焚書坑儒と中国の近代化 石川淳著「修羅」

はじめて中国を平定し万里の長城を築き兵馬庸をつくった秦の始皇帝は、いっぽうで国中の書物をすべて焚書にしようとした。みずからの権力に反対する勢力が、儒家を中心とした知識人層だったからだ。また、おなじ理由で国の儒家をことごとく生き埋めにした。このジェノサイドを焚書坑儒という。
その40世紀後、おなじ中国の統一権力者である毛沢東は、始皇帝の焚書坑儒を権力維持のために必要な活動であったと考えた。4千年前の封建国家では、権力を維持するためにこの程度の出来事はしかたのないことである。だからナチスのおこなった焚書とは意味が違う。そういうニュアンスである。
しかし1960年代後半から中国国内で発生した文化大革命はあきらかな、新時代の、そしてさらに激烈な焚書坑儒であった。知識人を中心としたジェノサイドの数は一説には1千万人とも言われており、そのときに焚書となった書籍の数はとうぜんそれ以上であったろう。
始皇帝は権力に反対する儒家のよりどころとなっている書物を焚書にしようとしたのだが、ほんとうのところは歴史を変えたかったのだろう。自分以前の歴史が存在すること自体が権力にとっては不都合なことであり、「絶対」を必要とする権力には歴史という「相対」は不必要なものだったのだ。「歴史をかえる」というと未来を創造するととらえられがちだが、過去の事実を歪曲させる、あるいはなきものにするということである。同時代の人々の記憶を強制的に変えるということである。
毛沢東のおこなった文化大革命も、かえられないはずの過去を強制的にかえようとした、おなじ権力の絶対化運動からきている。

石川淳の歴史中編小説「修羅」の中心となるストーリーも、書物を焼くことを画策する側と守る側をえがいたものである。
ところが石川のおもしろいのはその焼く側と守る側を、反対においているところである。焼く側が反権力であり、守る側が権力であるのだ。
京都盆地の外側のすむパルチザン「古市」が洛内に存在する文庫「桃華房」を焼こうとする。権力が思うままに書かせた史書を焼くことで歴史そのものを足利家からなる室町幕府から奪還し、平民のものへと還元しようとする。時代は足利、細川、山名の権力争いから全国に飛び火した応仁の乱である。応仁の乱が特異なのは、中心は公家の権力争いであったものの、各地の守護大名が強大な勢力を持っていたこと、また守護大名自体、金と勢力をつけた商人や豪農をおさえる方法を持たなかったことがほんとうの乱の原因であった。また応仁の乱では農民を徴兵した足軽が戦力の基本だったが、室町の時代にはその足軽にも知恵がついており、戦況をみて加勢する軍を決めたり容易に反乱をおこすなど、つまり旧来の権力維持のシステムが本格的に崩壊しはじめていたのである。石川淳は貴族社会、旧来の価値、権力構造、生産システムなど、つまり国としての枠組みが下からの力によって崩壊する、この一種のクーデターに端を発する乱戦をもって、近代のはじまりと呼んでいる。
そこに古市が暗躍する。義政暗殺を謀る胡麻姫も古市の刺客となっている。近代であることの証左として、桃華房は古市によって焼かれ権力側の歴史は消失してしまう。足軽の反乱があらわす「個人」の誕生、公家の崩壊、市場経済により力をつけた商人や豪農、それらを書物の消失というメタファーで石川は近代というもののカタチを表そうとしたのだろう。

石川が「修羅」によって書こうとした近代誕生の瞬間を目撃したわれわれは、だから毛沢東のおこなった文化大革命は近代ではないといわざるを得ない立場に立つことになる。応仁の乱よりも近年でありながら、書物を燃やすという行為の本質は40世紀前の始皇帝となんら変わりはない。だから毛沢東は焚書坑儒が「理解でき」たのだ。
この文化大革命により中国の近代化は30年遅れたといわれているそうだ。しかしボクはそうは思わない。石川の言う近代、つまり個人の誕生、権力システムの崩壊、市場経済の普及、平民による歴史書、これらが存在する時代にならないかぎりいつまでも近代はこないだろうし、中国はとうぜん今も近世のままであるのだ。

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