トマス・ピンチョン『V.』とはなにか?


米国の推理小説作家ダン・ブラウンの大ヒットした長編『ダヴィンチ・コード』のなかで、主人公ロバート・ラングドン教授がレオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」を指してこう解説する。中央に座るイエスの向かってすぐ左側に座る人物は、イエスの12使徒のなかでひときわ若くなまめかしく描かれており、その長い髪はまるで女にしか見えない。「このなかの一人が私を裏切るだろう」と言うイエスの言葉に他の使徒たちは怖れ、驚くが、左手の人物は悲しげな顔をしているだけである。しかも聖書には「イエスの愛しておられた者がみ胸近く席についていた」としか書かれておらず名前もない。そしてなによりイエスとこの人物とのあいだには不自然なほどの距離があいており、そのひらいた空間はアルファベットの「V」のかたちをしている。「V」は杯のかたちであり、それは聖杯を意味する。さらにこの左手の人物を左右裏返すと、ちょうどイエスの肩にしなだれかかるような位置に来る。つまり、イエスの傍らに座したこの髪の長い若い人物は、イエスの妻であるのだ、と。
「ダヴィンチ・コード」を楽しませてもらった恩を仇で返すわけではないが、残念ながらイエスの左手に座るのは弟子のなかでもっとも若いヨハネである。レオナルド・ダヴィンチはそもそも男か女かわからないような人物を他にも多く描いており、それはダヴィンチの絵の有名な特徴のひとつである。また、イエスの左側の大きく開いたV字型の空間は、まず弟子たちを3人一組で描写するためにまとめた結果であり、視線が中央のイエスに自然と集中するように図った技法であり、右側のトマスと大ヤコブの手が邪魔してわかりにくいが、よく見るとイエスの右手にもV字型の空間はある。それまで聖者を描く場合には当然だった後光を廃して、ダヴィンチはイエスの背後に見える窓からの外光を後光のように利用した。そのためにイエスの周囲には他の使徒よりも広いなにもない空間が必要だった。さらにボクは思うのだが、もしヨハネを左右反転してしまうと、ユダの左側、テーブルの左から2番目の小ヤコブの真下にあるナイフをつかんだ右手がだれのものか説明がつかなくなってしまうのだ。これはイエスに愛されたヨハネがいち早く裏切り者がユダであることを知り、手をのばして右手にあった果物ナイフをつかみ取った瞬間の描写なのではないか。だからヨハネは驚いておらず、悲しむというよりは右手のナイフに神経を集中させているところなのだ。
と、ダン・ブラウンのように勝手な解釈をして遊ぶことができるのが古典のよいところである。しかし、少なくともラングドン教授は否定できない事実も述べている。「V」が聖杯であり、杯は女性の象徴である、という部分である。『ダヴィンチ・コード』のなかでは、聖杯とはイエスの妻である女性の子宮とそのなかに宿された子どもを指していることになっている。小学生のころ、アルファベットの「W X Y」を縦にならべて女体を描写するという遊びがあった。「Y」が股間を表現しているのだが、それは「V」の過剰描写にしかすぎない。水を入れるグラス、生命をやどす子宮は「V」であり、「V」は女性である。



新潮社から刊行中のトマス・ピンチョン全小説から、先頃とうとうピンチョンの長編デビュー作『V.』が、飯田竜太のすさまじくオシャレな装幀で出た。
『V.』は以前に読了したが、実は『重力の虹』は下巻の30%ほどで中断したままもう何年も経つ。掲示板などを見ていると『重力の虹』読破までに8年かかったとか、『V.』に5年かかったとかいう書き込みが多くあるので理由のない安心をしていたが、最近『V.』の記憶と『重力の虹』の記憶がごっちゃになってきていることに気づいたのである。これを機にもう一度読み返すのも一向だなと思いもするが、ピンチョンのあの長さは危険すぎる。池澤夏樹は新版の帯に「今さら『V.』について何を言うことがあるのだろうか」と書いているが、今のこのタイミングを逃すと、さらに永遠に『V.』について語るチャンスはめぐってこない気もするのだ。



『V.』のあらすじ

『V.』はふたつの時間軸が不合理に交差する物語である。ひとつはニューヨークに住むダメ人間ベニー・プロフェインの1955年のクリスマスイブからはじまる現在時間の物語であり、もうひとつは「V」とよばれる人物を捜すハーバート・ステンシルが収集した1898年からの雑多な情報の集積である過去時制の物語である。
ベニー・プロフェインは海軍で異常な乱痴気騒ぎで除隊したあと、同僚パピー・ホッドの妻で戸籍が焼けたために16才を語るパオラをつれてニューヨークに住む幼なじみのレイチェルのもとに行く。そこには酒をのんだりドラッグをしたりするだけの若者たちが集まっている。「全病連」とよばれるこのグループには、プロフェインの幼なじみでMGに乗る赤毛のレイチェル・アウルグラスをはじめ、「緊急症的表現主義者」を名乗る芸術家スラブ、大衆小説家で「ロマン至上主義」のマフィア、その夫でアウトランディッシュ(珍妙)レコードの重役ルーニー、睡眠スイッチを使いテレビと繋がっているファーガス・ミクソリディアン、他人のベッドシーンを撮影した写真を売買するモリス・テフロン、ギター弾きのメルビン、鼻の整形手術への脅迫観念にとらわれているユダヤ娘エスター、コードをまったく無視しているような演奏をするジャズミュージシャンのマクリンティック・スーフィアなどがいる。それらの奇妙な人物が各々の不可解な日常を送っており、その中でベニー・プロフェインは地下鉄で知り合ったプエルトリコの少年たちに誘われて、カトリックに改宗したネズミが棲むという噂のある地下の下水道に生息するワニ退治の仕事をはじめることになる。ワニ退治ではだれもその本名を発音できないために「ミシシッピー」とよばれる、妻をアウシュビッツで殺されたポーランド人や、スピューゴという名の85才の作戦係や隊長のマニフレッド・カッツなどと地下水道でワニ狩りをおこなう。いっぽう「全病連」のひとりユダヤ娘エスターはシェイル・シェーンメーカーというイーストサイドの整形外科医を訪ねるが、シェーンメーカーはムース=アルゴンの戦闘で顔を消失した戦闘パイロット、エバン・ゴドルフィンの後輩であり、その事件がもとで整形外科の道を進むことになるが、ほぼ10ページにわたる鼻の整形手術の血の気の引くほど詳細すぎる描写のあとにエスターに筋肉弛緩注射をほどこして同意のようなレイプをする。女と親密になることを恐れるシュレミール(木偶の坊)のプロフェインは、レイチェルやパオラから逃げるように全病連のもとを去りワニ狩りの仕事をやめ、エンジェルとジェロニモという偽名の男たちと自身もベニー・スファチメントというイタリア語で精液を表す偽名を使いながらメンドーサの家に居候することになり、職業安定所で偶然再会したレイチェルに奇妙な人体模型を扱う人類科学研究所の警備の仕事を紹介してもらう。オーリー・バーゴマスクという人物が所長をつとめる研究所は、実は軍需産業の大企業ヨーヨーダインの配下にあり、そこではクルト・モンダウゲンらが報復兵器「V1」と「V2」の研究をしており、ミュンヘン出身のモンダウゲンは「空中電波による無線電信障害」略して「空電」に関する計画のために南西アフリカに赴任した過去がある。プロフェインはその奇妙な研究所で放射能観測用人工人体の「経帷子」と会話する。いっぽう全病連ではマフィア、ルーニー、スラブらがセックスとドラッグの生活を続けている。マクリンティック・スーフィアは故郷に帰るというパオラに恋しつつ、ルービーという実はパオラの変装である売春婦とつきあっており、舞台は「Vノート」というジャズハウスにうつる。またユダヤ人エスターは整形外科のシェーンメーカーとの愛人関係のために堕胎することになり、マフィアたちは治安妨害のため警察に逮捕される。パオラに関して海軍仲間のピッグ・ホーディンと喧嘩し、いつまでもレイチェルとわかりあえないプロフェインは実家に戻り、ステンシルに付き合い「精神歯科」アイゲンバリューの事務所に隠された「V」のものと思われる義歯を盗み、ワシントンでイアゴ・サバスタインという保険会社の重役が主催するパーティーに参加し、ピッグ・ホーディンは途中で引っかけたフロップという名の女と結婚するといってマイアミに行ってしまう。「V」の謎を追うステンシルに説得され、プロフェインはパオラの故郷であるマルタにいくことになる。マルタの街ヴァレッタではメイストラルと出会い、パオラは帰国してしまい、偶然知りあったアメリカ人の娘ブレンダとヴァレッタの海岸を散歩している最中に突如としてヴァレッタ中が停電する。ブレンダとプロフェインは真っ暗な地中海をそのままどんどん進んでいくのであった。

これが『V.』における、対人恐怖症でヨーヨー運動を繰り返しすダメ男ベニー・プロフェインのアンチヒーロー物語である。これと対をなすのがひたすら「V」の謎を追うハーバート・ステンシルの物語、というかステンシルが収集した雑多な内容のよせ集めと、彼が「V」を探す行動を書いたスパイ小説風の硬派な部分である。

ハーバート・ステンシルは英国スパイであった父シドニー・ステンシルの残した手記をもとに、歴史の転換点にあらわれる「V」とよばれる謎の女性を追っている。1898年カイロのファショダ事件の最中に、シドニー・ステンシルの同僚ポーペンタインは、決闘によりエリック・ボンゴ・シャフツベリーに殺されてしまう。このシャフツベリーは現代の時制でハーバートがマンションを借りている同名のボンゴ・シャフツベリーの父親にあたるのだが、彼には美しい愛人がいて名をヴィクトリアという。イギリス議会の大物政治家アラステア・レン卿の娘ヴィクトリアはポーペンタインの友人グッドフェローとの恋に破れ、エジプトをさまよう。しかしヴィクトリアがエジプトをさまよう場面は、すべてそのヴィクトリアを目撃した人たちの話した内容から推察するようになっている。ホテルの雑役夫でアナーキストのユーゼフ、かつてはラルフ・マクバージェスと名乗っていた風来坊の老人マックスウェル、アレキサンドリア・カイロ間の急行機関士ウォルドター、カイロの馭者ゲブレイル、ビアホールの店員ハンネなどそれぞれの生活や過去を織り交ぜながらさまざまな人物がヴィクトリアの目撃譚を語るのである。
次にステンシルは現代時制のニューヨークで、ネズミをカトリックに改宗させたという地下に住むフェアリング神父の痕跡を探しにニューヨークの広大な地下下水道へ潜り、そこでワニ退治のために雇われたワニ狩り隊にあやうく殺されそうになる。
第6章では、シェーンメーカーが整形外科医になるきっかけを与えたエバン・ゴドルフィンの父であり、大英帝国の英雄でもある探検家ヒュー・ゴドルフィンが謎の秘境「ヴェイシュー」へ行こうと偏執狂的な努力を続けている。「ヴェイシュー」にはなにがあるのかはわからないが、シドニーの同僚コベスはヴェイシューで発狂してしまう。そのいっぽう、「マキャベリの息子たち」というテロ組織を配下に置く指揮官ガウチョ、マンティッサ、クエルナカブロンらが、ウフィツィ美術館からボッティチェリの「ヴィーナス誕生」を略奪する計画をたてている。またもういっぽうではイタリアのヴェネゼイラ領事館で暴動がおこり、そこに領事館員やヴォークト、フェランテ、ガスコーニュといったスパイが暗躍し、それら別々に語られてきた物語が、ヴィクトリアという謎の女性の登場と同時にひとつの巨大な事件となる。現代ではハーバート・ステンシルが、軍需産業の帝王であり巨大企業ヨーヨーダイン社長のブラッディ・チクリッツと「V」に関して面会をする。第9章では南西アフリカでのモンダウゲンの話がはじまる。がしかしこの話は1922年の話である。ドイツ領南西アフリカではボンデルスワールツ族の反乱指導者アブラハム・モリスと原住民根絶令を実施するドイツ人フォン・トロータとの戦闘が激化している。モンダウゲンが身を寄せるフォプル家は戦闘にたいして籠城をし、空電を使って外部と連絡をとろうとする。奴隷が拷問死したり自殺したりするその屋敷で、モンダウゲンはヴェラ・メロビンクという名の義眼の女とであう。
第10章はさらにわからない。一読するとこれはファウスト・メイストラルという詩人が子供に残した手記である。まずメイストラル1世、2世の歴史を語り、マルタの歴史を語り、ファウストの妻エリーナ・ゼムクシーとの出会いと結婚、第二次世界大戦のヴァレッタ空襲を語る。それによるとどうやらパオラはゼムクシーの娘であるようだ。たしかに作品冒頭パオラの旧姓はメイストラルだと書かれている。そのゼムクシーとファウストを結びつけたのがアバランシュ神父である。アバランシュはつねにネズミに説教をしたフェアリング神父と重なってイメージされる。アバランシュには二項対立的な存在があり、それがファウストの言う「悪司祭」である。マルタにおける神と信仰と妻の死を語ったあと、ドイツ軍による爆撃で廃墟となったヴァレッタで恐るべき事実を目撃したとファウストは語る。そこでは倒れかかった梁によって動けなくなったかの「悪司祭」を、子供たちがリンチしていた。しかしそれよりも恐ろしいのは、「悪司祭」の全身が義足、義手、義眼、義歯とありとあらゆる人工物でできたサイボーグであり、臍にはサファイアが埋め込まれ、カツラのとれた頭部にはキリスト受難の刺青があり、なによりそれは男装をした若い女であったという事実である。
次に1913年パリに話は移る。15才の少女メラニー・ルールモディは、サーチンというロシア人の振付とポルセピック作曲による人気劇「中国娘の陵辱」の主人公を演じることになる。それらの舞台芸術をとりしきるのがパトロンである「レディーV」といわれる性倒錯者である。メラニーはレディーVとフェティッシュな愛人関係になるが、舞台初日、メラニーは不可解な事故により串刺しとなって事故死する。噂によれば、レディーVはイタリア民族統一党員のスゲラキオと駆け落ちしたという。17章ではミッツィ派のスゲラキオという男とマルタに出現する、ダヌンツィオやムッソリーニとも親交のあるヴェロニカ・マンガニーズという謎の女が登場する。ステンシルはヴァレッタでメイストラル、フェアリング、ゴドルフィンらと会う。しかしステンシルの「V」探求はたいした成果をあげることなく終了する。ヴェロニカ・マンガニーズとその顔のない運転手に見送られながら、マルタからの帰途に乗った船がたった15分間の竜巻によって乗客ともども海の藻屑と消えてしまうからである。

以上がトマス・ピンチョンの『V.』のあらすじである。ここにあらゆる方向に枝分かれする挿話、薀蓄、知識、人物や歴史、風土、風俗に関する解説、隠喩、心理描写、会話が膨大に詰めこまれている。正直言うと、物語の構成を追うだけで精一杯である。時制や人物の相関、別名や歴史的背景や、あるいは日本語訳によって消えてしまったピンチョンお得意の言葉遊びや引っかけ、パロディまで考慮しながら読むのはかなりの技術と記憶力がいる。まして批評となるとだれだって物怖じするだろう。そこで、ここではこの作品を縦に紡ぐ太い糸にだけ的を絞ってみたいと思う。


「V」という頭文字

研究者らはまずVに関して、虚無(Vacuity)、虚空(Void)、変転(Vicissitude)、多様(Versatile)、真理(Verity)、道(Via)などの言葉をあげているが、それは半ばこじつけ解釈と考えていいだろう。VだろうとWだろうとXだろうと、それなりの言葉を持ち出すことはたやすい。むしろ重要なのはこの小説の第二の主人公であるハーバート・ステンシルが、彼独自の歴史観として「三位一体史観」というものを「精神歯科」アイゲンバリューにたいして語っているところである。Vは5であるが、3点をつなぐ線でもある。この小説のなかでは3という数字が奇妙なほど多く出てくる。Vの動きやステンシルの行動に対して「父と子と精霊」という概念をあてはめるのは容易である。プロフェインがあらわす内向性や温室性といった今で言う引きこもり的な性質に対して、ステンシルの虚無的で脱性格だが外向的な性質、そしてヴィクトリアの変化する女性的でかつ破壊的な存在は、みごとな三位一体をなしている。これはなにもピンチョンの発明ではない。それよりずっと以前にダンテが徹底的に、まるでゴシック建築のような厳格さで3という数字を文学に取り入れたものの再構築である。
だがもっと具体的に言うと、Vはけっきょく女の名であり、Vという女が出現する地名であり固有名詞の頭文字である。
まず第3章でヴィクトリアという女が出てくる。これが世界を変える事件を引き起こす破壊の神になるとは思えないような処女性を持っている。第5章でフェアリング神父のもっとも忠実な生徒としてヴェロニカという名前のメスのネズミが登場する。しかもフェアリング神父はヴェロニカを「V」と頭文字で手記に記す。つぎに本編とはまったく関係のないような話がつづく第6章で、ヴェネゼイラ大使館での暴動が書かれる。テロリストのガウチョらが盗もうとするのはボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」である。ヴィーナスはとうぜんVで始まる単語だが、それよりも女性的なものの象徴であり、その「誕生」に対して領事館員、スパイ、テロリストなどの男たちが血なまぐさい争いを引き起こすのはどのような意味なのだろうか。また、ヒュー・ゴドルフィンが探し求めている「ヴェイシュー」もVからはじめる。しかしヴェイシューがどこにあるのか、なぜゴドルフィンはヴェイシューを恐れながらも取り憑かれたようにそれをもとめるのかはわからない。ヴェイシューは「頭の先からつま先まで全身に刺青をした肌の黒い女」のようだったとヴィクトリアに語る。
モンダウンゲンは独立戦争の激化する南西アフリカにある退廃的なフォプルの城で、ヴェラ・メロビングという謎の女と出会う。女の片目は義眼であった。ここではじめて頭文字にVと名のつく女と義体が合体する。ファウスト・メイストラルが書いた手記に登場する「悪司祭」は「V」ともよばれており、神父の姿をした「シスター」である。第14章では30代になったVがパトロンとして若い娘をレズビアンとして囲い込む。
パオラとステンシル、プロフェインが向かったマルタの街はヴァレッタという名である。すべてはこの土地で完結する。ヴェロニカ・マンガニーズという女の噂を聞き、マダム・ヴァイオラという義眼を持ち去る催眠術士の話を聞く。また、プロフェインが最後に知り合うビーバー大学生ブレンダは、苗字をヴィグルズワースと言い、作中登場するマルタの騎士は「ラ・ヴァレット」という。
Vのつながりは重要である。しかしVは一種の罠でもある。執拗に追えば追うほどVの意味は不可解になってくる。三位一体をあらわしていること、もともとヴィクトリアとよばれていた女性と思われる人物が、名前を変えながらも頭文字だけはVと踏襲しつづけていること、といったつながりを認識しておけばよいだろう。


サイバネティクス

『V.』はつねにサイバネティクスという縦糸で解釈できる要素をもっている。サイバネティクスとは、生物である人間と機械との制御系の学問であり、アメリカの数学者ロバート・ウィーナーが創始者とされている。ピンチョンはこのウィーナーに多大な影響をうけている。制御系とは、入力に対する反応を生物、機械の分け隔てなく研究する学問である。プリントボタンが押されるとプリンターから印刷された紙がはき出される動きと、熱湯に手を入れたときに自動的に手が引っ込む動きとは、制御系においてなんら違いはない。サイバネティクスはそれらの動きを定式化し、肉体と機械との入出力を理解しかつ制御する理論を発見することである。それができれば、熱湯を感知して身をまもる機械ができるし、人体の反応に対して血管に血液を送りつづけるペースメーカーのような人工部品が可能になり、最近では脳に埋め込んだ電極に微弱の電気を流して聴覚や視覚のかわりとする技術も存在するそうである。それら個々の入出力制御の部品が有機的に集合したものがサイボーグである。
サイバネティクスを直接表現するくだりも多く用意されている。プロフェインは人類科学研究所で「経帷子」や「ショック」という名の人体モデルと夜な夜な人間と人形の違いに関する会話をする。「死んでいないならおまえらはどういう状態なんだよ」「君らとかわりないさ。君らはもうすぐってところまできている」。
またテレビと繋がったまま生きている「全病連」のボスのファーガス・ミクソリディアンや、腕にスイッチのあるボンゴ・シャフツベリーなどの半サイボーグ人間が多く登場し、顔を失う男、鼻を手術することでユダヤ人であることから逃れようとする女、刺青、精神歯科、整形外科、サディズム、マゾヒズム、同性愛、拷問と、身体改造に関連する物語が多く登場する。
Vは物語がすすむにつれ徐々にサイボーグ化していく。南西アフリカでは義眼であったものが、マルタでは義眼のほかに義手、義足、義歯、カツラ、人工臍といったものまで身につけている。リンチする子どもたちが空襲警報におどろいて逃げ帰らなければ、「ひょっとしたら、胴体にも摩訶不思議なものが入っているかもしれない」とその行為を遠くから観察していた詩人ファウスト・メイストラルは思う。つまりVは文字通り「解体」されるのである。それはウィーナーの理論を知れば知るほど、人間というものが、生物無生物を問わず非特殊な存在であるということの暗喩でもある。ウィナーは「脳とは驚嘆すべきコンピュータシステムである」と言う。通信という入力と反応という出力を考えるとき、「人間だけにそなわっている」とおもわれがちな特殊能力は、ヒトゲノムがプログラミングであるように、機械化可能な少なくとも自然界にはその根拠をもとめることのできない定式に還元されてしまう。それは後から述べることになる「エントロピーの増大」が、人間という精神的生き物を解体する手順であり、順当な進化でもあるのだ。




エントロピー

エントロピーとはドイツの物理学者クラウジウスが提唱した熱力学の不可逆性に関するパラメータである。熱く焼けた石は放っておくと常温になる。しかしわれわれはその石を水に入れて風呂を沸かすことができる。熱伝導という理論により石から水へ熱そのものが平均化するからである。この伝導を熱力学では「熱力学の第一法則」とよび、熱が水に伝わる移動を定式化するためのパラメータが「エネルギー」である。しかし逆にわれわれは、熱く焼けた石が常温になっていくのを阻止することはできない。あるいは冷たい水と熱湯をあわせてぬるま湯をつくったあと、そのぬるま湯をまたもとの冷たい水と熱湯にもどすことはわれわれには不可能である。これを「熱力学の第二法則」と言う。この不可能であることを数式化するためのパラメータがエントロピーとよばれている概念である。原子の物理学と組み合わせてこれを考えたとき、世界や宇宙はつねにエントロピーが増大している状態であると考えることができるそうだ。ビッグバン以降、宇宙はつねに絶対零度の動きのない完全死の状態に進んでいるといわれている。混沌からはじまった宇宙は秩序の世界に向かうと考えていたわれわれ人類にはショックなできごとである。ウィーナーによれば宇宙は確立の小さな状態から大きな状態へ移動し、区別や差、組織や有機的結合が消えていくと言う。
エントロピーは情報工学にも応用された。情報理論において、エントロピーとは情報発生の確率を問う学問であるらしい。たとえばニュースは珍しいできごとを放送する。それは「情報量」とよばれる確率論にしたがっている。どこでも起きえるできごとはニュースに該当する「情報量」ではない。たとえばサイコロを100回ふってすべて1が出たとしたらこれはニュースであるし、事実われわれはそういう「ニュース」や「奇跡」とよばれる確率論上の「神のいたずら」にかこまれて生きている。しかしそれが100の100乗回ふってすべて1であることは事実上あり得ない。時間が不可逆性である以上、情報の出現回数が多くなれば偶然や奇跡はだんだんと存在しなくなり、われわれはニュースのない世界を生きることになる。サイコロをふる回数が多ければ多いほど、情報そのものが多ければ多いほど、「情報量」は死滅して行く。つまりエントロピーが増大しつづけているのであり、統計上、回数を重ねるごと、時間の経過するごとに、グラフは動きのない直線に落ち着いていく。熱量でいうと熱いものも冷たいものも存在しなくなり、エネルギーは消え、まったく動きのない絶対的な静的世界が訪れる。
さらにピンチョンはこのエントロピーを、情報の通信と反応という上述したサイバネティクスでいう制御理論を使ってひとつの大きな文学としてみせた。人間である理由を次々とサイボーグ化し最終的に解体されてしまうVや、集合から離散・破局へとむかう人間の欲望に忠実な「全病連」の若者たち。Vをもとめながらなんの結果も得ることも、自分の母がVであると知ることも、それを読者に伝えるすべもなくまったく無意味で喜劇的な死を迎えるステンシル。なによりVは人類を戦争、テロ、紛争に導き、世界を破滅に導くのである。しかしそれは実は甘美な誘惑でもあり、まるで謎の秘境「ヴェイシュー」のようである。そこは美しいわけでもないが、人間を誘惑する謎の魅力をもっており、人々はその皮膚の下の真実をしりたいと願うような土地である。思うに、それはつまり無秩序と暴力が表現する「絶対死」へのあこがれであり、エネルギーの死滅であり、エントロピーの最大化である。『V.』は人間の発する情報が、かえって世界を無秩序にする暴力となるプロセスとそのメカニズムを書いている、とも思えるのである。




おまけ(「V.登場人物表」PDF)

ピンチョンのなかでは、『V.』はそれほど読みにくい小説ではない。ただ、名前のある登場人物が多いこと、大きく分けてプロフェインとステンシルの物語がまったく別系統であるようで実は微妙に交差しており、登場人物がそのどちらにも行き来している場合があることなどがこの小説を難解にしている。早々に挫折してしまった人の多くは、第3章「役者ステンシルの早変り八変化」で本を閉じたのではないだろうか。ここは、移動していくヴィクトリア・レンを目撃した人たちの証言からなり立っている。最初はそれがわからず、次々と出てくる名前のある登場人物が、自分の生活や仕事や人生や、かつて知り合った人の名前まで言うので混乱するのだろう。ここはそういう構造をとった話法なのだと理解して読めば問題ない。
さらにいいのは登場人物をメモしておくことだ。今回の新潮社版には登場人物表が添付されているようだが、かつての国書刊行会版にはなかった。登場人物表があったほうが「便利」なのか蛇足なのかは問わないとして、『V.』という質的にも量的にも巨編とよんでいいこの作品に分け入る足がかりとして、ボクがかつて個人的な利便性を考えメモした登場人物表をPDFで用意した。参考にしていただければ幸いである。

基本的にこの登場人物表には登場順に人物名を記載している。登場時にニックネームでよばれていた場合はニックネームを左に記載し、右にあとからわかった本名をいれている。名前のあったものは混乱と失念を考え、猫でも馬でも記載している。
なお、人物名表記などは国書刊行会の版によっている。またメモのし忘れ、カタカナ表記の間違い、登場順の間違いなど多いと思う。文字校正もしていない。しかも最終章は当時「読めたな」と思ったので記載していない。そのへんまでいければもうこの表もいらないだろう。もういちど言うが、これはボクがまったくの個人的な読書のために作成したものである。自己責任でお使い願いたい。

「V.登場人物表」のつくりかた
下記リンクをクリックするとGoogleDocsでPDFが表示される。
左上の「File」メニューからPDFをダウンロード後、カラーで印刷すると、ページ下部に薄いグレーの線があるのに気づくだろう。その線にあわせて2ページとも下部を切り落としていただきたい。
切った紙2枚を背中合わせで、のりかなんかで貼り付ける。ぴったりと。ずれないように。
くっついたらまん中から縦に二つ折りにする。
すると天地がちょうど本からはみ出ないようになり、しおりの役目もはたす。ただし、国書刊行会版のサイズに合わせてであるが。新潮社版の人は縮小するなりして適宜調節してください。





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