異界接触譚 諸星大二郎、『遠野物語』『ドグラ・マグラ』『山月記』『カロカイン』『密会』ラヴクラフトほか

いつも通りの日常なら、なにも文章にしたりまして本にする必要はないはずだ。日常でないところに、書物がなにかを伝えようとする動機があり、読み手側には理由がある。それは、いつも通りの日常に、なんらかのきっかけでちょっとした裂け目ができることから始まる。普段は見えない、あるいは見ないようにしている裂け目の向こう側を覗けば、実はなにげなく生きている日常よりも重大な真実が見えてしまうこともある。そして、その裂け目の向こう側をみた人物は、見てしまう前にはもう戻れない。
そんな、いままでの日常に存在していなかったものを「異界」と呼び、その異界とであってしまう物語を「異界接触譚」と呼ぶことにする。
この手のプロットはむしろ古典的である。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」も、日常がなんらかのきっかけで突然とその意味をかえ、最終的には自らの生命よりも重要なものを見つけてしまうという一種の「異界接触譚」と言えなくもない。若きウェルテルにとって、ロッテの美貌はいままでの日常には存在していなかった「異界」である。
しかしここではもう少しテーマをしぼって、自分だけではなく、ごく普通に生きている人間が出会う可能性の低い「異界」に接触してしまった、どちらかという不幸な人の物語を紹介したいと思う。




「異界歴程」前田速夫

週刊新潮の編集長だった前田速夫が、自身の趣味が高じて本格的な民俗学の本を書いた。新潮だけあり理論的で文章も高品質。出版社は晶文社だが。
大阪ローカルのテレビ番組「探偵ナイトスクープ」のプロデューサー松本修が、番組企画をもとにした「アホ・バカ分布考」を著したのと、出自が似ている。
ちなみに言語的な境界線=異界との接触線は柳田国男の「蝸牛考」で古くから民俗学として調べられている。「アホ・バカ」も「蝸牛(カタツムリ・デンデンムシ・マイマイ)」の呼び名も、京都を中心とした同心円で日本に広がっている。これを方言周圏論という。
松本清張の「砂の器」では、島根県の貧村出身の被害者の話す方言を聞いた目撃者が「東北弁みたいだった」と話すことで捜査は低迷する。京都を中心としたとき、島根と東北南部は同心円のほぼ等距離にあるのであった。


「不安の立像」諸星大二郎

異界接触譚となればこのマンガ家しかいないだろう。諸星の書くマンガのほぼ80%が異界接触譚といっても過言ではない。
とくに初期短編を集めた単行本「不安の立像」は、普通なら見ることなく人生を終えるはずの「異界」に、ひょんなことからであってしまったアンラッキーな人たちが無数にでてくる。表題作「不安の立像」はその最たるものだ。
平凡なサラリーマンである主人公は、毎日乗る満員電車の窓から、ある日ふと線路際にたたずむ黒い影を発見する。それはずっと昔からそこにいて、誰も気にもとめないし、ただたたずむばかりでなにをするわけでもない。しかし主人公は気になってしかたがない。ある土曜日の終電後、立ち去る黒い影を追いかけて地下歩道で声をかける。逃げ去る黒い影の肩にかけた手に感じたものは、この世の感触ではなかった。数日後、たまたま飛び降り自殺の現場に遭遇した主人公は、通過する電車の向こうに、あの黒影がすばやく動くのを見る。その黒い影は、ただひたすらずっとこの時をまっていたのだ。
この世には、だれもが知っていながら気にしないようにしているものがあり、それを追求しないことで保たれる平和や安心がある。その境界を踏み出すことで、それは「不安の立像」になり、異界と接触することになってしまうのだ。


「諸星大二郎ナンセンスギャグ漫画集」諸星大二郎

「ナンセンスギャグ」と命名されているが、これは「異界訪問ギャグ」ととらえてもらってもよい。とくに「怒々山博士」はつねに異界ととなりあわせのギャグマンガだ。まったく「笑う」ことはできないが。
「ユリイカ 諸星大二郎特集」もあわせて読むとこのナンセンスギャグにも意味が見えてくるだろう。


「遠野物語」柳田国男
「水木しげるの遠野物語」水木しげる

遠野物語は日本古来の異界接触譚をはじめて体系づけた民俗学の書物である。
太古の人間の脳は、脳底辺部の海馬がいまよりもずっと大きかったそうだ。「恐怖」や「畏怖」という言葉をもたなかった古い人類は、恐怖をそのまま恐怖として目に見えるかたちで体験していた。現代でいう幽霊や怪物、妖怪などの魑魅魍魎がちょくせつ目に見えていたのではないか。
しかしいったん「恐怖」という言葉で自分の心の動きを体系づけた人間は、もう海馬の働きにたよることもない。二本の舌を出すなんだかぬめっとした細長い生き物をはじめて見た人の恐怖は、「蛇」という体系内におちついた言葉を知るわれわれには理解できないだろう。
柳田が遠野でおこなったこのフィールドワークは、つまり明治の東北農村部がもっていた海馬の働きを、「民俗学」という言葉の体系に置き換えた近代化の作業だったのだろう。
それを100年後に水木しげるという希代のマンガ家がカバー&リミックスしている。この人以外ではできなかっただろう。



「ドグラ・マグラ」夢野久作

異界は外側にだけあるわけではない。とうぜん自分の内部にも通常ふれてはいけない部分もあるだろう。「ドグラマグラ」の場合はそこにふれないことで精神異常者としての平和な日常があった。逆説的だが、正常な精神にもどるとは、ふれてはいけない異界に戻るということだ。狂った原因に立ち返ることで現在の狂気を矯正し、より重度の狂気へと進行することだ。だから異界は両方の局面に存在しており、主人公はそのどちらに傾いても平穏な生活は望めない。そうしてこの小説が特異なのは、その狂気を治癒する側こそがもっとも救いようのない狂気の側にいることである。
このように「ドグラマグラ」はしかけられた倒錯が複雑にいりくんでおり、小説の構造も負けず劣らず入り組んでいる。



「目を擦る女」小林泰三

隣に越してきたといって挨拶にきた女は、「わたしはいま眠っているのです。だから起こさないように、大きな物音をたてたり騒いだりしないで下さい」と指の付け根で目を擦りながら言う。夢が覚めると、自分の夢であるこの世界もさめてしまい、人の生きられる世界ではない現実に戻ってしまうのだ。
主人公の操子はよせばいいのにこの目を擦る女に興味を持ち、夢のまま終わるべき自分の世界を「異界」へ近づけてしまう。
なんだか非常に気持ちの悪いSFのような怪奇短編小説である。こちらも「ドグラマグラ」と同じく異常な「異界」が真実で、正常な毎日が本当は「異界」であるという逆転「異界接触譚」だ。


「山月記」中島敦

古の中国、天宝の頃、監察御使の袁惨は道中虎に襲われそうになる。しかしすんでの所で虎は襲うのをやめ人語を発する。その声に聞き覚えのあった袁惨は「その声は我が友であった李微子ではないか」とたずねる。虎はこたえて「いまや私は異類のものとなっている。だがほんのしばらくでよいから私と話しをしてくれないか」といって、自分の身の上を語り出す。
もしここで李微子がいうように、彼の自尊心や羞恥心が彼を異類の虎にしてしまったのであれば、われわれは誰しもそうなる可能性をはらんでいることになる。人間の心をわすれ、人の肉を喰う異類、つまり異界はだれからも紙一重の距離にある。詩をたしなみながらも琢磨せず、それでも自分は他人とは違うのだという自尊心ばかりがそだった結果だと、本人は言う。これは中島敦の自戒だろうか。それとも中島敦なんかをありがたがって読むわれわれ読者への警告だろうか。
なんにせよ、異界の虎にならない秘策はなさそうだ。


「カロカイン」カリン・ボイエ

スウェーデンの詩人ボイエの小説作品。意外にもSFの形態をとり「1984」のような管理社会の恐怖を書いている。1930年代のスウェーデンであれば、隣国ソビエトのスターリン主義はそうとうな脅威であっただろう。
しかしここでは模範的な科学者である主人公カールが、模範的であるがゆえに発明した自白強要剤カロカインのために、すべての模範的生活を捨て国家に反逆しなければならなかった部分に注目したい。
日常と異界との立ち位置は「ドグラマグラ」や「目を擦る女」とおなじで、彼らが日常と思っているものが読む側からは異常であり、異常と思っているものがこちらからは正常である。そしてそれらの主人公たちは外的な要因で日常から異常へ、普通の世界から異界へと目覚めていく。しかし「カロカイン」の場合はカールのもつ日常への忠誠心や順応力が逆に異界を呼び寄せるところがおもしろい。
どこかで読んだことのあるような物語のようだし、未来の描写もあまりリアルではないが、人間の尊厳をもとめるテーマはどっしりと重い。


「密会」安部公房

呼んでもいない救急車によって妻がはこばれていく。搬送先の病院も告げず、まして病名もしらないまま・・・。
この小説ではあらゆる二元論的な意味が溶解していく。「よい医者はよい患者」というスローガンが掲げられ、四本足の医者が診察し、生きたまま骨の溶ける少女に恋してしまうこの病院で、おおかたの読者は自分が「健康」だと宣言することはできないだろう。
はじめは妻を必死に探す主人公だが、その衝動をおこさせる愛があのようにグロテスクな性描写からなりたっているのを見るとき、愛も殺意も「地獄では一つの球根に融けあって」いることを発見する。
読み進めれば、読者はとうとう信じるべき日常の中心点さえ見失ってしまう。異界に接触した人の物語を読む楽しみはここにはない。これは自分の周囲をとりまく日常に対する懐疑を産み、どんな場所にも偏在する異界を、明確に認識するための意識のメルトダウン装置だ。


「ラヴクラフト全集」HPラヴクラフト

コズミックホラーといいクトゥルフ神話といい、この作家の後生にあたえた影響ははかりしれない。諸星大二郎の「不安の立像」も小林泰三の「目を擦る女」も、おおもとをたどればラヴクラフトにいきあたる。最近の映画では「パイレーツオブカリビアン」のデイヴィ・ジョーンズの外観や、「崖の上のポニョ」の、とくに嵐が魚となって打ち寄せる描写などはまんまラヴクラフトである。
世界が、いまあなたが見ているような姿でありつづける保証はないし、以前からずっとこうだったという証拠もない。ラヴクラフトを始祖とした「コズミックホラー」はそう伝えようとしている。
これらは、船が難破してしまうとか、たまたま地下室のある家を借りてしまうとか、行くなといわれた漁村に舞い込んでしまうとかの些細なことをして、あっというまにこの世界の姿が一瞬にして凶悪で暴力的なものに変わってしまう瞬間をみてしまった、ごく普通の人たちの、狂気の記録である。
見たもののスケールがあまりに巨大なので、たいてい目撃者は発狂するか死んでしまう。だからほとんどの物語は発狂前か死ぬ前に残した狂気の手記という体裁になっている。
ラヴクラフトは、ぞっとする異界への古典的でしかしもっともすぐれた案内書だ。おやすみ前にどうぞ。

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