イスラームへの旅 サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』


1991年7月11日、筑波大学助教授の五十嵐一が研究室のあるビルのエレベーターホールで何者かに殺害される事件がおきた。前年の1990年に五十嵐教授はサルマン・ラシュディによる長編小説『悪魔の詩』の日本語訳を上梓しており、そもそも『悪魔の詩』は当時イラン最高指導者であるホメイニによって禁書とされ、著者であるラシュディは死刑宣告のファトワ(イスラムの勧告)をうけていた。同年にはイタリア語版の訳者が襲われ重傷を負い、93年にはトルコでこの本の研究者の集会会場が襲撃され37人もの死者をだしている。
この本のなにがそんなにイスラーム指導者を怒らせたのか。
理由は2つだと考えられている。ひとつは予言者ムハンマドの12人の妻とおなじ名前の娼婦がでてくることである。とくに最初の妻ハディージャは世界最初のイスラム教徒であり、ハディージャの実家であるハーシム家はメッカの迫害から最後までムハンマドを保護し続けた名家なのである。しかしこれは表面上の理由だろう。作者であるラシュディもここになにか本質的な問題を含めたわけではないだろうとおもわれる。
もうひとつはムハンマドと悪魔との取引に関してである。もともと多神教であったメッカは、メディナで勢力を拡大し続けるムハンマド率いる「イスラーム共同体」に恐れをなし、停戦協定を申し出る。その取引条件というのが、イスラームのアッラーを認めるかわりにカアバ神殿にまつられる多神教の神々を認めろ、といものである。じっさいクルアーン53章にはムハンマドが多神教を認めたともとれるような記述が存在した。のちにムハンマドはこれは悪魔が書かせたものであるとして撤回したのだが、ラシュディの小説には、そのメッカとの取引において、正しい信仰であるイスラームをひろめる合理性や共同体の仲間への身を案じ、多神教の偶像を認める決断をする場面が克明に書かれている。



しかし2段組上下巻600ページの、けっしてみじかくも読みやすくもないこの『悪魔の詩』を読み切ってみると、キリスト教でもましてムスリムでもないわれわれ一般的な日本人には、どちらかというとイスラームの擁護をしているようにかんじられるのである。
その最たる部分が、この長い物語の強力なサブプロットをとる絶世の美女アーイーシャの物語である。
天涯孤独の孤児アーイーシャは、そのこの世のものとは思えぬほどの美しさにあつまる男たちには目もくれず、そまつな小屋で蝶を食べていきている。ある日、内蔵中に癌が転移して余命半年といわれた地主の妻ミスハル・アフタルとともにアーイーシャは聖なる旅にでると宣言する。アーイーシャの不思議な魅力とその預言に魅入られた、ミスハルの母クライシ夫人、去勢牛と会話する大道芸でカースト不可蝕民からイスラームに改宗したオスマン少年、玩具商人のスリ・スリニヴァス、そしてほとんどすべてのティトリプールの村人を引き連れてアーイーシャは聖なる旅、メッカへの巡礼を執行するのである。アーイーシャがインドのティトリプールからメッカへの行程としてえらんだのが、アラビア海を越えるルートである。しかも船で渡るのではない。アーイーシャはアラビア海が割れ、道が開けるのだという。彼女を、妻をだます狂信的な詐欺師と考えるミスハルの夫で銀行家のミルザー・サイードにたいして、アーイーシャはこう言う。

「ついてきなさい」とアーイーシャは最後に言った。「そうして水が割れることでわたしが正しいかどうか判断を下しなさい。」

行く先々で狂信的な集団であると迫害され、幾人かの脱落者をだし、襲撃をうけ、村人たちのほとんどが疲弊し、これ以上さきに進めるとはおもえないような長い苦難の旅の途中、懐疑的なミルザー・サイードはアーイーシャにたいしてひとつの取引をもちかける。もしここで旅を終えるなら、あなたと妻と村人のなかから12人ほどをチャーター機に乗せて24時間以内にメッカに連れていこう。あなたは海が割れるかどうかわからないような賭けをしなくてもすむし、なにより妻と村人たちも苦しまなくてすむではないか。
アーイーシャは一晩時間をくれという。翌日、アーイーシャは言う。

「昨晩、天使は歌いませんでした。そのかわりに天使は、疑惑について、さらにいかにして悪魔がそれにつけこむかについて私に語りました。私は言ったのです。『でもあの人たちは私を疑っているのです。私になにができましょう』。彼は答えました。『ただひとつ証しだけが疑惑を鎮めることができのだ』と。」

ここでラシュディはクルアーン第53章を思い出させるのである。彼はこう書く。

彼の申し出は古い問いかけを含んでいた。あなたはどんな見解なのか? すると彼女は彼に古い解答をしめした。私は誘惑されたが、新しく生き返った、妥協せず、絶対的に、純粋であるのだ。

そうして海岸に到着したティトリプールの村人たちは、アーイーシャを先頭にアラビア海のなかをどこまでも進み、沈み込んでゆき、二度と姿をみせなかった。遅れて海に飛び込んだクライシ夫人、スリニヴァス、オスマン少年ら数人は、すんでのところで警察官らに助けられ一命をとりとめる。だが死ななかった彼ら全員がいうのである。水に溺れ、遠のく意識のなかで、「まちがいなく死んでしまうと思ったちょうどその時に、この目でみたんです。海が分かれるのを。とうとう見ちまったんです。不思議なことがおこるのを。水が開いて、あの人たちが海の底を、死んだ魚の中をね、進んでいくのを見たんです」。

一方の立場からしか物語を理解できないのは悲しいことである。また、自分には理解できないものを攻撃するのはもっと悲しいことである。だが一方でクルアーンを焼くアメリカ人も「無理解」という死に至る病にかかっている。
ラシュディは多少やり過ぎた部分もあったかもしれない。しかしこの『悪魔の詩』はその無理解を治癒する可能性さえもった歴史的傑作であると思う。しかしこれを攻撃するものも、この事件をセンセーショナルにあつかうものも、ファトワとこの事件を反イスラームに利用するものも、みな「無理解」を治癒する文学であるとは気づいていないのである。主人公ジブリール・ファリシュタは天使となり、アーイーシャは悪魔の誘惑に打ち勝ち、信じるものの前にメッカへの道はひらいたのだ。ほんらいこれは、そういう物語なのである。
告白するなら、ボクはこの小説によってすぐれた宗教であるイスラームを知った。この小説がなければ、西側の一般的な人々と同じくイスラームへの無理解をもったままだったろう。
すくなくともこの長く難解な小説には、そのようなポテンシャルがあることをだれも否定することはできないはずなのである。
(敬称略)



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