図書の悲劇 -3 『眩暈』


「眩暈」エリアス・カネッティ

カネッティの「眩暈」は強烈な読書家であり蔵書家でもある東洋学者ペーター・キーン博士の、本だけがその中心にある、機械のように正確で規則正しい生活が徐々に瓦解し、最後には狂気へと崩壊する物語である。
キーンはアパートを二部屋かりており、一つは生活のため、もうひとつは蔵書のためである。作品の冒頭彼は本屋のショーウィンドウの前にたたずむ子どもに「ここにはおもちゃなんてないぞ」と声をかける。しかしその子が「中国には何万もの文字があるんだって」と答えるのを聞いて自分の部屋に招き入れるような本バカである。子どもという異質なものが神聖な書庫に進入してくることは、機械のように正確で規則正しいキーンの生活が瓦解する予兆のようなものをすでに感じる。
非常に悲しい誤解から、キーンは自分よりも20才も年上の強欲な家政婦テレーゼを、書物を愛する心優しい女性と勘違いして結婚してしまう。本きちがいでまったく世間のことを知らぬキーンと、社会の辛酸を知り尽くした狡知の中年女とがうまくいくはずもなく、キーンは半ば追われるように通帳ひとつ握りしめてアパートを出ていき、せむしの詐欺フィッチェルレにまんまんとだまされ、狂気をしかけられていく。
帰宅するとテレーゼはアパートの管理人とぐるになり彼の蔵書を売り払う計画を立てている。仲裁にはいった精神病院長の弟ゲオルグは、しかし博学のキーンが狂っているのか、それともキーンの周囲、ひいては群衆というもの自体が狂っているのかの判断をつけかねる。事実、読者であるわれわれにもそれはわからない。博学ということも、何万の蔵書の一字一句を記憶していることも、猥雑で強欲な主体が無限にひろがる群衆の中に立ってしまえば弟の精神科医でさえもう判断のつかないものとなってしまうのだ。
読書家や蔵書家でなくともこの小説に相当量の恐怖を感じるはずである。皮膚が切れ、血が噴き出し、骨をのこぎりでごりごりやる音の聞こえる映画をみているのに近い恐怖だ。これほどハッピーエンドを願いながら読んだ本もないだろう。自分もそのなかの一人でありながら、群衆というものの恐怖、群衆に対する武器をもたない不安、そうしてこうやって自分だけは正気であると信じようとすることが、けっきょくは群衆という猥雑と破壊の神の主因になるという絶望感が読後うずまく。
まったくもって、これも恐ろしい本である。かつてゴダールは映画を「表現を破壊する表現」と言っていたが、そういう意味でこの本は「本好き」を「本嫌い」にさせる方向で本好きをうならせる本なのだ。

またまたつづく・・・







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