フィクションとノンフィクションの境界 ブレッソン、ケビン・カーター

フィクションとノンフィクションとの区別は誰もが理解している差である。一方が創作で、一方が事実をもとにしたものだ、と。しかしことはそう簡単ではない。事実を忠実にえがいたフィクションもあれば、創作されたノンフィクションも多い。とくに消費者の気持ちとしては、「実際にあった事件を元にした」とか「歴史的事実を再現」といった言葉はよい表現で、逆にノンフィクションに創作が含まれていた場合の拒否反応はすさまじい。ノンフィクションはフィクションに勝る、といつのまにかみながそう思うようになっている。
写真を例にとるとわかりやすい。土門拳の「絶対非演出」は神秘的なほどの教条として見る人の心を動かすようだが、よくよく考えるとどうして演出がいけなくて、非演出がすてきなのか、きちんと説明できる人は少ないと思う。もちろん土門拳の作品が無価値なのだと言っているわけではない。
ロベール・ドアノーの作品に「パリ市庁舎前のキス」という有名な写真がある。市庁舎前の広場を忙しそうにいきかう人々の中心で抱き合う二人の男女。そこだけが制止したような周囲との対比がすばらしい作品である。しかし最近、この作品が偶然を切り取ったものではなく、キスする男女が俳優で、そういう演技をしてもらったということが発覚すると、いっきょにこの作品の、ひいてはドアノーの評価はさがってしまった。おおかたの感想は「だまされた」といったところのようだ。
ドアノーはすぐれたシャッターチャンスのために1時間でも2時間でもカメラをかまえて待つこともあった。それでも思ったものに巡り会えなかったら、俳優をつかってでも自分の脳の中にあるイメージを実現させたそうである。

ロベール・ドアノー「パリ市庁舎前のキス」
志賀直哉だか川端康成だか忘れたが、あるとき土門拳は作家の肖像写真をとるために書斎でカメラをかまえていた。作家がペンをもち、原稿用紙に書き始めてすぐにファインダーをのぞくと、手前に積んである本が邪魔で手元のペンも原稿用紙もうつらない。その本を移動させればすむだけの話だが、「絶対非演出」の土門拳はその本を動かすことができない。だからそのままシャッターを切ったそうだ。彼は後年「いまでも動かすべきだったのかどうかわからない」というようなことを書いていた。
みなが神経質に、かつ過敏に判定をもとめる「フィクションかノンフィクションか」という判断は、五万といるカメラマンそれぞれに基準があり、その基準を作り出すのはカメラマンそれぞれが持つ、ひとつの作法なのだ。後から演出であったとわかったとして、作品自体の価値はそれほどかわるものなのか。写真はすべてジャーナリズムだという思い込みが、ドアノーの価値を二転三転させるのだろう。
あるいは1994年にピュリッツァー賞を受賞した写真家ケビン・カーターの「ハゲタカと少女」の話は有名だと思う。水くみに行く途中で力尽きて倒れ込んだスーダンの少女が死ぬのを、背後でハゲタカが待つという明快な構図と明快な意味をもつ作品である。当時、アメリカ国内では「なぜ助けなかったのか」という批判が続出した。本人が語ったようにケビン・カーターは口べただった。だから「そう思う人はいますぐスーダンに行きなさい。そうしていまこの時にこの少女と同じように死にいく無数のこどもたちを救いなさい。それができないならせめて寄付をするか、スーダンがこのように悲惨な現状にあることを隣人につたえなさい。わたしがカメラをつかって全世界にそうしたように」とは言えなかった。そのかわり「写真をとったあと少女は体力を回復させてまた歩き出した」といったのだ。これはノンフィクションが、実はあとからフィクションでしたと言い訳をしているのだ。スーダンの悲惨さが、適正すぎるシャッターチャンスのために現実よりも悲惨に写ってしまいました、とノンフィクションであったはずの作品に演出をあとから入れこんで批判をかわそうとした。
つまり、このような少女が生き返ったという虚構を写真表現に塗り込める「フィクション」や「演出」が問題なのであって、作家の手前に積んである本を動かすかどうかとか、自分の脳の中のイメージを実現するために俳優を使うとか、そいった「フィクション・ノンフィクション」の分界点は作家それぞれの哲学であり手法でしかないのだ。

ケビン・カーター「ハゲタカと少女」
その後、ケビン・カーターは自殺してしまう。「なぜ助けなかったのか」と批判した人たちはみごとに勝利したのだ。スーダンの少女が生き返った、という偽善の虚構を手に入れ、助けなかったカメラマンに鉄槌を下したのだ。

つづく・・・

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