図書の悲劇 -4  『バベルの図書館』


承前)
「バベルの図書館」ボルヘス

ボルヘスは「数分で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である」と言って生涯長編小説は書かなかった。ボルヘスの魅力は、研ぎ澄まされた語彙の選択、数少ないためにかえって意表を突く不思議な隠喩、直線的で理論的な修辞など、その文体に負うところも多い。作品の長短も非常に重要な要素となる。基本的にボクは長編好きだが、長いボルヘスは考えられない。この短さの上に載るプロット、さらにその上に載るレトリックがなければボルヘスへの傾倒はなかったかもしれない。
だからはじめてボルヘスを読む人はその唐突なはじまりに面食らうことが多い。はじまって2行目で意味をつかみ損ねるというありえないこともボルヘスならおこりえる。終わりもおなじように唐突に終わってしまうことが多い。重要なことはとっとと話してしまっているのだから、だらだらと結論めいた話で読者をひきとめる必要もないのだろう。
しかしなかにはもうちょっと説明してくれよ、と思う事もある。このすばらしく有意義な時間をもう少し楽しませてくれてもいいのにと、そう感じるものもある。
1941年に書かれたボルヘスの短編「バベルの図書館」はそんな読了を惜しむ気持ちでいっぱいになる作品である。ボルヘスの短さの美学が結晶化した、と言ってもよいかもしれない。だから逆をいうと凡百の作家ならこれだけの着想をこの短さで終えるはずがないのである。ボルヘスの恐ろしさはそこにあるのだ。

「バベルの図書館」は、図書館ではたらく盲目に近い「死に支度をととのえつつある」司書が書いた手記のかたちをとっている。この司書が「宇宙」と呼ぶこの図書館は、「不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊」でできており、どの六角形からも「それこそ際限なく、上の階と下の階が眺められる」構造をもっている。回廊の配置は「一辺につき長い本棚が五段で、計二十段。それらが二辺をのぞいたすべてを埋めている」。書棚のひとつひとつにはおなじ体裁の32冊の本がおさまっており、それぞれの本は410ページからなる。各ページは40行、各行は約80文字の活字が書かれている。本の背にも文字が書かれているが、内容とは関係がない。内容は、アルファベット22文字とコンマ、ピリオド、スペースのあわせて25文字の組み合わせである。無限の回廊をもつこの図書館には、それら25文字の組み合わせの全ヴァリエーション(「換言すればあらゆる言語で表現可能な一切のもの」)が存在し、今までに書かれた本とこれから書かれる本、そのカタログ、虚偽のカタログ、虚偽のカタログの虚偽性の証明、真実のカタログの真実性の証明、すべての本の注釈、注釈の注釈、すべての人間の生と死の記述、それらすべてのあらゆる言語への翻訳、それぞれの本のあらゆる本への挿入、そして今まさに司書が書いている手記そのものが書かれた本などがあるといわれており、またおなじ本は2冊存在しない。その閉じられた無限の図書館での「古典的な格言」では、「図書館は、その厳密な中心が任意の六角形であり、その円周は到達の不可能な球体である」と伝えられている。
回廊はホールにつづいており、ホールには上下階に移動するための「疲れることのない」螺旋階段があり、左右に二つの小部屋がある。ひとつは立ったまま眠るための部屋であり、もうひとつは排泄のための部屋である。司書が死ぬと回廊にかこまれた通気孔に投げ捨てられ、「遺体はどこまでも沈んでゆき、無限の落下によって生じた風のなかで朽ち、消えてしまう」。

25文字の無限の組み合わせのひとつ

「バベルの図書館」はそのような話である。この巨大で不気味な物語をひとつの大きな暗喩ととらえてさまざまに解釈するのは意外と容易である。しかしこの図書館の巨大さと不気味さが、その結論をつねに虚しくする。
ウンベルト・エーコはこの図書館の物理的な構造と不気味な閉塞感を自著「薔薇の名前」で展開してみせた。さらにそれをジャン=ジャック・アノーが映像化している。
「バベルの図書館」は後生に多大な影響を与えているが、しかしそこに収蔵される本と同じくいまだ納得できる解釈も結論も出ていない。この物語は本好きにとってのバイブル、ただし裏返されたバイブルなのだ。







図書の悲劇 -1 『薔薇の名前』
図書の悲劇 -2 『薔薇の名前』つづき 
図書の悲劇 -3 『眩暈』
図書の悲劇 -4  『バベルの図書館』




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