脳の中の絵画 『百頭女』『ブレイク伝』『幻想芸術』ほか


古代においては書物は口述の代用品でしかなかった。だから書物を読むという作業は声に出して(しかも多くは多人数で)音読することであった。文字が耳から入る音声記号に置き換わり、音声記号が脳の中で意味となった。
それをアウグスティヌスの師であるミラノの司教、聖アンブロシウスが声を使わず「読書」することを始めたのだ。アウグスティヌスは彼が誰にも邪魔されずに膨大な書物を読むにはそのほうが効率がよかったこと、また掠れがちな自身の喉を守るためでもあっただろうと彼の偉大な著書「告白」のなかで、この不気味な読書方法を用いる男を見たときの驚愕を書いている。(ボルヘス「続審問」 - 書物崇拝について)
アンブロシウスは、音声記号を通さずに、文字から直接意味に移行する手段を手に入れたのだ。
今では、読書と言えば黙読のことである。そして書かれた文字がそのまま脳の中で意味となり、あるいはイメージとなる。読書したあとに残るそのイメージを絵画にする画家もいる。読書がつぎには意味を飛び越えて「絵」となるのだ。
われわれが眠っているときにみる夢はほとんど絵画である。あれは音声記号でも言語でも、まして「意味そのもの」でもない。起きているときに入力された音声、言語、文字、記号が、寝ているときに絵画となるのだ。
子どもは文字だけでは書籍の意味をくみとることができない。だから絵本には絵がかかれており、絵の多い本は対象年齢の低い本とされる。
つまり、絵画とはもっとも脳に近いところにある「意味」である。その周囲を言語や音声認識が取り巻いており、われわれは常にその周辺部分で意味を論じているのだ。だから絵画に「意味」がないというのは間違いである。脳の中心部分で発生したものを、その周辺部にある言語や記号で論じたり説明しようとすることが不毛であるように感じられるのだ。
ここでは、脳の中の絵画を論じるという困難なその仕事を達成した数少ない成功例を集めてみようと思う。




「百頭女」マックス・エルンスト

タイトルに意味はない。ボリス・ヴィアンの「北京の秋」みたいなものだ。ボリス・ヴィアンは反抗的精神で本編にまったく関係のないタイトルをつけたが、こちらはシュールレアリズムとしてそうしたのだと思う。もちろん「百頭女」という言葉は作中に出てくるが。
全編、版画とそれに付帯された短い言葉のみ。最初のページから順を追って読み進めることが非常に難しい書籍である。かといって枕元に置いて寝る前に1ページずつ読むにしては奇怪すぎる。この書籍自体が夢のようだからだ。



「ブレイク伝」P・アクロイド

ウィリアム・ブレイクの伝記は多いが、その作品、人物、時代、信仰と、すべてをバランスよく書いている、という点ではアクロイド版ブレイク伝が白眉のようだ。
ボクは絵画に関して論じるほど知識もセンスもないのだが、幻視者としてのブレイク、世紀末ロンドンのブレイク、多くの作家や詩人が影響を受けたというブレイク、そのブレイク自身に興味があるのだ。



「幻想芸術」マルセル・ブリヨン

写実と比べたとき、幻想絵画は脳を生まれ故郷にしていると言うことができる。だから逆に言うと、幻想絵画にかかれた意味を探ろうとすると、おのずと作者が隠したエピソードを探すという、一方では無限、もう一方では陳腐な解釈しかできなくなってしまう。これが古いことわざや格言をもとにしたというのであれば問題はないかもしれない。しかしボッシュのような「自由な精神の教団のアダム派」に属してたといわれる異端思想の影響下にある画家や、ブレイクのような幻視者が相手では、倫理性や格言の解釈のような方法や努力では不可能だろう。ではどうすればいいのか。そのためにマルセル・ブリヨンはこの本を書いたのだろう。


「ミンスキー博士の脳の探検」マービン・ミンスキー

認知とはなにか、脳の中でイメージやアイデアが産まれるとはどういうことか、心的活動とはどのような動きなのか、ミンスキー博士はそういった疑問におどろくほど平明に、しかも時には図説で説明してくれる。絵を描くロボットのプログラムはできても、自分が絵を描くことを説明できる人間はほとんどいないのである、ということがわかる。
まずこの本を読んでから「幻想芸術」や「ブレイク伝」を読むと見えるものが違う気がする。



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