ミヒャエル・ハネケ『隠された記憶』
『隠された記憶』 ミヒャエル・ハネケ、2005年の作品。『白いリボン』を観にいけなかった腹いせにDVDで鑑賞。
ある日、テレビキャスターのジョルジュとその妻アンのもとへ、一本のビデオテープが送られてくる。そのビデオには、延々と2時間以上撮影されたジョルジュの家が映っている。不安をかんじ、いい争いをする夫婦。差出人不明のビデオはさらにジョルジュのもとに送られてくるようになる。回をかさねるごとにビデオの内容は彼らのプライベートな領域へと内容をエスカレートさせていき、恐怖を感じた夫婦は警察に相談するが、らちがあかない。
しかしジョルジュにはひとつのこころあたりがあった。かつて彼の生家にいたアルジェリア人マジッドである。40年前のアルジェリア戦争に端を発するアルジェリア人蜂起運動に参加したマジッドの両親は、フランスの警察に溺死させられ、残されたマジッドをジョルジュの両親が引き取ることにする。しかし、当時6才だったジョルジュはなにか告げ口のようなことをしてマジッドを施設送りにしてしまったようだ。ジョルジュはマジッドを訪問し、「ビデオなんて知らない」とこたえる彼を恐喝まがいの台詞で恫喝する。妻のアンには「手がかりはなかった」と伝えたものの、すぐに次のビデオが届く。そこにはマジッドを恫喝するジョルジュと、ジョルジュが出て行ったあとにすすり泣くマジッドが長々と写っている。嘘をついたことで夫婦の亀裂は決定的となり、ジョルジュの上司のもとにもおなじビデオが届く。
そんなある日、ひとり息子のピエロが夜になっても帰宅しない。心配し、マジッドが犯人だと確信したジョルジュは彼のアパートにいき、息子のピエロがそこにいなかったにもかかわらず警察にマジッドとマジッドの息子を留置させる。
翌朝、友達の母につれられてピエロは帰宅する。反抗的な息子に話しかけるアンだが、ピエロはあきらかにアンを毛嫌いしている。いっぽうジョルジュは「ビデオの秘密を話す」というマジッドの呼び出しに応じて彼のアパートに行く。「ビデオを送ったのはオレじゃない」というマジッド。「それを言うためにオレをよんだのか」と問うジョルジュに、マジッドは「いや、これを見せるためだ」といってジョルジュの目の前で、もっていたカミソリで喉笛を切り裂いて自殺する。マジッドのアパートは血の海となり、おどろきのあまりジョルジュは動くこともできない。
何日かのち、マジッドの息子がジョルジュの会社に押しかける。最後まで成立しない会話のあと、マジッドの息子が言う。「ほんとうのやましさを見た」。
帰宅し、アスピリンを飲んで寝付くジョルジュ。夢のなかで、40年前の生家の中庭が写っている。中庭の遠いむこうで、嫌がる男の子をむりやり車に押し込む大人たち。車は行ってしまい、つぎにピエロの通う学校の放課後が写される・・・。
ネタバレとは犯人やトリックや最後のどんでん返しが事前にわかってしまうことで、映画や物語のおもしろさが半減してしまうことだ。半減するためには、鑑賞以前から知っていてはいけない部分が特定できている必要がある。だからネタバレ、あるいはネタワリというものは、鑑賞した人間のほとんど全部がおなじ「結果部分」を見ていないと成立しない概念である。10人の鑑賞者が10通りの犯人やトリックやオチや結論を持つような状況では、ネタバレというものは存在しようがない。だからハネケのこの『隠された記憶』にはネタバレはありえない。この映画には、鑑賞者全員が共通して持ちえる「結果部分」というものがまったく用意されていないし、むしろそういうものをハネケ自身が積極的に排除しているからだ。だからここではストーリーをすべて書いた。映画の「ストーリー」を最後まで知ってしまったからといってこの映画の価値が半減するとは思えない。むしろ「ラストの衝撃」とか「最後のどんでん返し」とかいうような、この映画のキャッチコピーにも使われている「ラストがどうか」という無残な映画評価軸をいったん排除してからでないと、この映画の本国試写会で怒りだしてしまった人たちのようにスノッブな醜態を演じることになってしまうだろう。
他のハネケ作品にも共通するこの難解さ、アンチポピュラリティーは、要約すると「鑑賞者への悪意ある挑戦」と言っていいだろう。ハネケもインタビューで「観客の神経を逆なでしたい」とか「ポップコーンを食わせたくない」と言っている。観客が欲しいと思うもののみを提供し、しかも表面的な迎合の下に本質的な問題を隠蔽するハリウッドの予定調和的な映画制作に真っ向から戦いを挑むハネケのこの態度は、ハリウッドの部分を「鑑賞者」という言葉に置きかえてもなんらおかしな文脈になるものではない。鑑賞者は、自分にとって心地いいものや都合のよいものだけをもとめ、映画や物語にそうすることを暗黙に強いていおり、それをなんら疑問にかんじていない。観客の多くが納得でき、彼らの日常に干渉しないギリギリのところで「おいしい思い出」となってのこることが絶対の価値観である映画は、つまるところわれわれ鑑賞者が「こうしてくれ」「ああしてくれ」と映画制作にいちいち細かい指示を出しているのとおなじ状況である。だから本質的におもしろいわけがない。それは見なくてもわかっている物語であり、すでに知っていることの焼き直しであり、かつて母親に読んでもらった絵本に、暴力とセックスの魅力を付加しただけのものにすぎない。
かといってこの『隠された記憶』が難解な映画かといえばそうではない。ひとつのきちんとまとまった筋書きがあり、事件がおこり、それは進展し、主題やテーマとよべるものが確実に用意されている。構成においては『マルホランドドライブ』よりもはるかに単純であり、長撮りワンカットではアンゲロプロスよりもずっと短く、含有するイメージの数ではゴダールの比ではない。しかし「鑑賞者への悪意」という意味ではハネケがいちばんだろう。ハネケはわれわれを巻き込もうと画策している。自分にとって都合がよく、快感をあたえてくれるものと期待するわれわれに、その心のうちにひそむ「やましさ」や、隠していたはずの暗い記憶を思い出させようとしている。
そのような『隠された記憶』を読み解く鍵として、それぞれ重要な主題と思われる4つの読解軸を用意した。
Ⅰ. ミステリーとしての犯人さがし
このブログを書くにあたっていくつかの映画評やブログを見たが、犯人さがしは相当量の意見が出ており、それらを凌駕し、かつ合理的に説明のできる新仮説は、残念ながらない。状況的な判断から、それらのなかからいくつかの意見が合理的であると考えた。
ただ、それらの批評や感想にもあるように、基本は犯人さがしの映画ではない。ハネケ自身も「犯人がだれかは重要ではない」と答えていた。しかしそこを抜きにこの映画をかたるのは、かえっておかしなことになる。中身がどうあれ、この映画は「ミステリー/サスペンス」という鋳型に入れられて観客に提供されているのだ。かたちがミステリーであるのに、そのかたちについてまったく言及しないのは不自然である。いちどミステリーとしての枠組みを通過してからでないと、この映画の他の要素はただしくみえてこないだろう。
Ⅰ. - A. 犯人はピエロと、マジッドの息子のコンビ
残念ながらボクは確認できなかったが、映画のラスト、ピエロの通う学校の校門を固定カメラで撮影したシーンで、ピエロとマジッドの息子が談笑しながら歩いているのが確認できる、という人がおおくいた。ピエロとマジッドの息子が共犯であるなら、マジッドを恫喝するジョルジュを隠し撮りすることもできるだろう。動機としてはピエロは母の不倫への反発と告発、マジッドの息子としては父の復讐として。しかしそうなるとマジッドの父が自殺するのが解せない。父の復讐や、40年前にジョルジュがおこなった罪の告発をするために、父そのものが死んでもかまわないと息子は考えたのだろうか。それとも息子同士の計画に致命的な手違いがあったのだろうか。どちらにしてもすっきりしないが、それでもこれが合理的に考えてもっとも問題の少ない結論である。「衝撃のラスト」というバカバカしい日本語版キャッチコピーの説明もここを指しているといえる。
Ⅰ. - B. 犯人はジョルジュ本人
ファンタジックな要素を含めなければこの意見の整合はつかない。実際に観客であるわれわれは、ジョルジュ本人が含まれるビデオ映像を、ジョルジュと妻のアンがそろって居間で見ているシーンをみたはずだ。それがジョルジュの自作自演であるなら、マジッドと再会するアパートでの映像はだれがしかけたものなのだろうか。マジッドにだまって彼のアパートにカメラをしかけ、その映像を自分宛に送るのはどういうことだろうか。妻の浮気を阻止、あるいは告発するためであれば、自分の生家やマジッドのアパートの映像は必要ないだろう。浮気する妻にとって、謎のビデオは謎だからこそ浮気の抑止剤になるのである。
そう考えるとのこる結論はひとつである。マジッドの自殺は自殺ではなく、ジョルジュによる殺害であるということだ。ひとりの人間を殺害するためであれば、どのような行為も動機として成立する。話中、マジッドが自殺する場面がビデオとして送られてくることはない。なぜなら、そのシーンはわれわれがみたものとは違うからである。マジッドはジョルジュに切り殺されるのだ。
しかし、妻のアンに対して告白するジョルジュの記憶は、たしかに人種差別的で悲劇的な結果を招いたかもしれないが、たかだか6才のときの「こどもの嘘」によって40年後に殺人事件をおかすようなものであっただろうか。またすべてがジョルジュの夢と記憶とアリバイ工作であるなら、もはやその他の要素、妻のアン、息子のピエロ、マジッドの息子、ジョルジュの母、彼の仕事、彼の考え、息子の失踪、それに送られてくるビデオそのものが、もはやほとんど意味のないものになってしまう。であるから、ジョルジュ自身が犯人であるというファンタジックな犯人説は、この映画の枠組みそのものを越えてしまっている。
Ⅰ. - C. 犯人はジョルジュ、ピエロ、マジッドの息子のトリオ
2番を合理的説明で補完しようとすると、どうしても息子たちが必要になってくる。息子がいればマジッドのアパートに隠しカメラを仕掛けることも可能であるし、自宅を盗撮するのも容易である。
しかし動機がわからない。共犯には仲間割れをおこさないほど強力なそれぞれの動機が必要である。ましてマジッドの息子は、父が自殺しているのである。それでも仲間割れしたジョルジュの会社におしかけて、トイレで密かに会う程度ですましてしまえるほどの動機とはなんだろうか。12才のこどもが、友人の父が衝撃的な自死をしても黙っていられるほどの動機とはなんだろうか。そこがわからない。
Ⅰ. - D. 犯人はピエロの水泳仲間
息子のピエロは水泳をならっており、イヴという映画には登場しない友達と仲がよい。水泳の競技をみにいった父と母は、ピエロが好成績をあげたことによろこんで抱き合う。その横で、無表情にビデオカメラをまわす水泳仲間のこどもが写る。だれかが指摘していたが、さらにその横には、ピエロが無断外泊した翌朝に彼を家まで送り届けた母親がみえる。プールではとなりにすわってはいるが、看護婦だと自己紹介するその母親とアンは、そのあとのシーンで初対面のような話をしていたはずである。
はじまって30分ほどで、ボクは水泳教室があやしい、と理由なく思った。いま考えると、クロールするピエロを追いかける画面が、あきらかにコーチの視線であり、その視線の先にはつねに競泳用ビキニに包まれたピエロの股間があるからであった。
しかし、けっきょく最後まで登場しないイブ、ビデオを撮る名前のないプール友達、声しか聞こえないコーチ、それらが犯人であるというのは強引すぎる。言えるとすれば、それはピエロ犯人説を裏づける要素のひとつでしかないだろう。
Ⅰ. - E. 犯人は夫婦の友人ピエール
ボクのみたところこの意見は見あたらなかったで、いちおう書いておく。アンはピエールと浮気をしている。それはカフェでアンをなぐさめるピエールのエロい手つきと、それを許しているアンをみれば理解できる。無断外泊から帰宅したピエロはいさめる母に「ピエールに聞けばいいだろ」といって母親をつきとばす。あきらかにピエロはアンの不倫をしっている。それはわれわれ以上である。
ピエールはアンを愛するあまり、夫のジョルジュをおとしめようと画策する。たまたまなにかで知ったジョルジュの暗い過去をネタに、彼の人格と生活を破綻させようとするのだ。ピエールのもくろみはみごと成功し、アンとジョルジュの関係は急速に不穏なものとなる。しかもピエールには予見できなかったマジッドの自殺という予想外の大事件までおきてしまう。ピエール大成功。 この仮説の欠点は、「この仮説がぜんぜんおもしろくない」ということである。
このように、どの仮説も物理的、理論的な部分で破綻をおこす。そういう仕掛けになっている。この映画は、そうとう脚本の段階で練られているにちがいない。緻密すぎるほどの設計図から、緻密すぎる精密器機ができたような印象を受ける。つまり犯人はどのアプローチからでも行き詰まるよう巧妙にかくされているのだ。そこから導き出される答えとなると、どうしても「犯人はいない」あるいは「設定されていない」ということになるだろう。それを「犯人はこの映画の状況そのもの」といってもいいし、「犯人は観客である」というようなメタフィクショナルな言い方で表現してもよいかもしれない。しかし、通常われわれが信じるような犯人はこの映画には存在しない。そう断言してしまってよいだろう。
Ⅱ. メディア
この映画には、「メディア」ということばでくくることのできる具象が数多くみられる。
まず、主人公ジョルジュはテレビのキャスターである。キャスターといってもニュースではなく、ゲストを招いて書物を書評しあうインテリ番組である。コルビジェのソファに脚を組んで斜めにすわり、「しかしマラルメにおける表象論は・・・」とか言い合う、知的だがどこか間抜けな教養番組である。その舞台セットがすさまじい。画面一杯にたちあがる背後の書棚は、あきらかすぎるほどに、みるものを威圧する。このバベル的な権威の象徴を背後にして話すインテリたちの意見に、逆らおうという気持ちをもつ視聴者はいないだろう。むしろこの過剰な書棚のイメージは、知における無言の暴力のようでもある。知をもつものがもたざるものの上に立ち、一方的に情報を与える世界である。
ところが内実はまったくちがっている。収録後の編集作業が、映画の話中に描写される。ジョルジュは編集オペレーターに、番組のつごうのよいようにゲストの発言を編集するよう指示を出す。それはもとの真意とはまったくかけ離れたものであり、編集というよりは改ざんと表現したほうが適切であるほどのものである。知識人であるはずのゲストへの、なかんずく仕事をおなじくする協働者への敬意はみじんもかんじられない。
ここでは、力関係における無限のループが発生している。番組では頭のわるい視聴者のために頭のよい知識人が暴力的なほどの威圧で「もたざるもの」を圧倒する。圧倒的強者は出演者である知識人である。しかしそのゲストの知識人たちも、収録後の編集の段階ではまったく無力である。発言とはまったくことなる文脈に改ざんされても、もうどうすることもできない。それがテレビでありそのような番組だからである。しかしなぜこのような改ざんをするのだろうか。編集者がつねにおびえ、つねにその視線を気にしているのは、視聴率である。けっきょく番組は、知識人に威圧されていたはずの一般視聴者を徹底的に畏怖している。このループが、ジョルジュの働く環境であり、ジョルジュがすみかとしている「メディア」である。
妻のアンは出版社につとめている。アンの仕事についての描写は少ないが、ジョルジュからの電話を仕事場でうけるアンの背後では、電話の声が聞きとりにくいほど賑やかなパーティーがひらかれている。それは出版記念パーティーというよりも、アパレルブランドがショーのあとひらく打ち上げのような雰囲気と参加者である。ハネケの嫌悪はテレビはいうにおよばず、出版事業者にもおよぶ。
しかしこの映画でもっともメディアというものを意識させられるのは、映画そのものの枠組みにおいてである。
冒頭、ジョルジュの家を遠くから隠し撮りしているメディアは「ビデオ」である。しかし観客はそれがビデオであるとはわからない。あまりにも長い据え置きワンカットに不安をおぼえるころになって、いままで映画であるとおもっていた画面にノイズがはしり、それがビデオの巻き戻しのためのものであり、そこでやっといままでみていたのは映画そのものではなく、映画のなかのビデオであったと気がつく。まずこれで観客はだまされたと思う。だまされたと思ってしまうと、次の定位置長回しワンカットのたびに、これは自分がみている映画か、それとも登場人物がみているビデオかあやしくかんじられてしまう。
その懐疑にもなれたころ、今度はビデオではありえないはずの、マジッドのアパート内で言い争うふたりの映像がビデオであるという籠絡にはまる。マジッドの柔和で真面目な態度にマジッド犯人説を否定していたはずの観客にとってはなおさらショックである。妻のアンはそのビデオをみていう。「この人は犯人じゃない。こんな演技はできるものじゃない」と。室内ビデオの存在から一挙にマジッド犯人説にふり向けられた観客は、アンのこのことばでまたいっきょにマジッド潔白説にゆりもどされる。みていて安心したり緊張がほぐれることがまったくない。
とくにおそろしいのは、マジッドが自殺するシーンの映像が、一度目にジョルジュを隠し撮りしたのとまったくおなじ位置からのアングルであることだ。これもビデオだろうか。送られてはこなかったが、われわれ観客だけがそのビデオをみる立場にあるのだろうか。
最終シーンにあるピエロの通う学校を撮る定位置長回しワンカットも、物語の冒頭ちかくでジョルジュがピエロを迎えにいく場面とまったくおなじアングルである。定位置長回しワンカットということは、これも盗撮だろうか。ピエロを盗撮してるのだろうか。もしこれも盗撮なら、これをみているのはだれだろう。はじめの校門のシーンも、それならビデオだったのではないだろうか。
被写体を隠し撮りするビデオ。そのビデオをみる登場人物。その登場人物をみる観客。ビデオ撮影者もそれをみる人間も、最終的にはすべてわれわれ観客で終わってしまうような、メディアの入れ子構造が巧妙にしくまれている。だから犯人は観客だ、という説もたしかに成り立つ。
Ⅲ. プチブル / 知識人層
『隠された記憶』が「日本ではわかりにくい」といわれる理由のひとつに、プチブルというフランス独自の社会階層がある。プチブルとは小ブルジョアジーともいわれ、マルクスが提唱した概念である。プチブルについてくどくど説明するのをさけるため、黒田寛一の言葉を引用する。「プチブルとは心がブルジョアジーで、実生活が労働者階級の人間である」。弁護士、医者、大学教授をはじめ、自営業者や中小企業経営者、株主、大企業の役職者、高度エンジニア、俳優、芸術家、作家など、日本では単に「ホワイトカラー」とよばれる職種がおおくふくまれる。
ボクは学生の時にサルトルを読んでいて、このプチブルという用語がでるたびにその言葉の立ち位置がわからずこまったものである。こんなにも高度な哲学理論の真っ最中に、なぜ突如としてマーケティング用語のような社会ヒエラルキーが重要事として取り上げられるのかがわからなかったのだ。言い訳するわけではないが、それは日本にはない概念だったからであり、実をいうといまでもやっぱりわかっていない。
わかってはいないが、中の上というよりは上流にかぎりなくちかい生活をいとなむジョルジュ夫婦はプチブルである。金銭的なものだけではなく、彼らの生活マインドはプチブルの見本のようである。
またプチブルは知識人とよみかえてもよいだろう。上述のようにジョルジュは書評番組のキャスターであり、妻のアンは出版社勤務である。映画をみたものはその冒頭、主人公ジョルジュ夫妻の居間にある書棚につめこまれた本の量にびっくりする。そんなところで夕食をするこの人たちは何ものだろう、と。パリに一軒家をもつことがどれほど贅沢な暮らしかわからないわれわれ日本人でも、この書棚をみれば彼らが貧者ではないこと、学のない人間ではないことはすぐに理解できる。
ジョルジュ夫婦が関係する周囲の人間は、みなプチブルである。友人のピエール夫婦は「たった1週間だけ」マヨルカ島にバカンスにいくレベルである。友達夫婦3組があつまった夕食会では、プチブルらしい気どった、しかしスノッブなジョークが話されている。この夕食会に参加したいとはあまりおもわない雰囲気が、フランス・プチブルの閉塞感をうまく表現している。上司によばれてジョルジュが入る部屋は、地上をはるかに見下ろすガラス張りの重役室である。ここでも本が無造作に積み上げられており、上司は「本は買うが読む時間がない」とおっしゃる。
対照的に描かれているのがマジッドのアパートである。マジッドのアパートにむかう前、車をとめたコンビニからして紙コップがテーブルの上に散乱しており、そこが品のいい地域ではないことがわかる。マジッドは昼間でもアパートで食事をつくっている状態、つまり失業者である。アパートの内部はシミだらけで、テーブルはもう30年もつかっているようなしろものである。ジョルジュのガラス張りのモダンな食卓との差が明確に描写される。
もう一組、重要なプチブルがこの映画には関係している。つまりそれはこの映画をみる観客である。ハネケは自分の映画をみにくる観客が、ハネケ自身が敵対的に嫌うプチブルであり、知識人層であることをよくしっている。知っているというよりも、そうであるからこそハネケは「鑑賞者にたいする悪意ある挑戦」を続けるのだろう。
だから主人公のジョルジュは観客の分身のようなものである。かれの「やましさ」は観客のだれもがもっているはずのやましさをわかりやすくしただけのものである。
プチブルと知識人、それらとジョルジュ、さらにジョルジュとこの映画の観客層がひとつにつながる。
では、その対照となるマジッドはどこにつながっていくのだろうか。
Ⅳ. アルジェリア問題
2006年のFIFAワールドカップで、フランスのジダン選手がイタリアのマテラッツィに頭突きをして退場になった。実際はジダンの姉を娼婦のような呼び方よんだというだけのことだったのだが、当初は人種差別的な発言だったのではないかと報道され話題になった。レッドカードが問題であって、マテラッツィがそこでなんと言ったのかは問題でないような気がしたものだが、それほど話題が発言内容に集中したのはひとえにジダンが移民二世であり、アルジェリア人だからである。
フランスは戦後からずっと、アルジェリアという爆弾をかかえたまま現在までなし崩し的にきている。アルジェリア戦争開戦の5年後には、アルジェリア現地軍人とコロン人のクーデターにより、第四共和制は1ヶ月も組閣できない、いわば政府の崩壊状態にまで発展している(エリック・ホッファー『波止場日記』)。しかも遠い国の日本人にはあまり知られていないが、アルジェリア戦争というのはたんにアルジェリアの民族解放戦線(FLN)と、独立を阻止しようとするフランス軍が戦っただけの戦争ではない。そこに、ヨーロッパ系コロン人、現地フランス軍人、独立に反対する25万のアルジェリア人、植民地化に賛成する企業、資本家、右翼の連合体であるOASのような組織がFLNとも、国民投票結果と財政逼迫から独立支持にまわったシャルル・ド・ゴールとも戦ったのだ。このあたりの複雑怪奇な政治・戦争状況を、フレデリック・フォーサイスは史実とフィクションをまじえて『ジャッカルの日』に書いている。
そのような状況で、ジダンの頭突き事件がおこったのだ。フランス人、とくにジョルジュの年代のようなフランス人にとってアルジェリアという言葉は特別な意味をもつのである。
ジョルジュは一度目に訪問した警察からの帰り道、一方通行を逆走する自転車とあやうくぶつかりそうになる。ジョルジュの怒りはやや常軌を逸している。大柄な黒人を相手にジョルジュは醜態をさらして引き下がる。このジョルジュの怒りが、相手が黒人だったからかどうかはわからない。しかしピエロが帰宅しないことで焦ったジョルジュは、なんの根拠もなくマジッドのアパートに警察をひきつれていく。アパートにピエロがいない時点で捜査は終わりそうなものなのに、マジッドと彼の息子は警察まで連行され、しかも一晩留置所に拘留までされてしまう。捜査令状もなくジョルジュの発言だけでマジッドらを拘束する警察にも、そうなったことを自宅でまつ友人に「一晩ねることになるだろう」となんの反省もなく告げるジョルジュにも、まちがいなく相手が黒人のアルジェリア人だから、という差別意識があったろう。
このシークエンスでわかるのは、ジョルジュが自宅でも職場でもつねに背後にそびえさせている無数の本が、なんの役にもたっていないということである。知識人とよばれる人たちの代表であるジョルジュの知識と、自分たちが生活している世界の理解とは、なんの関係性ももっていないということである。そのような虚構の知識、虚構の富のうえにジョルジュがいるという描写は、つまるところプチブルであり知識人であり一般的なフランス人である観客の知識と富が虚構であるという指摘になる。
フランス人、もっと広義にいうとヨーロッパの人間であればだれでも、その国の繁栄が他国へのかつての植民地政策の悲劇の上になりたっていることは、すこし考えれば理解できることである。しかし、プチブルが代表する現代のヨーロッパ人は、その事実と記憶を隠して生きている。だからジョルジュはヨーロッパそのものでもあると言えるだろうし、ヨーロッパの繁栄はマジッドの不幸のうえにあり、マジッドの記憶を隠してしまうことにでしか現在の立ち位置を解決できない。ところが心の奥にあるやましさは消えることはない。やましさゆえにジョルジュは妻とも交歓することができず、マジッドとの再会を悪意でしか理解しようとしない。空虚な知識と権威をバベルの塔のようにつみあげ、かつての罪を正当化するために忘却と暴力を駆使し、自分の周囲にある知識や富といった共通項だけで限定するせまい共同体に逃げ込み、その他の「他者」の苦痛にたいしての黙殺を肯定するその態度は、そのまま現代の、アルジェリア問題を解決せぬまま置き去りにしてきたフランスのすがたとぴたりと一致する。
しかしハネケが指摘しようとしているのはマジッドの哀れな現状ではない。きっとハネケはアルジェリア人であるから弱者であり、弱者であるから映画作家がそこに光をあててやらねばならない、といった庶民感覚の親切心はみじんももっていないと思われる。それよりもハネケはそのような問題がゴロゴロと無数にころがっているのに、まるでそんなものは存在しないかのように振る舞い、生活し、そんな生活を豊かさと思い込み、豊かさと知識が合致していると考えるような知識人層が大嫌いなだけなのだろう。だから大嫌いな人の神経を逆なでしたり、そんな彼らに敵意と悪意を隠すことなく挑戦して、圧勝する映画が好きなのだろう。きっとこの『隠された記憶』の脚本を書いているとき、ハネケはしあわせだったのではないだろうか、と想像する。
なんにしても、ものすごい監督がいたものである。ここがヨーロッパの本当のすごさかもしれない。
ある日、テレビキャスターのジョルジュとその妻アンのもとへ、一本のビデオテープが送られてくる。そのビデオには、延々と2時間以上撮影されたジョルジュの家が映っている。不安をかんじ、いい争いをする夫婦。差出人不明のビデオはさらにジョルジュのもとに送られてくるようになる。回をかさねるごとにビデオの内容は彼らのプライベートな領域へと内容をエスカレートさせていき、恐怖を感じた夫婦は警察に相談するが、らちがあかない。
しかしジョルジュにはひとつのこころあたりがあった。かつて彼の生家にいたアルジェリア人マジッドである。40年前のアルジェリア戦争に端を発するアルジェリア人蜂起運動に参加したマジッドの両親は、フランスの警察に溺死させられ、残されたマジッドをジョルジュの両親が引き取ることにする。しかし、当時6才だったジョルジュはなにか告げ口のようなことをしてマジッドを施設送りにしてしまったようだ。ジョルジュはマジッドを訪問し、「ビデオなんて知らない」とこたえる彼を恐喝まがいの台詞で恫喝する。妻のアンには「手がかりはなかった」と伝えたものの、すぐに次のビデオが届く。そこにはマジッドを恫喝するジョルジュと、ジョルジュが出て行ったあとにすすり泣くマジッドが長々と写っている。嘘をついたことで夫婦の亀裂は決定的となり、ジョルジュの上司のもとにもおなじビデオが届く。
そんなある日、ひとり息子のピエロが夜になっても帰宅しない。心配し、マジッドが犯人だと確信したジョルジュは彼のアパートにいき、息子のピエロがそこにいなかったにもかかわらず警察にマジッドとマジッドの息子を留置させる。
翌朝、友達の母につれられてピエロは帰宅する。反抗的な息子に話しかけるアンだが、ピエロはあきらかにアンを毛嫌いしている。いっぽうジョルジュは「ビデオの秘密を話す」というマジッドの呼び出しに応じて彼のアパートに行く。「ビデオを送ったのはオレじゃない」というマジッド。「それを言うためにオレをよんだのか」と問うジョルジュに、マジッドは「いや、これを見せるためだ」といってジョルジュの目の前で、もっていたカミソリで喉笛を切り裂いて自殺する。マジッドのアパートは血の海となり、おどろきのあまりジョルジュは動くこともできない。
何日かのち、マジッドの息子がジョルジュの会社に押しかける。最後まで成立しない会話のあと、マジッドの息子が言う。「ほんとうのやましさを見た」。
帰宅し、アスピリンを飲んで寝付くジョルジュ。夢のなかで、40年前の生家の中庭が写っている。中庭の遠いむこうで、嫌がる男の子をむりやり車に押し込む大人たち。車は行ってしまい、つぎにピエロの通う学校の放課後が写される・・・。
ネタバレとは犯人やトリックや最後のどんでん返しが事前にわかってしまうことで、映画や物語のおもしろさが半減してしまうことだ。半減するためには、鑑賞以前から知っていてはいけない部分が特定できている必要がある。だからネタバレ、あるいはネタワリというものは、鑑賞した人間のほとんど全部がおなじ「結果部分」を見ていないと成立しない概念である。10人の鑑賞者が10通りの犯人やトリックやオチや結論を持つような状況では、ネタバレというものは存在しようがない。だからハネケのこの『隠された記憶』にはネタバレはありえない。この映画には、鑑賞者全員が共通して持ちえる「結果部分」というものがまったく用意されていないし、むしろそういうものをハネケ自身が積極的に排除しているからだ。だからここではストーリーをすべて書いた。映画の「ストーリー」を最後まで知ってしまったからといってこの映画の価値が半減するとは思えない。むしろ「ラストの衝撃」とか「最後のどんでん返し」とかいうような、この映画のキャッチコピーにも使われている「ラストがどうか」という無残な映画評価軸をいったん排除してからでないと、この映画の本国試写会で怒りだしてしまった人たちのようにスノッブな醜態を演じることになってしまうだろう。
他のハネケ作品にも共通するこの難解さ、アンチポピュラリティーは、要約すると「鑑賞者への悪意ある挑戦」と言っていいだろう。ハネケもインタビューで「観客の神経を逆なでしたい」とか「ポップコーンを食わせたくない」と言っている。観客が欲しいと思うもののみを提供し、しかも表面的な迎合の下に本質的な問題を隠蔽するハリウッドの予定調和的な映画制作に真っ向から戦いを挑むハネケのこの態度は、ハリウッドの部分を「鑑賞者」という言葉に置きかえてもなんらおかしな文脈になるものではない。鑑賞者は、自分にとって心地いいものや都合のよいものだけをもとめ、映画や物語にそうすることを暗黙に強いていおり、それをなんら疑問にかんじていない。観客の多くが納得でき、彼らの日常に干渉しないギリギリのところで「おいしい思い出」となってのこることが絶対の価値観である映画は、つまるところわれわれ鑑賞者が「こうしてくれ」「ああしてくれ」と映画制作にいちいち細かい指示を出しているのとおなじ状況である。だから本質的におもしろいわけがない。それは見なくてもわかっている物語であり、すでに知っていることの焼き直しであり、かつて母親に読んでもらった絵本に、暴力とセックスの魅力を付加しただけのものにすぎない。
かといってこの『隠された記憶』が難解な映画かといえばそうではない。ひとつのきちんとまとまった筋書きがあり、事件がおこり、それは進展し、主題やテーマとよべるものが確実に用意されている。構成においては『マルホランドドライブ』よりもはるかに単純であり、長撮りワンカットではアンゲロプロスよりもずっと短く、含有するイメージの数ではゴダールの比ではない。しかし「鑑賞者への悪意」という意味ではハネケがいちばんだろう。ハネケはわれわれを巻き込もうと画策している。自分にとって都合がよく、快感をあたえてくれるものと期待するわれわれに、その心のうちにひそむ「やましさ」や、隠していたはずの暗い記憶を思い出させようとしている。
そのような『隠された記憶』を読み解く鍵として、それぞれ重要な主題と思われる4つの読解軸を用意した。
Ⅰ. ミステリーとしての犯人さがし
このブログを書くにあたっていくつかの映画評やブログを見たが、犯人さがしは相当量の意見が出ており、それらを凌駕し、かつ合理的に説明のできる新仮説は、残念ながらない。状況的な判断から、それらのなかからいくつかの意見が合理的であると考えた。
ただ、それらの批評や感想にもあるように、基本は犯人さがしの映画ではない。ハネケ自身も「犯人がだれかは重要ではない」と答えていた。しかしそこを抜きにこの映画をかたるのは、かえっておかしなことになる。中身がどうあれ、この映画は「ミステリー/サスペンス」という鋳型に入れられて観客に提供されているのだ。かたちがミステリーであるのに、そのかたちについてまったく言及しないのは不自然である。いちどミステリーとしての枠組みを通過してからでないと、この映画の他の要素はただしくみえてこないだろう。
Ⅰ. - A. 犯人はピエロと、マジッドの息子のコンビ
残念ながらボクは確認できなかったが、映画のラスト、ピエロの通う学校の校門を固定カメラで撮影したシーンで、ピエロとマジッドの息子が談笑しながら歩いているのが確認できる、という人がおおくいた。ピエロとマジッドの息子が共犯であるなら、マジッドを恫喝するジョルジュを隠し撮りすることもできるだろう。動機としてはピエロは母の不倫への反発と告発、マジッドの息子としては父の復讐として。しかしそうなるとマジッドの父が自殺するのが解せない。父の復讐や、40年前にジョルジュがおこなった罪の告発をするために、父そのものが死んでもかまわないと息子は考えたのだろうか。それとも息子同士の計画に致命的な手違いがあったのだろうか。どちらにしてもすっきりしないが、それでもこれが合理的に考えてもっとも問題の少ない結論である。「衝撃のラスト」というバカバカしい日本語版キャッチコピーの説明もここを指しているといえる。
Ⅰ. - B. 犯人はジョルジュ本人
ファンタジックな要素を含めなければこの意見の整合はつかない。実際に観客であるわれわれは、ジョルジュ本人が含まれるビデオ映像を、ジョルジュと妻のアンがそろって居間で見ているシーンをみたはずだ。それがジョルジュの自作自演であるなら、マジッドと再会するアパートでの映像はだれがしかけたものなのだろうか。マジッドにだまって彼のアパートにカメラをしかけ、その映像を自分宛に送るのはどういうことだろうか。妻の浮気を阻止、あるいは告発するためであれば、自分の生家やマジッドのアパートの映像は必要ないだろう。浮気する妻にとって、謎のビデオは謎だからこそ浮気の抑止剤になるのである。
そう考えるとのこる結論はひとつである。マジッドの自殺は自殺ではなく、ジョルジュによる殺害であるということだ。ひとりの人間を殺害するためであれば、どのような行為も動機として成立する。話中、マジッドが自殺する場面がビデオとして送られてくることはない。なぜなら、そのシーンはわれわれがみたものとは違うからである。マジッドはジョルジュに切り殺されるのだ。
しかし、妻のアンに対して告白するジョルジュの記憶は、たしかに人種差別的で悲劇的な結果を招いたかもしれないが、たかだか6才のときの「こどもの嘘」によって40年後に殺人事件をおかすようなものであっただろうか。またすべてがジョルジュの夢と記憶とアリバイ工作であるなら、もはやその他の要素、妻のアン、息子のピエロ、マジッドの息子、ジョルジュの母、彼の仕事、彼の考え、息子の失踪、それに送られてくるビデオそのものが、もはやほとんど意味のないものになってしまう。であるから、ジョルジュ自身が犯人であるというファンタジックな犯人説は、この映画の枠組みそのものを越えてしまっている。
Ⅰ. - C. 犯人はジョルジュ、ピエロ、マジッドの息子のトリオ
2番を合理的説明で補完しようとすると、どうしても息子たちが必要になってくる。息子がいればマジッドのアパートに隠しカメラを仕掛けることも可能であるし、自宅を盗撮するのも容易である。
しかし動機がわからない。共犯には仲間割れをおこさないほど強力なそれぞれの動機が必要である。ましてマジッドの息子は、父が自殺しているのである。それでも仲間割れしたジョルジュの会社におしかけて、トイレで密かに会う程度ですましてしまえるほどの動機とはなんだろうか。12才のこどもが、友人の父が衝撃的な自死をしても黙っていられるほどの動機とはなんだろうか。そこがわからない。
息子のピエロは水泳をならっており、イヴという映画には登場しない友達と仲がよい。水泳の競技をみにいった父と母は、ピエロが好成績をあげたことによろこんで抱き合う。その横で、無表情にビデオカメラをまわす水泳仲間のこどもが写る。だれかが指摘していたが、さらにその横には、ピエロが無断外泊した翌朝に彼を家まで送り届けた母親がみえる。プールではとなりにすわってはいるが、看護婦だと自己紹介するその母親とアンは、そのあとのシーンで初対面のような話をしていたはずである。
はじまって30分ほどで、ボクは水泳教室があやしい、と理由なく思った。いま考えると、クロールするピエロを追いかける画面が、あきらかにコーチの視線であり、その視線の先にはつねに競泳用ビキニに包まれたピエロの股間があるからであった。
しかし、けっきょく最後まで登場しないイブ、ビデオを撮る名前のないプール友達、声しか聞こえないコーチ、それらが犯人であるというのは強引すぎる。言えるとすれば、それはピエロ犯人説を裏づける要素のひとつでしかないだろう。
Ⅰ. - E. 犯人は夫婦の友人ピエール
ボクのみたところこの意見は見あたらなかったで、いちおう書いておく。アンはピエールと浮気をしている。それはカフェでアンをなぐさめるピエールのエロい手つきと、それを許しているアンをみれば理解できる。無断外泊から帰宅したピエロはいさめる母に「ピエールに聞けばいいだろ」といって母親をつきとばす。あきらかにピエロはアンの不倫をしっている。それはわれわれ以上である。
ピエールはアンを愛するあまり、夫のジョルジュをおとしめようと画策する。たまたまなにかで知ったジョルジュの暗い過去をネタに、彼の人格と生活を破綻させようとするのだ。ピエールのもくろみはみごと成功し、アンとジョルジュの関係は急速に不穏なものとなる。しかもピエールには予見できなかったマジッドの自殺という予想外の大事件までおきてしまう。ピエール大成功。 この仮説の欠点は、「この仮説がぜんぜんおもしろくない」ということである。
このように、どの仮説も物理的、理論的な部分で破綻をおこす。そういう仕掛けになっている。この映画は、そうとう脚本の段階で練られているにちがいない。緻密すぎるほどの設計図から、緻密すぎる精密器機ができたような印象を受ける。つまり犯人はどのアプローチからでも行き詰まるよう巧妙にかくされているのだ。そこから導き出される答えとなると、どうしても「犯人はいない」あるいは「設定されていない」ということになるだろう。それを「犯人はこの映画の状況そのもの」といってもいいし、「犯人は観客である」というようなメタフィクショナルな言い方で表現してもよいかもしれない。しかし、通常われわれが信じるような犯人はこの映画には存在しない。そう断言してしまってよいだろう。
この映画には、「メディア」ということばでくくることのできる具象が数多くみられる。
まず、主人公ジョルジュはテレビのキャスターである。キャスターといってもニュースではなく、ゲストを招いて書物を書評しあうインテリ番組である。コルビジェのソファに脚を組んで斜めにすわり、「しかしマラルメにおける表象論は・・・」とか言い合う、知的だがどこか間抜けな教養番組である。その舞台セットがすさまじい。画面一杯にたちあがる背後の書棚は、あきらかすぎるほどに、みるものを威圧する。このバベル的な権威の象徴を背後にして話すインテリたちの意見に、逆らおうという気持ちをもつ視聴者はいないだろう。むしろこの過剰な書棚のイメージは、知における無言の暴力のようでもある。知をもつものがもたざるものの上に立ち、一方的に情報を与える世界である。
ところが内実はまったくちがっている。収録後の編集作業が、映画の話中に描写される。ジョルジュは編集オペレーターに、番組のつごうのよいようにゲストの発言を編集するよう指示を出す。それはもとの真意とはまったくかけ離れたものであり、編集というよりは改ざんと表現したほうが適切であるほどのものである。知識人であるはずのゲストへの、なかんずく仕事をおなじくする協働者への敬意はみじんもかんじられない。
ここでは、力関係における無限のループが発生している。番組では頭のわるい視聴者のために頭のよい知識人が暴力的なほどの威圧で「もたざるもの」を圧倒する。圧倒的強者は出演者である知識人である。しかしそのゲストの知識人たちも、収録後の編集の段階ではまったく無力である。発言とはまったくことなる文脈に改ざんされても、もうどうすることもできない。それがテレビでありそのような番組だからである。しかしなぜこのような改ざんをするのだろうか。編集者がつねにおびえ、つねにその視線を気にしているのは、視聴率である。けっきょく番組は、知識人に威圧されていたはずの一般視聴者を徹底的に畏怖している。このループが、ジョルジュの働く環境であり、ジョルジュがすみかとしている「メディア」である。
妻のアンは出版社につとめている。アンの仕事についての描写は少ないが、ジョルジュからの電話を仕事場でうけるアンの背後では、電話の声が聞きとりにくいほど賑やかなパーティーがひらかれている。それは出版記念パーティーというよりも、アパレルブランドがショーのあとひらく打ち上げのような雰囲気と参加者である。ハネケの嫌悪はテレビはいうにおよばず、出版事業者にもおよぶ。
しかしこの映画でもっともメディアというものを意識させられるのは、映画そのものの枠組みにおいてである。
冒頭、ジョルジュの家を遠くから隠し撮りしているメディアは「ビデオ」である。しかし観客はそれがビデオであるとはわからない。あまりにも長い据え置きワンカットに不安をおぼえるころになって、いままで映画であるとおもっていた画面にノイズがはしり、それがビデオの巻き戻しのためのものであり、そこでやっといままでみていたのは映画そのものではなく、映画のなかのビデオであったと気がつく。まずこれで観客はだまされたと思う。だまされたと思ってしまうと、次の定位置長回しワンカットのたびに、これは自分がみている映画か、それとも登場人物がみているビデオかあやしくかんじられてしまう。
その懐疑にもなれたころ、今度はビデオではありえないはずの、マジッドのアパート内で言い争うふたりの映像がビデオであるという籠絡にはまる。マジッドの柔和で真面目な態度にマジッド犯人説を否定していたはずの観客にとってはなおさらショックである。妻のアンはそのビデオをみていう。「この人は犯人じゃない。こんな演技はできるものじゃない」と。室内ビデオの存在から一挙にマジッド犯人説にふり向けられた観客は、アンのこのことばでまたいっきょにマジッド潔白説にゆりもどされる。みていて安心したり緊張がほぐれることがまったくない。
とくにおそろしいのは、マジッドが自殺するシーンの映像が、一度目にジョルジュを隠し撮りしたのとまったくおなじ位置からのアングルであることだ。これもビデオだろうか。送られてはこなかったが、われわれ観客だけがそのビデオをみる立場にあるのだろうか。
最終シーンにあるピエロの通う学校を撮る定位置長回しワンカットも、物語の冒頭ちかくでジョルジュがピエロを迎えにいく場面とまったくおなじアングルである。定位置長回しワンカットということは、これも盗撮だろうか。ピエロを盗撮してるのだろうか。もしこれも盗撮なら、これをみているのはだれだろう。はじめの校門のシーンも、それならビデオだったのではないだろうか。
被写体を隠し撮りするビデオ。そのビデオをみる登場人物。その登場人物をみる観客。ビデオ撮影者もそれをみる人間も、最終的にはすべてわれわれ観客で終わってしまうような、メディアの入れ子構造が巧妙にしくまれている。だから犯人は観客だ、という説もたしかに成り立つ。
『隠された記憶』が「日本ではわかりにくい」といわれる理由のひとつに、プチブルというフランス独自の社会階層がある。プチブルとは小ブルジョアジーともいわれ、マルクスが提唱した概念である。プチブルについてくどくど説明するのをさけるため、黒田寛一の言葉を引用する。「プチブルとは心がブルジョアジーで、実生活が労働者階級の人間である」。弁護士、医者、大学教授をはじめ、自営業者や中小企業経営者、株主、大企業の役職者、高度エンジニア、俳優、芸術家、作家など、日本では単に「ホワイトカラー」とよばれる職種がおおくふくまれる。
ボクは学生の時にサルトルを読んでいて、このプチブルという用語がでるたびにその言葉の立ち位置がわからずこまったものである。こんなにも高度な哲学理論の真っ最中に、なぜ突如としてマーケティング用語のような社会ヒエラルキーが重要事として取り上げられるのかがわからなかったのだ。言い訳するわけではないが、それは日本にはない概念だったからであり、実をいうといまでもやっぱりわかっていない。
わかってはいないが、中の上というよりは上流にかぎりなくちかい生活をいとなむジョルジュ夫婦はプチブルである。金銭的なものだけではなく、彼らの生活マインドはプチブルの見本のようである。
またプチブルは知識人とよみかえてもよいだろう。上述のようにジョルジュは書評番組のキャスターであり、妻のアンは出版社勤務である。映画をみたものはその冒頭、主人公ジョルジュ夫妻の居間にある書棚につめこまれた本の量にびっくりする。そんなところで夕食をするこの人たちは何ものだろう、と。パリに一軒家をもつことがどれほど贅沢な暮らしかわからないわれわれ日本人でも、この書棚をみれば彼らが貧者ではないこと、学のない人間ではないことはすぐに理解できる。
ジョルジュ夫婦が関係する周囲の人間は、みなプチブルである。友人のピエール夫婦は「たった1週間だけ」マヨルカ島にバカンスにいくレベルである。友達夫婦3組があつまった夕食会では、プチブルらしい気どった、しかしスノッブなジョークが話されている。この夕食会に参加したいとはあまりおもわない雰囲気が、フランス・プチブルの閉塞感をうまく表現している。上司によばれてジョルジュが入る部屋は、地上をはるかに見下ろすガラス張りの重役室である。ここでも本が無造作に積み上げられており、上司は「本は買うが読む時間がない」とおっしゃる。
対照的に描かれているのがマジッドのアパートである。マジッドのアパートにむかう前、車をとめたコンビニからして紙コップがテーブルの上に散乱しており、そこが品のいい地域ではないことがわかる。マジッドは昼間でもアパートで食事をつくっている状態、つまり失業者である。アパートの内部はシミだらけで、テーブルはもう30年もつかっているようなしろものである。ジョルジュのガラス張りのモダンな食卓との差が明確に描写される。
もう一組、重要なプチブルがこの映画には関係している。つまりそれはこの映画をみる観客である。ハネケは自分の映画をみにくる観客が、ハネケ自身が敵対的に嫌うプチブルであり、知識人層であることをよくしっている。知っているというよりも、そうであるからこそハネケは「鑑賞者にたいする悪意ある挑戦」を続けるのだろう。
だから主人公のジョルジュは観客の分身のようなものである。かれの「やましさ」は観客のだれもがもっているはずのやましさをわかりやすくしただけのものである。
プチブルと知識人、それらとジョルジュ、さらにジョルジュとこの映画の観客層がひとつにつながる。
では、その対照となるマジッドはどこにつながっていくのだろうか。
Ⅳ. アルジェリア問題
2006年のFIFAワールドカップで、フランスのジダン選手がイタリアのマテラッツィに頭突きをして退場になった。実際はジダンの姉を娼婦のような呼び方よんだというだけのことだったのだが、当初は人種差別的な発言だったのではないかと報道され話題になった。レッドカードが問題であって、マテラッツィがそこでなんと言ったのかは問題でないような気がしたものだが、それほど話題が発言内容に集中したのはひとえにジダンが移民二世であり、アルジェリア人だからである。
フランスは戦後からずっと、アルジェリアという爆弾をかかえたまま現在までなし崩し的にきている。アルジェリア戦争開戦の5年後には、アルジェリア現地軍人とコロン人のクーデターにより、第四共和制は1ヶ月も組閣できない、いわば政府の崩壊状態にまで発展している(エリック・ホッファー『波止場日記』)。しかも遠い国の日本人にはあまり知られていないが、アルジェリア戦争というのはたんにアルジェリアの民族解放戦線(FLN)と、独立を阻止しようとするフランス軍が戦っただけの戦争ではない。そこに、ヨーロッパ系コロン人、現地フランス軍人、独立に反対する25万のアルジェリア人、植民地化に賛成する企業、資本家、右翼の連合体であるOASのような組織がFLNとも、国民投票結果と財政逼迫から独立支持にまわったシャルル・ド・ゴールとも戦ったのだ。このあたりの複雑怪奇な政治・戦争状況を、フレデリック・フォーサイスは史実とフィクションをまじえて『ジャッカルの日』に書いている。
そのような状況で、ジダンの頭突き事件がおこったのだ。フランス人、とくにジョルジュの年代のようなフランス人にとってアルジェリアという言葉は特別な意味をもつのである。
ジョルジュは一度目に訪問した警察からの帰り道、一方通行を逆走する自転車とあやうくぶつかりそうになる。ジョルジュの怒りはやや常軌を逸している。大柄な黒人を相手にジョルジュは醜態をさらして引き下がる。このジョルジュの怒りが、相手が黒人だったからかどうかはわからない。しかしピエロが帰宅しないことで焦ったジョルジュは、なんの根拠もなくマジッドのアパートに警察をひきつれていく。アパートにピエロがいない時点で捜査は終わりそうなものなのに、マジッドと彼の息子は警察まで連行され、しかも一晩留置所に拘留までされてしまう。捜査令状もなくジョルジュの発言だけでマジッドらを拘束する警察にも、そうなったことを自宅でまつ友人に「一晩ねることになるだろう」となんの反省もなく告げるジョルジュにも、まちがいなく相手が黒人のアルジェリア人だから、という差別意識があったろう。
このシークエンスでわかるのは、ジョルジュが自宅でも職場でもつねに背後にそびえさせている無数の本が、なんの役にもたっていないということである。知識人とよばれる人たちの代表であるジョルジュの知識と、自分たちが生活している世界の理解とは、なんの関係性ももっていないということである。そのような虚構の知識、虚構の富のうえにジョルジュがいるという描写は、つまるところプチブルであり知識人であり一般的なフランス人である観客の知識と富が虚構であるという指摘になる。
フランス人、もっと広義にいうとヨーロッパの人間であればだれでも、その国の繁栄が他国へのかつての植民地政策の悲劇の上になりたっていることは、すこし考えれば理解できることである。しかし、プチブルが代表する現代のヨーロッパ人は、その事実と記憶を隠して生きている。だからジョルジュはヨーロッパそのものでもあると言えるだろうし、ヨーロッパの繁栄はマジッドの不幸のうえにあり、マジッドの記憶を隠してしまうことにでしか現在の立ち位置を解決できない。ところが心の奥にあるやましさは消えることはない。やましさゆえにジョルジュは妻とも交歓することができず、マジッドとの再会を悪意でしか理解しようとしない。空虚な知識と権威をバベルの塔のようにつみあげ、かつての罪を正当化するために忘却と暴力を駆使し、自分の周囲にある知識や富といった共通項だけで限定するせまい共同体に逃げ込み、その他の「他者」の苦痛にたいしての黙殺を肯定するその態度は、そのまま現代の、アルジェリア問題を解決せぬまま置き去りにしてきたフランスのすがたとぴたりと一致する。
しかしハネケが指摘しようとしているのはマジッドの哀れな現状ではない。きっとハネケはアルジェリア人であるから弱者であり、弱者であるから映画作家がそこに光をあててやらねばならない、といった庶民感覚の親切心はみじんももっていないと思われる。それよりもハネケはそのような問題がゴロゴロと無数にころがっているのに、まるでそんなものは存在しないかのように振る舞い、生活し、そんな生活を豊かさと思い込み、豊かさと知識が合致していると考えるような知識人層が大嫌いなだけなのだろう。だから大嫌いな人の神経を逆なでしたり、そんな彼らに敵意と悪意を隠すことなく挑戦して、圧勝する映画が好きなのだろう。きっとこの『隠された記憶』の脚本を書いているとき、ハネケはしあわせだったのではないだろうか、と想像する。
なんにしても、ものすごい監督がいたものである。ここがヨーロッパの本当のすごさかもしれない。