マンガ「アイアムアヒーロー」と新潮社「ピンチョン全小説」

最近、出版社の「出版」活動に関して感動した覚えはない。昔なら岩波文庫の売れもしないあの品揃えに感動し、晶文社の目利きに感動し、福音館書店の頑固さに感動し、みすず書房のセンスに感動したのだが、それらはそれで今でも続いていることなのだが、どうも新しい感動が見受けられないのだ。
初版の部数は2千から3千でおさえて全国の書店に行き渡らなくても「様子見」でリスクを減らそうとするわりに、「1Q84」みたいなマンモスヒットは初版から何万と刷って、あっというまに文庫化する(「1Q84」は文庫になっていませんが)。
出版社も営利企業だからどうこういうわけじゃないが、再販制度に硬く守られた営業活動のわりにかえって保守化していくのがちょっと気がかりだ。マーケットインな商品と、文化事業の商品は、なんらかのカタチで区別した方がいいのじゃないだろうか。そういう経営バランスとコアコンピタンスの問題については、一橋あたりで経営陣が古くから議論している、と思いたいが。

と思っていると、今年6月からはじまった新潮社の「ピンチョン全小説」にはぶったまげた。正しくはその前年に新潮社のツイッターで発表があったときに、ツイッターという軽薄なメディアというのもあって、ぶったまげながらも、半分以上は信じられなかった。
信じられないまま、試しに発売日の6月30日に紀伊国屋に行って店員に聞いてみると「まだ本棚に置いてないんです」と言って「メイスン&ディクスン」上下巻を書庫から持ってくるではないか! 行きがかり上、上下巻で7560円払ってしまったが、それでも安いと感じた。
いったい誰がピンチョン全小説を買うのだろうか。大学図書館や地方自治の図書館を別にすれば、研究者と、そうとうな好事家が全国に3~4千人といったところだろう。
ボクの魂の師匠である石川淳が「ボクの読者は2千人」と言っていた。単行本を出しても初版の2千部しか売れず、重版されないことを言っているのだが、それと比べると小説のみだが全集というカタチをとっているこのシリーズは図書館受けがいいのかもしれない。
にしてもピンチョンである。全小説である。年々書店の「外国文学」売り場面積が小さくなって、ファンタジーノベルに浸食されているこの時代に、である。
新潮社、すてきかもしれない。巨大すぎてよくわからないが、もしかするとすごい編集者がたくさんいるのかもしれない。

第二回配本で先日「逆行」上下巻が出た。とうぜん日本初訳だ。ご祝儀のつもりで購入し、まだ5%も読んでいないが、それでもピンチョン節は炸裂していた。まず、主人公がぜんぜん出てこない。これは「V.」にも「重力の虹」にも言えることだが、主人公が出てくるのに時間がかかり、通常の長さの小説では名前をつけないレベルの登場人物が、小説の長さにつられて命名権を与えられている。バルザックとはちがうところで、長い。トルストイの「戦争と平和」は名前のついた登場人物だけで500人以上いるといわれているが、ボクの数えたところ、ピンチョンでは比較的短めの「V.」でも230人ほど。「重力の虹」は数えていないが、たぶん400人ぐらいは行くだろう。だから当然、話のはじまるまでも長くなってくるし、一番はじめに主人公や主要登場人物が出てくるという常識はぜんぜん通じない。
ま、それがピンチョンであり、ピンチョンの他をよせつけない孤高の作家である理由でもあるわけだ。こんなこと、ピンチョンしかできないだろう。


マンガ「アイアムアヒーロー」を2010年10月現在最新刊の4巻まで読んだ。「事件」がはじまるまでにまるまる1巻を費やしている。しょぼいマンガ家の暗く慎ましくもキモくもある日常に飽きて途中で離脱した読者も多かったろう。でも引っぱった、というか、もしかするとココが書きたかったのかもしれないとと思わせるほど長かった。これは珍しいことだ。読者にもがんばってもらう、というスタンスはよいことだと思う。引き替えに読者の数を減らしてしまったかもしれないが、やるならこれぐらいしたほうがいいし、そこが新しい。
パニックがおきてからは普通と言ってしまえば申し訳ないが、手段というか手法は古典的でこのところ多い「非日常パニック状況もの」のトレースよりちょっと上手、といったところ。この手の火付け役になった「バトルロワイヤル」とか、最近よくみる「自殺島」とかよりもリアル感があるのは、やはりはじめの第1巻を作者と読者が共有しているからだろう。あと、背景画のよさが、舞台が富士の樹海に移ってからすごく引き立っている。
4巻までの、というすごく重要な前提条件をつけた上で言うと、パニックという本編がはじまるまでの長い前置きが、今後うまく活用されればこの「新しさ」も生きてくるはずだと思う。にしても、1巻目で出てきた登場人物で生きている人、というか死んだ描写のない人って、恋敵のマンガ家と編集者ぐらいじゃないかなー。どうするんだろ。心配だなー。だから、このマンガにはピンチョン的な解決を希望するのであった。

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