王の使者であるコンガラ童子の殺人であるという荒唐無稽な説をたてる。久生は紅司たちには叔母がおり、その子どもが名を黄司ということをつきとめてくる。黄司は広島の原爆投下により死んだとされているが実はいきており、氷沼家への恨みにより紅司は感電死させられたのだという。藍司の説では、死体発見直後、紅司は実は死んでおらず、第一発見者のじいやの協力によりみなが場をはなれたすきに別の死体とすりかえたというのである。
ここで藤木田老が口をはさむ。久生と藍司の説は「ノックスの十戒」を破っているというのだ。「ノックスの十戒」はイギリスの推理小説家ロナルド・ノックスが推理小説を書く場合にしてはいけない十箇条をしたためたものであり、また藤木田老は各々の説を乱歩の『続・幻影城』をもとに分類して整理してみせるのである。作中に発生した殺人事件の犯人を推理するコンペを作中人物たちが開催するのもひどくおかしなことであるのに、さらにその会話ではノックスや乱歩といった推理小説作家の規範や体系が話されるのである。
その後、氷沼家で麻雀大会が開催される。藤木田老と亜利夫はあらかじめ下打ち合わせをしておき、必ずどちらかが麻雀卓から抜けるように示し合わせ、全員を監視するチェック表までつくる。にもかかわらず、先に麻雀から抜けた橙次郎が2階の自室で死んでいるのである。紅司のときと同じく橙次郎の部屋は密室状態であり、いつのまにか開いていたガス栓から出た中毒死であった。
再度、推理コンペのような会合がひらかれる。亜利夫はフランスのグランギニョールと自動人形というまたもや荒唐無稽な説しか提出することができず、犯人の指名もかなわない。久生はガスは天井にあけられたシャンデリアの穴から出ていたことを推理し、犯人は最初に部屋に入り、ストーブのスイッチを切った者だという。藍司は紅司の日記に登場する鴻巣玄次という男が麻雀の最中に橙次郎を睡眠薬で眠らせ、ガス中毒で殺害したあと部屋に運んだのだという。
その後、氷沼家の叔母が入居する老人ホームが全焼する事故がおきる。しかしそこにあった死体の数がどうしても1体おおいのである。また氷沼家に出入りしてた番頭の八田が、鴻巣玄次とおもわれる男のアパートで言い争いをし、密室のはずのアパートで鴻巣の服毒死体だけのこして忽然と姿を消すという事件が発生する。
五色不動明王、黄司生存説、ゴーレム説と、パリから帰国した久生の許嫁、牟礼田をまじえてさまざまな説が話されるが、どれも完全に合理的説明のできる推理ではない。
そんなある日、藍司が帰宅すると死んだはずの黄司が氷沼の屋敷で待ち構えている。黄司の正体は作品冒頭7つのヴェールのサロメをおどったゲイのおキミちゃんであった。殺された八田の死体とともに、機械式首つりエレベーターにかえられたシャンデリアに藍司は吊される。もうすぐ絶命というところで警察をつれて牟礼田が踏み込み、黄司は逮捕されるのであった。なんだ、そうか! と思ってると実はこれ、紅司がアイデアをのこした推理小説を引き継いで、牟礼田が書いた作中作のフィクションである。ここでまた相当してやられた気持ちになる。いっぽう亜利夫は事件後、精神分裂症で入院していたじいやのもとへといく。じいやは不動明王と仏説聖不動経に事件が書かれていると亜利夫に告げる。じいやは狂ってはいなかったのである。
財政逼迫により氷沼家離散となり邸宅を売り払うことになった蒼司たちは、最期にお別れのパーティーをひらくことにする。パリへ帰るという牟礼田を同席させて、パーティーの席上、最期の推理が展開される。各人が犯人を指摘したあと、とうとう犯人の口みずから、事件の真相と動機があかされる・・・。
『虚無への供物』には実にさまざまなイメージと事件解読のキーとなる観念が提示される。仏教、精神分裂病、植物学、遺伝子学、色彩学、アイヌ伝承、蛇神話、五色不動、東京の地名、青い薔薇、ゴーレムやグランギニョールなどの自動人形、ゲイ、SM、シャンソンと実にさまざまである。それは推理小説ずきの登場人物が語る推理というかたちをとることで、1冊の本に入れ込める限界を目指してかつ破綻をしていない。さらにこの小説には引用、パロディ、オマージュといった過去の作品への言及がちりばめられている。『不思議の国のアリス』や『アッシャー家の崩壊』などは作品のアイデア段階で参考にしただろうし、オルダス・ハスクリーや乱歩、ヴァン・ダイン、ロナルド・ノックス、アガサ・クリスティー、久生十蘭などの名前は作中で何度も話されており、なかには『ドグラ・マグラ』『黒死館殺人事件』の名前もまことしやかに語られるのである。
しかしこの作品がもっともユニークなのは、アンチミステリーを目指すためにミステリーの形式をとり、さらにミステリーの枠組みそのものをこえたところである。そこがメタ推理小説である所以でもあるのだ。ラストで犯人が語る台詞は、物語そのものがミステリーという本の体裁をとびだして読者を引き込む仕掛けとなっており、事件解決後、亜利夫は今回の事件を推理小説にしようと話す。しばらく考えたあと、亜利夫は物語をサロメをおどるゲイバーから書き始めようというのである。
ここまでくれば超硬質なミステリーとメタミステリーファンも満足であろう。ヴァレリーの詩句からその題名をとり、生涯推敲を重ねたというこの小説、物語の本質的な部分においてこれで不満足であれば、あとはもうご自分で書くしかないかもしれない。
(敬称略)



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