イデオロギーによるリンチ殺人 山本直樹『レッド』・ドストエフスキー『悪霊』・山城むつみ『ドストエフスキー』


1969年末から702月にかけて、「山岳ベース」とよばれる山中の「アジト」に潜伏した連合赤軍の中核組織「革命左派」の若者ら30名は、「総括」とよばれる他者批判と自己批判運動による「思想点検」から発展した暴力行為によって、アジトこもる30名中の12名を集団リンチによって殺害した。その前年の東大安田講堂陥落いらい国民の支持を喪失したこれらの新左翼は、強硬姿勢を強めた警察の検挙もあってますます過激で硬直した組織へと坂道を転げ落ちるように転落し、ついには社会改革とは似ても似つかぬテロリストとなり、おたがいを殺しあうようになってしまったのだ。
その殺害方法がまたおぞましい。生きたまま縛りつけアイスピックを突き刺したうえで厳冬の屋外に放置する、食事を与えずロープでつるしたまま何日にもわたって殴打される。なかには妊婦を殺害後、腹部を開いてその胎児をとりだそうとさえしたものもあったらしい。俗に言う「山岳ベース事件」である。
そのなかのさらに先鋭化した5人が群馬県側に逃げ、軽井沢の浅間山荘に人質をとって立てこもった。これが「あさま山荘事件」である。
その過激すぎる思想、殺害の残忍さ、殺人の動機がイデオロギーであったこと、また彼らのほとんどが高学歴の優秀な大学生であったこと、また浅間山荘での立てこもり事件がテレビによって大々的に生中継されたはじめての報道であったことなどから、日本犯罪史上類を見ない事件といわれている。
だからこの事件をテーマにした文学作品や映画がおおくつくられている。軽い気持ちで引き受けられるようなテーマではないので、どの作品も質的に相当重いものばかりである。
もっとも有名なのは立松和平の『光の雨』だろうか。もはや老人となった、山岳ベース事件に関与したもと連合赤軍メンバーの語る記憶、というスタイルで物語がすすむ。
最近では雑誌「イブニング」に連載中(2012年1月現在)の山本直樹のマンガ『レッド』がある。物語の端々に最終的な悲劇を彷彿とさせる描写(殺される順番に登場人物に番号が振ってある、副題が19691972など)があるが、全体的に感じるのは、異常な思想の極悪犯罪者を描くのではなく、まるで学生の群像劇のように描写する山本直樹一流のその「クールさ」である。

映画で特筆すべきは熊切和嘉の『鬼畜大宴会』だろうか。内ゲバのすえに、切断された手首から噴き出す血潮、切りとられるペニス、散弾銃で吹き飛ばされる女性器と、イデオロギーもへったくれもないZ級のグロテスクな描写が連続する。この映画の観客は、そこで起こっていることの背後にどのような思想やまたは誤謬があったのか推測する必要を感じない。それどころか、観客にとっては殺し合いをする彼らが左翼なのか右翼なのかさえ関係のないことなのだろう。 映画は事件のなんの核心にも触れることなく強烈な後味の悪さを残して終わる。しかしバブル崩壊を越えた不気味な安定期に育つ90年代の学生には、もはや「あさま山荘事件」は、グロテスクなゴシップでしかないのかもしれない。そういう意味でならこの映画は事件のまったく新しい解釈といえなくもない。
最近のものなら2002年に公開された『突入せよ! 浅間山荘事件(原田眞人監督)』が記憶に新しい。当時、警視正であった佐々淳行の原作を映画化したものだから、その視点はとうぜん一方的である。一方的な視点がいけないわけではないが、映画をみるとこの事件をあまりにも単純明快に描いていることに驚愕する。こんなにも複雑きわまりない事件をここまで単純化して、観客をどうしようというのか。一国の政府要人の昔語りをそのまま映画にするには、佐々淳行をこえる対抗イデオロギーへの理解がいるだろう。理解もなくテレビの「再現フィルム」みたいなものをつくったって、それをどんなに豪華なキャストで飾ったって、あの忌まわしい日本近代史の汚点に言及したことにはならない。事件のいかなる核心にも触れなかったという意味では、『鬼畜大宴会』の足元にさえおよばない駄作である。むしろ事件そのものを単純化し、いまだ日本人が解決も理解もできていないあの事件を曖昧に体よく風化させる効果しかこの映画にはない。
この映画をみて、映画監督の若松孝二もおなじようなことを感じたらしく、私財を投げうって『突入せよ! 浅間山荘事件』に対抗する作品をつくった。それが『実録・連合赤軍 あさま山荘への道程』である。ジュール・ヴェルヌの『十五少年漂流記』の偽善的で理想主義的な結末にイライラしたゴールディングが、それとおなじ登場人物と舞台と条件であの恐るべき傑作『蝿の王』を執筆したのとなりたちがにている、と思う。奇しくも若松孝二の描いた新左翼の若者らのおぞましく血塗られた結末は、『蝿の王』の子供らによる凄惨な殺し合いの、その理由と動機を同じくしている。


だが、左派系思想のリンチ殺人でいうなら、そのちょうど100年前の1869年にロシアでおきたネチャーエフ事件が嚆矢だろう。
「世界革命同盟」という架空の左翼組織を名のったセルゲイ・ネチャーエフは、次第に激化する内ゲバから同志であるはずのイワン・イワーノフを裏切り者と断罪しリンチ殺人をおこなう。
ちょうどおなじころ、スイス・ロカルノで無政府主義者のバクーニンはマルクスのロシア語訳に難渋していた。スイスに2度目の亡命をしたネチャーエフは、そのロシア語訳の依頼者を恐喝して翻訳作業をやめさせ、バクーニンにたくみに取り入って資金提供の約束をとりつける。ネチャーエフのリンチ殺人が発覚しロシア警察に拘束され、彼と完全に手を切ったあともバクーニンはこういう。「彼はおそるべきエネルギーを秘めていた」と。(山城むつみ『ドストエフスキー』)
おなじ左翼革命思想家であり、おなじ反社会的活動であり、おなじリンチ殺人者であるのだが、ネチャーエフ事件と日本の連合赤軍の「山岳ベース事件」とでは、あるなにかがまったくちがうような気がする。むしろ「山岳ベース事件」は、21世紀をいきる日本人のわれわれの目には「オウム真理教事件」と重なって見えてくる。一方、ネチャーエフ個人にはじつのところ理念もイデオロギーも存在しなかったのではないかと思えるのだ。彼にはただひたすら悪にはしる暗い情念があっただけなのではないか。しかしバクーニンは後日「あれをペテン師だと見ては誤る、彼は献身的な狂信家なのだ、あまりに献身的、あまりに狂信的だから、周囲に不幸な結末を招かずにはおかない、そういう危険な行動家なのだ」とイギリスの同志に警告していたそうだ。(『ドストエフスキー』P.110


「山岳ベース事件」や「あさま山荘事件」が数々の文学作品や映画をうみだしたように、社会主義誕生の時代にその暗い未来を予言するようにおこったネチャーエフ事件は、ドストエフスキーに世界的名作『悪霊』を生みださせた。作中登場する無政府主義者のピョートルは、農奴の息子で汎スラブ主義者のシャートフを「5人組」とよばれる反政府秘密結社の仲間とともに殺害する。ピョートルのモデルはネチャーエフであり、シャートフのモデルはイワーノフである。しかしドストエフスキーは過激な思想につかれた若者たちの暴走を、ただ単に新約聖書「ルカによる福音書」の悪霊に取り憑かれ溺死する豚の群れに見立てたのだろうか。大昔に読んだ新潮社版文庫の背表紙にはそのような意味のことが書かれていたので、まだ若かったボクはどうもスッキリしない違和感をもちながらも、そういうことだと思って読んだものである。
そのあたりのことも、山城むつみの『ドストエフスキー』は氷解してくれるのである。作者は書いている。「ネチャーエフ事件のような忌まわしくおぞましいリンチ殺人事件を起こした学生達は感受性を失った無教養な不良連中だったにちがいないと言う良識派の意見に対してドストエフスキーは、いや、彼らは、人類の未来に関して高邁な理念を抱いた純粋な青年たちだったにちがいないと反論している」。
良識派の考えは悪を特定してしまうことに主眼をおいている。ナチスのホロコースト責任者の裁判をもとに悪の凡庸さに関して考察した『イェルサレムのアイヒマン』をハンナ・アーレントが出版するおよそ100年前に、ドストエフスキーは「悪の特定」こそ危険であると警告しているのである。
「たぶん、私はネチャーエフのようにはけっしてなりえなかっただろうが、しかし、ネチャーエフ・グループのメンバーにならなかったとは保証できない(『作家の日記』)」とさえ、かつては反国家活動で死刑宣告を受けた過去をもつこの大作家は言うのである。ここに山城むつみがバフーチンから援用する「ラズノグラーシエ(異和)」という概念が出てくる。「善をなさんとして悪をなす」悪魔、メフィストフェレス、そして『カラマーゾフの兄弟』のイワンが譫妄症のなかで対話する悪魔の行動はすべてこの「ラズノグラーシエ」である。が、この話は長くなるので別の機会にするとして、問題は「高邁な理念」が「忌まわしくおぞましい」リンチ殺人にかわってしまうことにこそ、「善をなさんとして悪をなす」しかないロシア的な悲劇があり、山城むつみはその悲劇を、本当は喜劇であるものを悲劇としてしかとらえられないところにこそ悲劇である、と言う。つまり、すべてはおもったとおりに運動せず、むしろその正反対に進んでしまうということだ。愛が「或る閾値」を越えることでそれまでの様相を一変させ、「暗い可能性」が漂いはじめ「相手を不幸にし滅ぼす危険性」をもってしまう。この「他者に対する愛の、奇怪な転形」こそがドストエフスキーの描こうとした、すくなくとも『悪霊』の本質なのである。
だからドストエフスキーはけっして「狂信的なものに身を委ねるってこわいぞ、ルカの福音書にでてくる豚たちのように狂って湖に飛び込んでみずから死ぬのだぞ」と教条的に言っているのでもないし、まして無神論的革命思想を身近な事例で戒めているわけではない。『悪霊』は『罪と罰』の焼き直しではないのだ。
現在われわれの持ちえている一般的な思想や道徳に照らし合わせて『悪霊』を読むとき、そこにはかならず山城むつみやバフーチンの言う「ラズノグラーシエ」が発生する。むしろそういう仕掛けがこの小説には埋め込まれているのだ。
この「ラズノグラーシエ」はドストエフスキーの後期長編群をつらぬく強力な読解グリッドである。自身の強固で高邁な哲学思想のために高利貸しの老婆を殺害し、しかしその殺害という「行為」によって思想そのものが崩壊し最終的にはより形而上的な「魂の救済」にいたる『罪と罰』のラスコーリニコフも、またやっていないはずの父親殺しにおびえるイワンもみな「ラズノグラーシエ」というグリッドで読解することができる。みな、はじまりは「善をなす」意志であり、むしろなにかに対する愛であったはずである。ドストエフスキーの登場人物たちはみな望まずして暴力や不幸や破滅に転落していく。愛が奇怪な転形を越えて、破滅につながる暴力をうみだすのである。この善の意志を超越してしまう悪の「行為」こそが、「ラズノグラーシエ」であり、ドストエフスキーであり、『悪霊』であるのだ。そして、それはまるで連合赤軍のようでもある。100年後の未来におこるより複雑で不気味な事件を予見していたかのように、『悪霊』のスタヴローギン、ピョートル、キリーロフ、5人組のリプーチンらは、みな破滅するのだ。
この深遠すぎる『悪霊』という小説を、たんに無神論的革命思想に狂信した若者たちを悪霊に取り憑かれた豚の群れに見たてたものだと表面的に理解するのなら、なぜ彼らはシャートフ/イワーノフを殺さなければならなかったのか、なぜそこまで追い詰められたのか、どうして人間はこれほど不合理で悲劇的な行為をくりかえすのか、そもそもわれわれに善はなしうるのか、といったいわゆる「魂の救済」へいたる思考の道はひらかれないだろう。
だとしたら、その後のふたつの世界大戦やナチスのホロコーストやスターリニズムや文化大革命やポルポトのジェノサイドや東西冷戦やパレスチナ占拠や同時多発テロやイラク戦争などの奇怪な悪を越えてきた、その100年後の実事件であればなおのこと、「凶悪なテロリストが殺し合いしたうえに人質をとって立てこもったのを警察が逮捕しました」という単純化された「お話」で連合赤軍事件をまとめてしまうことが、かえってつぎの新たな狂信的な若者をうむと考えてもよいのかもしれない。
(敬称略)



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