投稿

11月, 2010の投稿を表示しています

LEGO Mindstorm NXT・オリジナル・トレーラーカー

イメージ
何年かぶりのマインドストームです。息子と話し合ってテーマはトレーラーに決定。牽引車部分はボクが作ります。 あまりに久しぶりでなにをどうはじめていいかわかりませんでしたが、なんとかハードウェア側は完成。 トレーラー牽引車部分。時間の都合でボディーは作っていません。重くなるし。 牽引車先頭部分のバンパー。タッチセンサーを入力系統4に接続して、障害物に当たると転回するルーチンを組む予定。 前操舵輪のメカニズム。モーターBを15度ずつ動かして、200%のギアで操舵します。 今回のテーマはトレーラーの連結部分をつかって最小回転範囲を小さくすることです。 後ろの駆動輪。ギア比をかえてそれなりのスピードを目指します。 息子作の荷台車。デュプロです。 荷台車と牽引車の連結部分。テクニック系パーツを教育用ディプロのねじ穴に差し込んでいます。マインドストームとデュプロの組み合わせは珍しいはず。 合体したところ。ハードウェア側は完成。 ところがNXTソフトウェアが立ち上がらない。 しらべるとsnow leopardで起動するにはパッチが必要だそうです。 さっそくマインドストームウェブサイトからパッチをダウンロード。 同梱の解説書読むと、なんとターミナルでコマンド打ってルビープログラムを起動させるらしいです。おもちゃのためのパッチとは思えない。 しかしRubyなんですね。すごいなー、Ruby。 Mindstorm NXT のパッチプログラムDL画面 Rubyによるローカルファイル処理のプログラム ところがそれでも動きません。 よくよく調べるとこのパッチはNXT2.0用のパッチのようで、ボクのNXTは1.0でした。 1.0から2.0へ無料でアップデートする方法はないのでしょうか。あるいはNXT1系をsnow leopardで動かすことはできないのでしょうか。なければこのトレーラーは永遠に動かないのですが・・・。 というか、永遠にマインドストームの組み込みソフトが作れない。NXT2.0(32,745円)を買えということでしょうか? 買っていいのでしょうか? いいわけないよね。 どうしよう・・・?

旅行記のしあわせ、の本棚 「パタゴニア」「ハワイイ紀行」「中国鉄道大旅行」他

イメージ
「天井桟敷」で有名なマルセル・カルネ監督がナチス占領下で作った映画「悪魔が夜来る」の中の台詞に、こんなのがある。 「故郷では忘れられ、余所では名もない。それが旅人の運命だ」 カルネ監督作品なので、この台詞は脚本家のジャック・プレヴェールの作だろう。なんにせよ旅というものの苦労と、しかし旅に魅入られた者が感じる自由もそこに表現されている。 旅人というと大げさだが、旅行は大好きである。できるなら旅先で死にたいとも思う。が、そんな簡単に旅にでることができないのは、社会人ならみなおなじだろう。だからその欲求を解消するためなのか、旅行記が大好きである。 江戸時代におこったお伊勢さんブームでは、村人全員が金を出し合って籤にあたった一名のみがその金で伊勢まで旅行できる、という制度が各地にうまれたそうだ。このしあわせな村人は、道中見聞きしたものを村に帰ってみなに話す。作家が旅した見聞を書物にして出版したものをボクが旅行記として買ってきて読むのは、この籤引きお伊勢さんと非常に似た関係性だといつも思う。大多数の人間ができないから、できる状況にあるラッキーなものが代表として旅をする。ただし旅行記はお伊勢さんとちがって金は後払いであり、道中見聞きしたものがおもしろくなかったらもとはとれない。 誤解を恐れずにいうと、旅行記なんてだれでも書ける。対象そのものが珍しいのだからテクニックは二の次である。実際そのように考えて出された本も、他のジャンルに比べて多い。内容も凡百の旅行記ブログと大差ない。場合によってはタレント本と紙一重のものもある。旅行記が好きで多少は読んできたつもりだが、そんなわけで「あたり」はそんなに多くない。 ここではいくつかの方向性にわかれた旅行記を紹介する。A級作品もあるし、B級もある。行き先もテーマもさまざま。ただ、それぞれの方向性の上での「あたり」を紹介しようと思う。 「パタゴニア」ブルース・チャトウィン これは立派な文学であるが、旅行記でもある。 主人公の「私」は子どもの頃に祖母にみせられた「ブロントサウルスの毛皮」が忘れられずに、採取地の南米パタゴニアを夢見るようになる。その土地の風景描写、風俗理解、歴史の記述など一切ない。まるでチャトウィンが好きかキライかで判断しているようだ。もちろん旅行記につきものの命がけの移動などもない。気楽だが横方向に広がる主人公の思

架空の地名と血族 『昏き目の暗殺者』『アブサロム、アブサロム!』『消去』

イメージ
土地は恐ろしい。国家というものがそうであるように、土地とは暴力の限界域のことでもある。その主権と暴力の及ぶところと及ばぬところの、その広がりをわれわれ近代人は「土地」と表現する。自然状態の山や川や平野は「土地」とはいわない。人間が自然に介入し、所有の観念をもってはじめて自然の大地が「土地」となるのだ。マックス・ウェーバーは国家を「ある特定の領域において正当な暴力行使を独占する」ものだと規定している。「ある特定の領域」を指呼する土地がなければ国家は現在のかたちではありえないし、戦争ももっとずっと少なくてすんだはずである。 経済という、近代国家にとってもっとも重要な問題が発生する以前には、民族という組織単位が土地を収奪し管理し相続していた。経済がいまよりもっと小さな社会で成立できていた時代には、土地こそが民族や国家の最重要課題であり、民族そのもの、国そのものでもあったのだ。 民族をもっと細かくわけると、血族となる。だから血族や家族はつねに土地と結びついている。都会に出てきた地方出身者が思い描く「ふるさと」のイメージは、つねに血族のことであり土地そのもののことだ。出自の過去から逃れようとするものは、つねに自分の中の「血」と「地」に対して戦うことを余儀なくされる。 だから作家は自分や登場人物の中にある「血」を書き出そうとすると、土地は避けて通れないファクターとなる。逆に土地というものを描くには、そこに生きる家族を通してしか描写ができないのだ。そして土地を書き出すとは、国家や民族がそうであるように、どこか暴力と呪詛の暗い影がつきまとうのだ。 今回は、「血」と「地」にまとわりつくその暗い影を見事に書き出した3作品をご紹介しようと思う。どれもすばらしく奇妙な架空の地名を与えられた土地が舞台である。地名が架空なのは偶然ではない。実際に存在する土地では、彼・彼女らが書き出す血と暴力と呪詛の重みに耐えきれないからだ。 『昏き目の暗殺者』マーガレット・アトウッド 架空の地名「ポート・タイコンデローガ」 「昏き目の暗殺者」は、死の近い老婦人アイリスが、自分の体験したチェイス家での5世代にわたる悲劇を、あうこともない孫娘のマイエラが自分の死後に発見してくれるよう手記にしたためたという体裁をとっている。祖父母の話、街一番の名士で釦工場を経営する父の話、母の死の話、釦工場が労

「ドン・キホーテ」一日一コメント@Twitter

イメージ
何十年も前から気になっていたミゲル・セルバンテスの「ドン・キホーテ」を先週末から読み始めました。 「古典とは『さいきん改めて読んだのだがね』と言うものである」と誰かが書いていました。しかし「ドン・キホーテ」ははじめて読みます。半ば発狂した騎士道物語キチガイのおっさんがヘンテコな旅をする物語とは知っていますが、予備知識のなさではボクは一般的だと思います。 今の今まで読んでこなかったんだから、そのまま普通に読んでもおもしろくない。だからツイッターを使って、予備知識なしでその日に読んだところを、1ページに1コメントしてツイートしていきます。相当な脱線や勘違い、読み間違い、嘘の表記、無関係な記述など出てくるとは思いますが。 一応、もしホントに1日1ページしか進まないなら6年半後に完成予定。1ヶ月に1冊なら2011年の5月に完成予定。でも他の本と同時並行読書なので、2011年中ぐらいをメドに。 ツイートしない日も多々あるとは思いますが、それはまとめて後で書きます。 http://twitter.com/#!/DonQuixote3001

図書の悲劇 -4  『バベルの図書館』

イメージ
承前) 「バベルの図書館」ボルヘス ボルヘスは「数分で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である」と言って生涯長編小説は書かなかった。ボルヘスの魅力は、研ぎ澄まされた語彙の選択、数少ないためにかえって意表を突く不思議な隠喩、直線的で理論的な修辞など、その文体に負うところも多い。作品の長短も非常に重要な要素となる。基本的にボクは長編好きだが、長いボルヘスは考えられない。この短さの上に載るプロット、さらにその上に載るレトリックがなければボルヘスへの傾倒はなかったかもしれない。 だからはじめてボルヘスを読む人はその唐突なはじまりに面食らうことが多い。はじまって2行目で意味をつかみ損ねるというありえないこともボルヘスならおこりえる。終わりもおなじように唐突に終わってしまうことが多い。重要なことはとっとと話してしまっているのだから、だらだらと結論めいた話で読者をひきとめる必要もないのだろう。 しかしなかにはもうちょっと説明してくれよ、と思う事もある。このすばらしく有意義な時間をもう少し楽しませてくれてもいいのにと、そう感じるものもある。 1941年に書かれたボルヘスの短編「バベルの図書館」はそんな読了を惜しむ気持ちでいっぱいになる作品である。ボルヘスの短さの美学が結晶化した、と言ってもよいかもしれない。だから逆をいうと凡百の作家ならこれだけの着想をこの短さで終えるはずがないのである。ボルヘスの恐ろしさはそこにあるのだ。 「バベルの図書館」は、図書館ではたらく盲目に近い「死に支度をととのえつつある」司書が書いた手記のかたちをとっている。この司書が「宇宙」と呼ぶこの図書館は、「不定数の、おそらく無限数の六角形の回廊」でできており、どの六角形からも「それこそ際限なく、上の階と下の階が眺められる」構造をもっている。回廊の配置は「一辺につき長い本棚が五段で、計二十段。それらが二辺をのぞいたすべてを埋めている」。書棚のひとつひとつにはおなじ体裁の32冊の本がおさまっており、それぞれの本は410ページからなる。各ページは40行、各行は約80文字の活字が書かれている。本の背にも文字が書かれているが、内容とは関係がない。内容は、アルファベット22文字とコンマ、ピリオド、スペースのあわせて25文字の組み合わせである。無限の回廊

図書の悲劇 -3 『眩暈』

イメージ
「眩暈」エリアス・カネッティ カネッティの「眩暈」は強烈な読書家であり蔵書家でもある東洋学者ペーター・キーン博士の、本だけがその中心にある、機械のように正確で規則正しい生活が徐々に瓦解し、最後には狂気へと崩壊する物語である。 キーンはアパートを二部屋かりており、一つは生活のため、もうひとつは蔵書のためである。作品の冒頭彼は本屋のショーウィンドウの前にたたずむ子どもに「ここにはおもちゃなんてないぞ」と声をかける。しかしその子が「中国には何万もの文字があるんだって」と答えるのを聞いて自分の部屋に招き入れるような本バカである。子どもという異質なものが神聖な書庫に進入してくることは、機械のように正確で規則正しいキーンの生活が瓦解する予兆のようなものをすでに感じる。 非常に悲しい誤解から、キーンは自分よりも20才も年上の強欲な家政婦テレーゼを、書物を愛する心優しい女性と勘違いして結婚してしまう。本きちがいでまったく世間のことを知らぬキーンと、社会の辛酸を知り尽くした狡知の中年女とがうまくいくはずもなく、キーンは半ば追われるように通帳ひとつ握りしめてアパートを出ていき、せむしの詐欺フィッチェルレにまんまんとだまされ、狂気をしかけられていく。 帰宅するとテレーゼはアパートの管理人とぐるになり彼の蔵書を売り払う計画を立てている。仲裁にはいった精神病院長の弟ゲオルグは、しかし博学のキーンが狂っているのか、それともキーンの周囲、ひいては群衆というもの自体が狂っているのかの判断をつけかねる。事実、読者であるわれわれにもそれはわからない。博学ということも、何万の蔵書の一字一句を記憶していることも、猥雑で強欲な主体が無限にひろがる群衆の中に立ってしまえば弟の精神科医でさえもう判断のつかないものとなってしまうのだ。 読書家や蔵書家でなくともこの小説に相当量の恐怖を感じるはずである。皮膚が切れ、血が噴き出し、骨をのこぎりでごりごりやる音の聞こえる映画をみているのに近い恐怖だ。これほどハッピーエンドを願いながら読んだ本もないだろう。自分もそのなかの一人でありながら、群衆というものの恐怖、群衆に対する武器をもたない不安、そうしてこうやって自分だけは正気であると信じようとすることが、けっきょくは群衆という猥雑と破壊の神の主因になるという絶望感が読後うずまく。 まったくもって、これ

図書の悲劇 -2 『薔薇の名前』つづき

イメージ
承前) 前回は「薔薇の名前」の記号論的な側面を書いたが、この作品の白眉は「バウドリーノ」と同じく中世への興味の相当量を満足させてくれることだ。いや、エーコは中世を小説の舞台にして成功できる最大の作家だろう。 物語は、アヴィニヨン教皇庁とフランチェスコ修道会との清貧論争(イエス・キリストは清貧を求めていたか否か)調停のためにバスカヴィルのウィリアムとその弟子メルクのアソドが北イタリアの切り立った崖の上に建つ修道院を訪れるところからはじまる。その修道院は八角形をした要塞のような建物を持ち、その最上階には「バグダッドの三十六の文書館やワジール・イブン・アル・アルカミの一万巻の写本にも拮抗するキリスト教世界の唯一の光」といわれる文書庫がある。 到着早々、ウィリアムは院長から細密画家のアデルモ・ダ・オートラントという若い僧がとげた不審な死の原因を究明するように頼まれる。しかし、例の文書庫にだけは立ち入ってはいけない、あの迷宮のような文書庫に入れるのは歴代の図書館長だけである、と伝えられる。数日後に控えた教皇庁とフランチェスコ修道会との会議の開催への影響を心配したウィリアムはさっそく調査を開始するが、翌日にはギリシャ哲学を学ぶヴェナンツィオ・ダ・サルヴェメックの死体が発見される・・・。 全編中世の暗く寂寞とした世界をえがきながらも、この小説にはメタフィクションの要素を組み入れることで、ボルヘス的な碩学の知の遊戯を読者に与えることに成功している。そのメタフィクショナルな部分が小説という技巧上あまりにも成功しているので、かえってそこが気に入らないという読者もいるようだが。 まずもって盲目の図書館長ホルヘ・ダ・ブルゴスはホルへ・ルイス・ボルヘスのことである。名前までそっくりなのは後述する文書庫のイメージがボルヘスの「バベルの図書館」から借用あるいはオマージュとして利用したことを読者にたいして明確にしておきたかったからだろう。 「薔薇の名前」の文書館見取図 ボルヘスも晩年、アルゼンチンの軍事的独裁者フアン・ペロンが下野したあと、閑職からアルゼンチン国会国立図書館長に就任する。しかしそのころにはボルヘスの視力はおびただしく低下しており、ほとんど盲目の状態だったという。このことをボルヘス自身が「80万冊の書物と暗闇を同時に与えたもうた神の絶妙な皮肉」と表現し

図書の悲劇 -1 『薔薇の名前』

イメージ
本屋が大好きである。とくに古本屋はたまらない。古本屋もふくむ本屋に立ち寄って手ぶらで帰ることにそうとうな努力が必要である。だから家に本があふれてくる。つい先日もそうしたが、あふれてくると本棚を買ってくる。安物の本棚だが、いつも本棚を買うときに思うのだ。この本棚を買う金があれば本が何冊もかえるじゃないか! と。 かつて京都にあったレコード屋ジェットセットレコードの社長が言っていた。ターンテーブルを2台もっているDJなんか本当のレコード好きじゃない。2台目のターンテーブルの金でレコードが何枚も買えるだろうに! と。 かくして本は増え続け本棚の置き場にもこまると、最終的には古本屋に売りに行く。何年も前に買ったおなじ古本屋に偶然もっていくこともある。しかし売ってしまうととうぜん手元にのこらないので読んだ事実が記憶にしか残らない。記憶も薄れてくると今度はおなじ本を買ってしまい、3割ほど読んだところで「あ、これ読んだわ!」と気がついたりする。昔の本だと、本棚に置いてあるのにおなじ本を古本屋で買ってくるという、まるで植草甚一みたいなことも2、3度したことがある。 読書家や本好きの人ならそんなエピソードをもっとお持ちだろう。実際、蔵書で床が抜けたとか、家が傾いた人とかも多いし、自分の本棚が倒れてきて圧死したといった笑えない話もある。 でも本好きなら、本の重さに対しての悲劇よりも、その本好き精神そのもの、あるいは本の内容そのものが引き起こす悲劇を論じたい。 ヴァレリーは「文学論」のなかでこう言っている。 「書物は人間とおなじ敵を持つ。いわく、火、湿気、虫、時間。そうしてそれ自らの内容。」 ここでは本の集積、つまり図書自体が引き起こす悲劇の物語をあつめてみた。偶然にも、どれも現代の知の巨人が書いた物だ。本というメディアで本自体を物語の対象とするメタフィクショナルな物語を執筆しようというからには、そうとうな博学が問われるだろう。そこには作者と読者の緊迫した勝負のようなものさえ感じるのだ。 「薔薇の名前」ウンベルト・エーコ 原題は「The Name of The Rose」である。nameにもroseにも定冠詞がついている。直訳すると「その薔薇のその名前」となる。とうぜん、作中にも薔薇は出てこない。作品の最後にはベルナールのラテン語の詩句が書かれている。

焚書坑儒と中国の近代化 石川淳著「修羅」

イメージ
はじめて中国を平定し万里の長城を築き兵馬庸をつくった秦の始皇帝は、いっぽうで国中の書物をすべて焚書にしようとした。みずからの権力に反対する勢力が、儒家を中心とした知識人層だったからだ。また、おなじ理由で国の儒家をことごとく生き埋めにした。このジェノサイドを焚書坑儒という。 その40世紀後、おなじ中国の統一権力者である毛沢東は、始皇帝の焚書坑儒を権力維持のために必要な活動であったと考えた。4千年前の封建国家では、権力を維持するためにこの程度の出来事はしかたのないことである。だからナチスのおこなった焚書とは意味が違う。そういうニュアンスである。 しかし1960年代後半から中国国内で発生した文化大革命はあきらかな、新時代の、そしてさらに激烈な焚書坑儒であった。知識人を中心としたジェノサイドの数は一説には1千万人とも言われており、そのときに焚書となった書籍の数はとうぜんそれ以上であったろう。 始皇帝は権力に反対する儒家のよりどころとなっている書物を焚書にしようとしたのだが、ほんとうのところは歴史を変えたかったのだろう。自分以前の歴史が存在すること自体が権力にとっては不都合なことであり、「絶対」を必要とする権力には歴史という「相対」は不必要なものだったのだ。「歴史をかえる」というと未来を創造するととらえられがちだが、過去の事実を歪曲させる、あるいはなきものにするということである。同時代の人々の記憶を強制的に変えるということである。 毛沢東のおこなった文化大革命も、かえられないはずの過去を強制的にかえようとした、おなじ権力の絶対化運動からきている。 石川淳の歴史中編小説「修羅」の中心となるストーリーも、書物を焼くことを画策する側と守る側をえがいたものである。 ところが石川のおもしろいのはその焼く側と守る側を、反対においているところである。焼く側が反権力であり、守る側が権力であるのだ。 京都盆地の外側のすむパルチザン「古市」が洛内に存在する文庫「桃華房」を焼こうとする。権力が思うままに書かせた史書を焼くことで歴史そのものを足利家からなる室町幕府から奪還し、平民のものへと還元しようとする。時代は足利、細川、山名の権力争いから全国に飛び火した応仁の乱である。応仁の乱が特異なのは、中心は公家の権力争いであったものの、各地の守護大名が強大な勢力を持っていたこと、また守護大

脳の中の絵画 『百頭女』『ブレイク伝』『幻想芸術』ほか

イメージ
古代においては書物は口述の代用品でしかなかった。だから書物を読むという作業は声に出して(しかも多くは多人数で)音読することであった。文字が耳から入る音声記号に置き換わり、音声記号が脳の中で意味となった。 それをアウグスティヌスの師であるミラノの司教、聖アンブロシウスが声を使わず「読書」することを始めたのだ。アウグスティヌスは彼が誰にも邪魔されずに膨大な書物を読むにはそのほうが効率がよかったこと、また掠れがちな自身の喉を守るためでもあっただろうと彼の偉大な著書「告白」のなかで、この不気味な読書方法を用いる男を見たときの驚愕を書いている。(ボルヘス「続審問」 - 書物崇拝について) アンブロシウスは、音声記号を通さずに、文字から直接意味に移行する手段を手に入れたのだ。 今では、読書と言えば黙読のことである。そして書かれた文字がそのまま脳の中で意味となり、あるいはイメージとなる。読書したあとに残るそのイメージを絵画にする画家もいる。読書がつぎには意味を飛び越えて「絵」となるのだ。 われわれが眠っているときにみる夢はほとんど絵画である。あれは音声記号でも言語でも、まして「意味そのもの」でもない。起きているときに入力された音声、言語、文字、記号が、寝ているときに絵画となるのだ。 子どもは文字だけでは書籍の意味をくみとることができない。だから絵本には絵がかかれており、絵の多い本は対象年齢の低い本とされる。 つまり、絵画とはもっとも脳に近いところにある「意味」である。その周囲を言語や音声認識が取り巻いており、われわれは常にその周辺部分で意味を論じているのだ。だから絵画に「意味」がないというのは間違いである。脳の中心部分で発生したものを、その周辺部にある言語や記号で論じたり説明しようとすることが不毛であるように感じられるのだ。 ここでは、脳の中の絵画を論じるという困難なその仕事を達成した数少ない成功例を集めてみようと思う。 「百頭女」マックス・エルンスト タイトルに意味はない。ボリス・ヴィアンの「北京の秋」みたいなものだ。ボリス・ヴィアンは反抗的精神で本編にまったく関係のないタイトルをつけたが、こちらはシュールレアリズムとしてそうしたのだと思う。もちろん「百頭女」という言葉は作中に出てくるが。 全編、版画とそれに付帯された短

LEGO・オリジナル作品・登山車

イメージ
LEGOのオリジナル作品。 登山するための車。愚息作。 斜め上から。オビワンが乗っています。前輪オーバーハング、すごいです。 後ろ斜め上から。意外と計器類が多いです。後ろの黄色いボンベは分離して単独で海にもぐり仕事をするそうです。登山車なのに? 真正面から。オビワンと思ったら違う人でした。後方に積まれた大量の皿は、山のイメージです。食べ散らかしたのではありません。

ボルヘスの「カフカの先駆者たち」をまねて「安部公房の先駆者たち」の本棚。

イメージ
ボルヘスの評論集「続審問」のひとつに「カフカの先駆者たち」というテーマの評論がある。ボルヘスにしては評論というよりもエッセーにちかいものだが、ボルヘス先生、あいかわらず思考の飛翔と驚異的な想像力で当初は「類例をみない独自の存在」だと思っていたカフカの先駆者を列挙する。 「カフカの先駆者たち」のように凡人では思い出すことさえ難しい作家同士の関連を軽快に結びつけるボルヘスの技をみると、この想像力と連想力、それにこの博覧強記はどこからくるのか。どうすればボルヘスのような評論がかけるのか。と考えがちだが、そもそもボルヘスはそのように単純な憧憬がまったくあてはまらない作家である。この評論集「続審問」も、「続」とついていながら正編は存在しない。以前の出版元である晶文社はそこを気にしてか「異端審問」という意訳的なタイトルにしていたが、岩波の文庫になって元の意味に近い書籍名となった。そもそも正編のない(かつては存在したらしいが)書籍に「続」とつけると、どうしても「正」をさがしてしまう。そこが罠なのだ。しらずに探しはじめると、あっというまにボルヘスの迷宮、バベルの図書館に引き込まれてしまう。 だから作中に言及されている作家や作品も、ボルヘスの罠によって2,3架空のものがまじっているような気がしてしかたがない。作品そのものは実在したとしても、この引用はほんとうにセルバンテスなりの作品にかかれているのか不安になる。ボルヘスの引用を再度引用するなどという行為は、こわくてボクはできない。ボルヘスとはそういう作家である。 そのボルヘスが高く評価するカフカの先駆者にあたる作家を捜そうというのがこのエッセー「カフカの先駆者たち」のテーマである。 だがボルヘス自身もこのエッセーの冒頭でカフカを「類例をみない」と言っているし、カフカに先駆けてカフカ的なものが存在するなら、たぶんそいつがカフカであって、いままでのカフカはカフカではない、と誰もが思うところだろう。だからボルヘスはいちおうこう断りをつける。「彼の声、彼の癖をみとめる」と。声? 癖? ボルヘスはまっとうな隠喩と、まるで読者をあざわらうような普通では理解できない隠喩を交互に書くことで、そのどちらかだけではたどり着けなかった表現をしてみせることが多い。ここでいう「声」も「癖」もカフカにあったことのないボルヘスには架空のものでしかない。この

フィクションとノンフィクションの境界 『水俣』ユージン・スミス 『苦海浄土』石牟礼道子

イメージ
「フィクションとノンフィクションの境界」のつづき 「水俣」ユージン・スミス 「苦海浄土」石牟礼道子 ユージン・スミスは1918年にカンザス州でうまれたマグナムフォトの写真家である。ユージンが学生のときに、世界大恐慌で破綻した小麦商の父は散弾銃で自殺をする。自殺を報じた新聞記事をみたユージンは、その冷酷な記述内容にはげしいショックをうけたという。第二次世界大戦では従軍カメラマンとしてアメリカ軍に同行し、沖縄で日本軍の爆撃をうけて一生その後遺症になやまされることになる負傷を負う。 ユージン・スミスが水俣を撮りだしたのは1961年に日立のコマーシャルスチールの撮影に来日してからのことだ。1972年にはもっとも著名な作品のひとつ「Tomoko Uemura in Her Bath」を含む水俣シリーズを「Life」誌に「配水管からたれながされる死」というタイトルで発表して未知の公害病「水俣病」とともに世界中から注目されるようになる。 1972年には、水俣の患者たちとともに千葉県にあるチッソ五井工場に交渉にいく。ところがチッソ側が雇った200人の暴力団に、患者とその取材のジャーナリストともども暴行を受けユージンは脊椎を損傷し片目を失明してしまう。 「Tomoko Uemura in Her Bath」は、母親の妊娠中に胎児性有機水銀中毒になった15才のトモコを、右後方からさすやわらかい光の中で入浴させる母と子をえがいた作品である。はっきりとした黒と白の色だけで、水俣病のすべてと、母と子のすべてを表現している。ボクは「母」というものを観念的に考えるとき、いつもこの写真が脳裏に浮かぶ。母という観念と、ユージン・スミスのこの作品はボクにとって同義だ。 この作品を撮影するにあたってユージン・スミスがどのような手法をとったのか、またもしかするとどのような要求を被写体に伝えたのか、ボクはしらないし、わかりようもない。ただ、もし仮に先述したドアノーのような調整や予定があったとしても、このウエムラ母子の悲惨な境遇のなかでの穏やかな一瞬は永遠につづき、ボクのなかにある母のイメージがべつのなにかにとってかわることがおこるとは思えない。 彼は「水俣」英語版の序文でこう言っている。 「ジャーナリズムのしきたりからまず取りのぞくべきなのは『客観的』という言葉だ。そうすれば、出版の

フィクションとノンフィクションの境界 ブレッソン、ケビン・カーター

イメージ
フィクションとノンフィクションとの区別は誰もが理解している差である。一方が創作で、一方が事実をもとにしたものだ、と。しかしことはそう簡単ではない。事実を忠実にえがいたフィクションもあれば、創作されたノンフィクションも多い。とくに消費者の気持ちとしては、「実際にあった事件を元にした」とか「歴史的事実を再現」といった言葉はよい表現で、逆にノンフィクションに創作が含まれていた場合の拒否反応はすさまじい。ノンフィクションはフィクションに勝る、といつのまにかみながそう思うようになっている。 写真を例にとるとわかりやすい。土門拳の「絶対非演出」は神秘的なほどの教条として見る人の心を動かすようだが、よくよく考えるとどうして演出がいけなくて、非演出がすてきなのか、きちんと説明できる人は少ないと思う。もちろん土門拳の作品が無価値なのだと言っているわけではない。 ロベール・ドアノーの作品に「パリ市庁舎前のキス」という有名な写真がある。市庁舎前の広場を忙しそうにいきかう人々の中心で抱き合う二人の男女。そこだけが制止したような周囲との対比がすばらしい作品である。しかし最近、この作品が偶然を切り取ったものではなく、キスする男女が俳優で、そういう演技をしてもらったということが発覚すると、いっきょにこの作品の、ひいてはドアノーの評価はさがってしまった。おおかたの感想は「だまされた」といったところのようだ。 ドアノーはすぐれたシャッターチャンスのために1時間でも2時間でもカメラをかまえて待つこともあった。それでも思ったものに巡り会えなかったら、俳優をつかってでも自分の脳の中にあるイメージを実現させたそうである。 ロベール・ドアノー「パリ市庁舎前のキス」 志賀直哉だか川端康成だか忘れたが、あるとき土門拳は作家の肖像写真をとるために書斎でカメラをかまえていた。作家がペンをもち、原稿用紙に書き始めてすぐにファインダーをのぞくと、手前に積んである本が邪魔で手元のペンも原稿用紙もうつらない。その本を移動させればすむだけの話だが、「絶対非演出」の土門拳はその本を動かすことができない。だからそのままシャッターを切ったそうだ。彼は後年「いまでも動かすべきだったのかどうかわからない」というようなことを書いていた。 みなが神経質に、かつ過敏に判定をもとめる「フィクションかノンフィクションか」という判

異界接触譚 諸星大二郎、『遠野物語』『ドグラ・マグラ』『山月記』『カロカイン』『密会』ラヴクラフトほか

イメージ
いつも通りの日常なら、なにも文章にしたりまして本にする必要はないはずだ。日常でないところに、書物がなにかを伝えようとする動機があり、読み手側には理由がある。それは、いつも通りの日常に、なんらかのきっかけでちょっとした裂け目ができることから始まる。普段は見えない、あるいは見ないようにしている裂け目の向こう側を覗けば、実はなにげなく生きている日常よりも重大な真実が見えてしまうこともある。そして、その裂け目の向こう側をみた人物は、見てしまう前にはもう戻れない。 そんな、いままでの日常に存在していなかったものを「異界」と呼び、その異界とであってしまう物語を「異界接触譚」と呼ぶことにする。 この手のプロットはむしろ古典的である。ゲーテの「若きウェルテルの悩み」も、日常がなんらかのきっかけで突然とその意味をかえ、最終的には自らの生命よりも重要なものを見つけてしまうという一種の「異界接触譚」と言えなくもない。若きウェルテルにとって、ロッテの美貌はいままでの日常には存在していなかった「異界」である。 しかしここではもう少しテーマをしぼって、自分だけではなく、ごく普通に生きている人間が出会う可能性の低い「異界」に接触してしまった、どちらかという不幸な人の物語を紹介したいと思う。 「異界歴程」前田速夫 週刊新潮の編集長だった前田速夫が、自身の趣味が高じて本格的な民俗学の本を書いた。新潮だけあり理論的で文章も高品質。出版社は晶文社だが。 大阪ローカルのテレビ番組「探偵ナイトスクープ」のプロデューサー松本修が、番組企画をもとにした「アホ・バカ分布考」を著したのと、出自が似ている。 ちなみに言語的な境界線=異界との接触線は柳田国男の「蝸牛考」で古くから民俗学として調べられている。「アホ・バカ」も「蝸牛(カタツムリ・デンデンムシ・マイマイ)」の呼び名も、京都を中心とした同心円で日本に広がっている。これを方言周圏論という。 松本清張の「砂の器」では、島根県の貧村出身の被害者の話す方言を聞いた目撃者が「東北弁みたいだった」と話すことで捜査は低迷する。京都を中心としたとき、島根と東北南部は同心円のほぼ等距離にあるのであった。 「不安の立像」諸星大二郎 異界接触譚となればこのマンガ家しかいないだろう。諸星の書くマンガのほぼ80%が異界接触譚といっても過言ではない。