投稿

戦争報道のコンテキスト 『他者の苦痛へのまなざし』『ウィキリークス アサンジの戦争』

イメージ
ある女性タレントが近日公開される映画のプロモーションキャンペーンで雑誌社をまわる。雑誌のタイアップで映画の記事を書くかわりに、タレントが表紙を飾る。タイアップ先は女性ファッション誌もあり、なかには男性一般誌もある。だからおなじタレントが、おなじ月のまったくちがう雑誌に同時に登場することになる。それらがコンビニや書店にならぶと、ちょっと不思議な光景になる。 おなじタレントの顔がずらっとならんでいるのはまあいいとしても、女性ファッション誌では清楚でフェミニンなそのタレントが、週刊の男性一般誌ではなまめかしくエロティックな様相で表紙を飾っている。メイク、衣装、背景、照明など具体的な演出のちがいはおおいだろうが、その演出のちがいを生みださせているのは、雑誌購読者の視線のちがいである。視線のちがいにこたえるために、カメラマンや編集者はタレントの「意味」を変えるのである。視線によってこのように変わる「意味」を、われわれは「文脈(コンテキスト)」とよぶ。 文脈がちがえばおなじタレントでも「すてきな奥さん」にもなるし、トレンドセッターのOLにもなるし、コケティッシュな不倫女にもなるだろう。 「民族浄化」という恐ろしい言葉が一世を風靡したとき、ボスニア・ヘルツェゴビナではまったくおなじ一枚の写真が、セルビア、クロアチアの双方で利用された。(スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』) それは爆撃された村に生きのこった子どもらの写真であるが、セルビアはその写真のキャプションに「クロアチアの爆撃で家族を失った子ども」と書き、クロアチアはその逆を書いた。ボスニア紛争によって、いかにメディアを上手く利用するかがその戦争の勝敗さえも決定するのだということがよくわかった。しかし驚くべきは、写真に付されたたった一行のキャプションによって、どんなに衝撃的な写真だろうとその意味を180度かえてしまうという、コンテキストのおそろしさである。そのようなコンテキストのおそろしさを知ってしまったら、もはやそこに写る悲惨な境遇の子どもが本当はセルビア人だったのかクロアチア人だったのかはもう関係がなくなってくる。もっと言うなら、コンテキストのからくりがばれてしまったあとでは、その子の悲惨な境遇もあまりたいしたものではないような醒めた気分になってくるのである。つまり写真のもつパワーがいっきょに失われるのである。...

原発報道の偏向と「アラブの春」

イメージ
震災とソーシャルメディア エジプト、リビア、イエメン、シリアに今年つぎつぎとおこった民主化運動、いわゆる「アラブの春」では、フェースブックとツイッターが大きな役割りをはたし、あらたな「人民のメディア」として注目が集まった。それはこの3月におこった東北大震災でもツイッターが安否情報などで威力を発揮したのと時期を同じくしている。その後、原発問題によってさらにツイッター、ユーチューブ、フェースブックなどのCGM、ソーシャルネットワークは注目されるようになった。有り体にいえば、民主化運動や震災によってソーシャルメディアは「株を上げた」のである。 正常化のバイアス 一方で株を急落させたのがテレビである。震災被害の第一報にかんしては速報性と網羅性でテレビの効用を見なおす動きがあったにもかかわらず結果的に「値を下げた」のは、その後に発生した原発問題の報道姿勢があったからだ。 「国民は冷静な対応を」「ただちに人体に影響のあるものではない」といったような、口の悪い人はそれを「大本営発表」と揶揄するテレビの報道姿勢は、むしろ大本営というようりも災害心理学でいう「正常化のバイアス」であるようにかんじられる。 通常、正常化のバイアスは災害に直面した個人におこる心理作用である。簡単にいうと、警報の鳴る音を聞いても「非難訓練かなにかだろう」と正常時に引きつけて結論づけてしまう心理のことだが、今回はテレビという巨大な組織がその罠に陥った。懸命に働くテレビ報道関係者には申し訳ないが、テレビの報道はジャーナリズムとしての指針を完璧に見失ってしまったように見える。未曾有の原発事故を前にして、政府を叩けばいいのか、国民の安全を考えればいいのか、事実だけを報道しつづければよいのかという、この信じられないぐらい難しい問題にたいして、「わが社はこの方向で行く」と決定できたテレビ局はおおくなかった。だからさまざまなバイアスのなかでもっとも国民のためになりそうだ、と予測しえた唯一の方向、つまり「事態はそれほど緊迫していない、だから国民は日常の暮らしをしていればいい」という「正常化のバイアス」を選んでしまったのだ。くしくもその姿勢が70年前の大本営と似てしまったのである。戦意を高揚するためには虚偽の発表は仕方がないという思考方法である。 「エリートパニック」 大本営発表も正常化のバイアス報道も決定的にまちがえて...

「現代思想 震災以後を生きるための50冊」

イメージ
1938年に発表された『嘔吐』は、サルトルの著作のなかでももっとも売れた作品である。サルトルの主著である哲学書『存在と無』の小説化であるとも言える『嘔吐』は当時、実存主義のバイブルとさえなり、サルトル本人は辞退したが、ノーベル賞の契機となった。 しかしその後、アンガージュマンの思想とソビエトへの偏向を強めていったサルトルはこう言う。 「飢えた子どもを前にして『嘔吐』は無力だ」 未曾有の被害を日本にもたらした今回の地震により、哲学者や文学者は思想的にさまよっている。「飢えた子どもを前に」している以上の過酷な現実に、思想や文学がなんの役にもたたないことを痛感しているのだろうか。思想や文学なんて衣食足りた閑人のすることである。サルトルの言うように、本なんて食べられないし、いくら読んでも金になるわけじゃない。 であるなら、知識人はみな政治に参加すべきだろうか。各人のおこないがすべて政治である必要があるのだろうか。 書店にいくとそういう悩みを抱えた人のための書籍が数多く売られている。雑誌「現代思想」も臨時増刊でその悩みに対応しようとしている。 「現状を乗りこえる」というよりも、むしろこのように過酷な現状を自分のなかに取り込み消化したいという欲求が、書店の「話題の本」コーナーに顕在化している。しかしよく見ると、そのすべてを読んだとしてもそのような欲求が解消されないのはわかるはずである。 『2012年 日本経済は破綻する』というタイトルの書籍の横に『日本復活のシナリオ』といった名前の本がならぶ。経済だけでも政治だけでもなく、原発問題をふくむあらゆるジャンルで、矛盾し相反する書籍が同時に売られ、同時に購入されていく。むしろ、3・11以降の日本の迷走と混迷がそのまま書棚に表現されているだけのようにかんじられる。「現代思想」臨時増刊「震災以後を生きるための50冊」という特集で渋谷慶一郎がこう書いている。 「これがきっかけで読む本が全部原発に関するものになったりするのはどうかしていると思います。いままでやってきたことを否定しても現状にコミットする戦力になりえないですよね」  『つづきをやればいい』 「現代思想」7月臨時増刊号 そういうことである。地震から4ヶ月たっても3・11を乗りこえる思想をわれわれが持ちえないのは、必死になっていままでの自己の否定をしている...

5冊でじゅうぶん 『砂の本』ボルヘス

イメージ
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編『疲れた男のユートピア』で、主人公の男は一種のタイムスリップをする。平原のかなたに見える家をたずねると、ひどく背の高くどの言語も通じない男が出むかえる。彼は、唯一話すことのできるラテン語で「言語の多様性は、民族はもちろん、戦争の多様性さえ助長します。それゆえ、世界はラテン語にもどったのです」という。「過去については、まだいくつかの名前が残っているが、言語はそれを失いかけている。われわれは無用の細部を回避します。年代も歴史もない。統計もありません」という遠い未来で、彼は主人公が控えめに自慢する2000冊の蔵書を笑う。「2000冊もの本を読める者はいません。わたしも、今まで生きてきた4世紀のあいだに、半ダースの本も読んでいません」。 そして、「大事なのは、ただ読むことではなく、くり返し読むことなのです。今はもうなくなったが、印刷は、人間の最大の悪のひとつでした。なぜなら、それは、いりもしない本をどんどん増やし、あげくのはてに、目をくらませるだけだからです」という。 ケベードの書く「ありもしない場所」というギリシャ語から由来するユートピアを夢想したこの短編は、ボルヘスの戯れのようでもあり、高級な皮肉のようでもある。 しかし、2000冊の蔵書は身につまされる話題でもある。はるか未来の男とちがって、われわれ現代人は読書という人生に有益であるはずの行為を評価する尺度を、数で計測する以外にもっていないのである。 知の殿堂であるはずの図書館でさえ今ではその蔵書数を誇る世の中で、人によって天と地ほどもかわるはずの「読書の質」を、いったいどうやって評価すべきなのかわれわれは知らないし、読書をメディア鑑賞としてとらえられる世界を変革する方法もわからない。 本質だろうと些事であろうと、数のみが評価軸となるのである。 だから多読が読者のもっとも誇れる武器となる。膨大な蔵書が知識の鏡なのである。それがわかっているから蔵書用のいかめしい装幀の「世界文学全集」といった読むためというよりも書斎を飾るための高額な本が売れたりする。 ほんとうに重要な本は、人生にせいぜい4、5冊出会うか出会わないかといったところだろう。あとは、その本と出会うための試練というか、むしろ重要な本にたどり着くのを阻止する目くらましの経済原則であり、「版」という超低コストで再生産可能な商品販売...

今福龍太『身体としての書物』についての随筆

イメージ
「メディアはメッセージである」という箴言で有名なカナダの社会学者マーシャル・マクルーハンは、メディアを身体の拡張として定義した。テレビは目の拡張であり、ラジオは耳の拡張であり、電話は音声と聴覚の拡張であると。総合的ではあるが、そういう意味で本は記憶の拡張である。だから記憶の集積した図書館は人類のメディアなのである。 ひとつの記憶が脳のひとつの場所に集まっているのではないと、最近の脳神経学者はいう。シナプスの電気信号が遠く離れた細胞どうしを結びつける関係性が、記憶であるというのだ。分散化し、クラスター化し、最近ではクラウド化しつづけるサーバと電子網は、まるで地球を覆う脳の拡張のようだ。 ボルヘスは、人間の道具がみな身体の拡張であるのに対し、本というものは脳・記憶の拡張であることから、本は通常人間が使用する道具とは根本において意味が違うのだと書いている。であれば、本は今福龍太のいうような「身体性」をもっているのだろうか。 まずもって書物は記憶の入れ物である。入れ物であるということは、言い換えれば器である。器は道具であり、だから書物は道具であるといえる。書物のもつ「厚さ」は強烈な身体性である。開始と終了をつなぐ読書という直線上のどの位置に自分がたっているのかをつねに意識しながら、われわれは本を読む。読書は、ものがたりや書かれた理論の終わりがいつくるのかを常に指先でかんじながら進行していくのである。人差し指と親指の距離がどのくらいであるのかによって、われわれはたとえば推理小説において作者の安易なミスリードを看破するのである。 ステファヌ・マラルメはこういっている。 「印刷された紙を折りたたむということは、ほとんど宗教的といえる行為である。だがそれ以上にすばらしいのは、紙の積み重ねが厚みを持つことで、まさに魂の小さな墓標をかたちづくることである」 記憶や魂がカタチを持たないことの、人間の不完全さに由来する事実にわれわれは悩まされてきた。だから書物のもつ身体性はわれわれにとって「墓標」であるとさえ感じられるのである。 また、書物のもつ身体性は「蔵書」というフェチズムにおいても顕著である。書棚のまえにたって背表紙をながめているだけでアイデアや理論がうかびあがると言う学者や作家がいる。視覚と言語機能の極端な接近が、書物どうしの関係性を触媒として思考をうみだすのである。...

『SUPER 8』と『ミツバチのささやき』と『極私的エロス』

イメージ
テレビへの愛を語るテレビ番組はあまりないが、映画への愛を語る映画はおおい。書物への愛を語る小説もあるにはあるが、あまり一般的ではないものがおおい。映画は愛されるメディアなのだろう。古くから映画そのものがモチーフとなった映画がたくさんつくられた。それがちゃんとヒットしたり、メジャー作品であったりするから、どれだけ愛されているかわかるというものだ。 『SUPER 8』 J・J・エイブラムス監督『SUPER 8』をみた。全編、映画への愛満載であった。「映画への愛」というよりも、「スピルバーグ的な映画への愛」といったほうがいいだろうか。映画そのものがすでにしてスピルバーグへのオマージュとなっている。 主人公たちが熱中しているのは8ミリカメラによる映画撮影である。8ミリであることを強調したかったのか、あるいは監督自身の子どものころを時代背景としたかったのか、映画の舞台は1979年である。主人公ジョー少年となかまたちはゾンビ映画を撮影している。こどもたちの個性付けは笑ってしまうほどのステレオタイプである。メガネ、デブ、ガリ勉、出っ歯、それに美しいヒロインの少女と気弱な主人公。『グーニーズ』のようでもある。またその少年らの名前が往年の映画人たちからとられているのもわかりやすい。 映画撮影の最中にアメリカ軍の列車が脱線事故をおこし、その中から「なにか」が逃げ出す。それを目撃した少年らは軍隊に狙われることになる。が、ここでストーリーを語ってもしかたないのである。『E.T.』をみたひとならこの映画のストーリーを聞く必要はないだろう。 オチで飛び立つ宇宙船の輝きは『未知との遭遇』である。その他にも、監督が影響をうけたとおぼしき映画への「愛」が、この映画にはつめこまれている。それらをひとつずつ取り上げていっても、それも意味のあることではない。目的が映画への愛であるのだから、ディテールも映画への愛にあふれているのはあたりまえのことである。 さらに、エンドロールで子どもたちの撮影したゾンビ映画がながれる。だれかが言っていたが、2時間のメイキングをみたあとに、3分間の本編がはじまるのである。にくい演出である。願わくば、この映画をみた子どもたちのなかから、次のエイブラムスやスピルバーグが育つように、といったメタ鑑賞も含まれているのだ。 物語は予定調和であり、現状をのりこえるちからも...

陰謀とパラノイア 『競売ナンバー49の叫び』『フーコーの振り子』

イメージ
「漢字Talk」のころの古いマッキントッシュに「Kilroy」というフリーソフトがあった。インストールするとファインダーのウィンドウ上部から、みしらぬおじさんがその大きな鼻をウィンドウのこちら側に垂らしてマウスのあるほうをじろじろ見るという、なんの役にもたたないネタソフトである。ウィンドウの前面に干渉する当時としては比較的高度な技術とその不気味だが愛嬌のある動きが、フリーということもあってかなり流行った。 その「Kilroy」のもとになったものが、かつてはアメリカ海軍で都市伝説とまでなった落書き「キルロイ」である。キルロイは壁の向こうから長い鼻を垂らしてこちらをのぞき込む人物の落書きのことである。その発祥には諸説あるが、大概の説に共通するのは、第二次世界大戦に生まれたこと、通常一般兵士が立ち入ることのできない区域の壁や、艦船や潜水艦内部の手の届かないところにまでそれが描かれていたということ、ベトナムのジャングルの奥地や、地中から掘り出した不発弾にもキルロイの落書きがあったということで、海軍兵士を中心に一挙に噂がひろまり、それをまねるものが続出した。 アメリカの作家トマス・ピンチョンは、長編小説『V.』のなかでキルロイ発祥の自説を語っている。それによるとキルロイはバンドパスフィルタ回路図がもとになっているという。『V.』主人公のベニー・プロフェインが軍人だったころはまだキルロイは現役の流行をつづけており、それはどこにでも出没する謎の徴(しるし)だったのだ。 おなじ徴をたてつづけにみるとたしかになんでも気になってくる。ボクははじめてSTUSSYのロゴをみたとき、その抽象グラフィティ的なロゴの読みにくさと目撃する頻度の絶妙さからあれはいったいなんなのだと非常に気になったものである。流行のはじまりとはそういうもので、それが南カリフォルニア発祥のサーファーアパレルブランドだとわかるとひと安心し、むしろ謎を振りまく「こっち側」の人間になろうとする。 ブランドロゴでさえ気になるのであれば、キルロイを原子力潜水艦の原子炉隔壁の内側に発見した当初の人間の驚きと恐怖はどれほどであったろうか。造船所の検査員が、検査済みリベットにその印としてマークしたものだという説を聞くまでは、ひどいものだと宇宙人の仕業だとかスパイの暗号だとか超自然的な符号であるとかいうような荒唐無稽な説になび...

信頼できない語り手 『このページを読む者に永遠の呪いあれ』『蜘蛛女のキス』ほか

イメージ
ウンベルト・エーコの長編小説『薔薇の名前』の主人公バスカヴィルのウィリアムは、中世の閉鎖的な修道院でおこったおぞましい殺人事件を解くために、あらゆる手がかりをもとに犯人を探し当てようとする。ウィリアムは当初、殺人の方法と使われた凶器により、この殺人事件が旧約聖書の七つの大罪を模した犯行であると推理する。その推理の果てにたどり着いた、入室を禁じられた迷宮のような図書室でウィリアムはみごと真犯人と対峙することになる。 しかしウィリアムは、最初に推理した七つの大罪が自分の推理ミスであったことを真犯人に告白する。真犯人の方でもウィリアムが間違えた推理をしていることをしっており、その間違えた推理をさらにミスリードするためにウィリアムの打ちたてた仮説にのっとった犯行をしようと企てる。しかしミスがミスをよび、両者は最終的におなじ目的地にたどり着いてしまうのである。 『読んでいない本について堂々と語る方法』の著者ピエール・バイヤールは、そのなかで「一度間違えをおかした探偵の言うことが、二度目には絶対正しいといいきれるだろうか」と言っている。つまり探偵役のウィリアムはいまでも間違えた推理をしたままかもしれないし、真犯人の告白はもっと大事な秘密を隠蔽するための便宜上の肯定なのかもしれないのである。 ウンベルト・エーコのこの小説にはそう考えさせるだけの振り幅があるという結論でもいいのだが、そもそもウィリアムが間違えた道をたどって偶然に真犯人のもとにたどり着くというプロセスをわざわざ入れ込んでいるのには、エーコの技法上のたくらみをかんじる。 それがなんのたくらみかというと、一定の流れで終了してしまうような単純な構造から、物語そのものを救い出すためであると思われる。古典的なミステリー文学の体裁をとりながらも、通常であれば絶対的善で間違えをおかすことのない理性的な主人公に、決定的な亀裂をあたえることでこの物語は不完全なものとなる。ボルヘス的にいうと、円環をなす物語となっていく。主人公で探偵役でもあるウィリアムが根本において間違えていたのであれば、あの時のあの推理は正しかったのか、あの場面での描写はほんとうに正しく描写されていたのだろうか、ウィリアムが断定したあの台詞はいいかげんなものであったのではないか。つぎつぎとうかぶ疑問は、われわれをけっきょく再読へと誘う。さらにエーコは、ウィリア...

メタ推理小説 『哲学者の密室』『虚無への供物』

イメージ
うどん好きは、週に10食とかただひたすらうどんを喰うのに専念するのに対して、蕎麦ずきは喰う量は少ないくせにやたらと文句をいいたがる。割合は二八がいいとか十割が最高とか、薬味はどこどこのワサビにしろとか、つゆには半分しかつけたらいけないとか7割までつけろとか、そば湯をつかうのは最初だとか最後だとか、噛むなとか噛めとか、挙げ句の果てには蕎麦を入れる器にまでいちいち好みを言い立ててやたらとうるさい。おなじ麺類だが、うどんと蕎麦ではこうも好きになる人種がちがうのかといつもビックリする。さらに言うと、うまいうどん屋は流行り、店もおおくなり全国にひろがるのに対して、うまい蕎麦屋はつねに1店舗だけである。どんなにうまくてもフランチャイズしている蕎麦屋の蕎麦を「うまい」とは絶対にいいたくない、蕎麦ファンにはそんな捻れた心理があるようだ。 蕎麦とおなじぐらいボクも推理小説が好きで比較的よく読むのだが、推理小説ファンには蕎麦ファンに通じる「頑固さ」「めんどくささ」があるように思う。 いわく、推理小説には他のジャンルには存在しない「流儀」というものがある。その最たるものが推理小説作家でもあるヴァン・ダインの「推理小説20則」である。 「20則」では犯人に設定してよい人物の職業、探偵役の人数、事件解決方法、プロットの立て方、やってはいけないトリックなど、推理小説にかんするさまざまな禁則が語られている。なかには「推理小説は犯人を正義の庭に引き出すことであり、男女を結婚の祭壇につれてくることではない」と、推理小説内でロマンスを語ることを禁じる内容さえあり、読んでいると頑固じじいの遺産相続にかんする遺書かなにかのような印象さえもってしまう。もし「蕎麦ずき20則」みたいなものがあれば、きっとこうなっていたろう。 かといって、じゃあ推理小説ずきの読者はそういう風潮に辟易しているかというと、そうでもない。あんがい嬉々として20則的な「頑固さ」を受け入れている。 他の小説ジャンルにくらべると、推理小説には「作者対読者」の構造が目に見えて顕著である。作者は読者をだまし「あ、そうか!」と言わしめるのを仕事とし、読者は作者の意図を先読みして「犯人が読めた!」と言いたいがため貴重な時間とお金をかけて読書にはげむ。だから推理小説にはつねに対決の緊張感があり、その緊張感に興奮をおぼえるようにな...

ボルヘスの夜 『七つの夜』

イメージ
アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが死んで、昨日(6月14日)でちょうど25年だそうだ。はるか昔の文学者というイメージなのだが、実は死後たった25年しかたっていないというのはビックリである。 それにあわせたわけでもないだろうが、岩波文庫から『七つの夜』が出版された。ちょうど命日の昨日、紀伊国屋書店に買いに行った。 1977年、77才のボルヘスが7つのテーマを7夜にわたっておこなった講義の内容が収められている。「神曲」「悪夢」「千一夜物語」「仏教」「詩について」「カバラ」「盲目について」の7つのテーマの講義録である。 ボルヘスは「数分で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である」といって詩と短編小説しか執筆しなかった。ボルヘスの書くどの作品も小説というよりはまるで評論かエッセーのような読み口で、しかしつかうときの隠喩はまるでシュールレアリズムのごとく幻想的で切れ味がよかった。 しかしなによりボルヘスの魅力は、その驚異的なテクストの読解にあると考える。ボルヘスがカフカを語るのを読んだとき、おなじ作品を読んでこうまで解釈の幅に隔たりがあるのはいったいどうしたことだろう、と愕然となる。ボルヘスの書くカフカ論は、むしろカフカを読むという読書体験よりももっとずっと高度な文学的創造ではないのかと考えさえする。 「Musician's Musician」という言葉は、プロのミュージシャンが聞くミュージシャンのことである。一般受けはしないが、プロからは絶賛される音楽のことである。ボルヘスはそういう傾向がある。世界中の小説家や文学者が、文学の示唆をもとめてボルヘスを読むのである。 ボルヘスは偉大だが、高校の教科書に掲載すべきだとはちっともおもわない。多少ともボルヘス的な文学的読解力をつけてからの楽しみにとっておくべきである。でなければ、読解というものが読者の自由裁量であるという大前提に達するまえに、自分の読解を嘆き、質の悪いボルヘスもどきのコピーとなるだろう。当時アルゼンチンではボルヘスそっくりの作家が大量にうまれたそうだが、そのなかでこんにち生きながらえているものはいないのである。ボルヘスがユニークすぎたし、彼の創造したジャンルで活動できる文学者はやはりボルヘスしかいなかったのである。 当時、ボルヘスに読まれることに緊張...

人間の叡知を疑う 『AKIRA』大友克洋

イメージ
大友克洋のマンガ『AKIRA』は、人類の破壊と再生とエントロピーの物語だ、と思う。その循環はまるでヒンドゥー教の三神一体のようだと常々おもっていた。創造の神ブラフマー、維持と繁栄の神ヴィシュヌ、破壊の神シヴァによる三神一体の世界観が、『AKIRA』の描く頂点まで登りつめエントロピーを極めた近未来社会の繁栄と、その繁栄を根底から覆すまったく新しい人類の能力、そしてその能力の発揮による崩壊と再生にみごとに一致するからだ。気の遠くなるほど長い年月をかけた生命の循環が、ひとりの神のような少年のすがたで象徴される物語である、とそうとらえて楽しんだりしていた。星がうまれ、成長し、やがて老いて超新星爆発をおこし、その爆発からまた新しい星がうまれる、といった壮大なものがたりのようでもある。 そうであるなら、永遠にうまれかわる循環とひきかえに、われわれは崩壊をめざして成長するしかないのかもしれない。『AKIRA』が描く爛熟と混乱をきわめ欲望だけが力となる近未来の風景が、われわれのこの現実の日常とひどく似ていることを考えると、人類再生直前にあるはずのカタストロフも地続きであるかもしれないのだ。 『AKIRA』での主要登場人物のひとりであるアミーの大佐は、「アキラくんが目覚める」というキヨコの予言をおそれ、「完全な秩序」のなかでアキラを眠らせている、オリンピックスタジアム地下に埋設された0.005ケルビンの超低温冷凍装置の視察にいく。 それはまるで巨大な人工知能のようでもあり、宇宙船のようでもあり、原子力発電所の原子炉のようでもある。大佐はその巨大な装置を前に、博士につぶやく。 見てみろ・・・ この慌てぶりを・・・ 恐いのだ・・・ 恐くてたまらずに覆い隠したのだ・・・ 恥も尊厳も忘れ・・・ 築き上げてきた文明も科学もかなぐり捨てて ・・・ 自ら開けた恐怖の穴を慌てて塞いだのだ・・・ それはまるで、かつてはチェルノブイリのことを語っているようにも思えたし、いまではフクシマを指しているようにも読める。 進歩は人類の幸福への鍵であり、人々は時代を経るごとに恵まれた生活をおくるようになる、と考える人はおおい。しかし人類の叡知とは、そういうものだろうか。 叡知も情報の集積であるなら、発展すればするほどわれわれはエントロピーの法則にしたがい無秩序な世界にむかのうではないのか。発展の先には、われわ...

原発のことは今、話したくないのだけど・・・

イメージ
原発がトレンドのようである。とうぜんかもしれないが、世界中の関心があつまっている。 生来へそ曲がりなので、いまさら原発反対とみなが言いだしてもテンションが凹むだけである。どうしてそれをもっとはやく言わなかったのか。どうしてもっとはやくそれに気がつかなかったのか。と忸怩たる気分である。誤解をおそれずに言うと、むしろ東京電力などのインフラ会社や原子力保安委員会などの組織に対して、かつていかなる危機感も、いかなる警戒心もなかった者たちこそ、今、声高に東電を非難しているような気がする。信じていたからこそ裏切られたときの怒りは大きい、という理論である。信じていない人は意外とあっさりこういうだろう。「ほらみてみろ」と。 だから、原発にたいして今なにか意見をいうのはすごくためらってしまう。ためらってしまうのだが、しかしこんなにもいい映画が続けざまにかかると、いわずにはおれないのである。にわか原発評論ブームの影響で日の目をみた映画数本と、思い出す名画をすこし。 『100000年後の安全』マイケル・マドセン監督 前倒し上映だそうである。本来なら渋谷アップリンクで1、2週間上映されて終わっていたはずの映画である。地方の人間はその存在すらしらなかっただろう。それが全国48カ所で上映が決まったそうである。48倍である。トレンドとは恐ろしいものだ。 フィンランドのオルキルオトに建設中の最新鋭の核廃棄物最終処理場を取材したドキュメンタリー。核物質はその絞り滓でさえ10万年以上放射能を出し続ける。自分のした糞の始末を自分でつけられないヤツにもこまったものだが、その糞を捨てるトイレもない部屋で大食らいする計画のどこがエコロジーなのか。そもそもボクは「エコロジー」という語が大嫌いである。こんなにも気持ちの悪いキャッチコピーはみたことがない。CO2を減らしたいのか、石油依存から脱却したいのか、清貧生活をおくりたいのか、その真意がまったくみえてこない。われわれの生活スタイルが、イデオロギー対立とネオコン思想が多量に注入されたエコロジーである必要はない。われわれが目指すべきはサスティナブルである。無限に循環できることを目指すべきである。明日底をつくかもしれない石油に依存し、崩壊を前提とした投機が経済をささえ、捨てる場所さえない危険きわまりない廃棄物を大量にうみだす原子力をエコロジーととらえる、そん...

『コード・アンノウン』ハネケ

イメージ
ミヒャエル・ハネケ監督6作目の劇場映画。『カフカの城』のつぎ、『ピアニスト』の前に撮られた映画。なるほど、ぶつ切りの映像と被写体を横から追うワンカットカメラは『カフカの城』のようだし、フランスに移ってから極端に美しくなるハネケの映像美は『ピアニスト』のようでもある。群像劇としては、『71フラグメンツ』にもたいへんよく似ている。違うところは『71フラグメンツ』が殺人という事件が最終的に群像のなかの人々を結びつけるのにたいして、こちらは最終的な事件や事故はほとんどなにもおこらない。だから群像劇はすれちがったままはじまり、すれちがったまま終わる。「すれちがい」というか、「無理解」というか、「コミュニケーションの不在」というか、なんしか人間の「わかりあえなさ」を痛いほど描きだしてくれる。ハネケなので、もちろん容赦なく。 冒頭、聾唖の子どもたちがクイズをしている。ジェスチャーだけでそれがなにを意味しているかを当てるのである。孤独、隠れ家、ギャング、やましさ、悲しみ、刑務所、と子どもたちは手話で答えるが、すべてちがっている。言葉を話すものであれば、それはつたえられたのであろうか。まるで回答のように、「コード・アンノウン」とタイトルが表示される。 ジュリエット・ビノッシュ演じるアンヌ(ハネケの法則にしたがって女主人公の名はアンヌかアンと決まっている)は、アパートの前で恋人ジョルジュ(同法則によりジョルジュ)の弟ジャンとあう。ジャンは父とケンカし農家である実家から家出してきたという。女優の仕事でいそがしいアンヌは「私の解決できる問題じゃないわ」といい、アパートの鍵と暗証番号をおしえておいかえす。アンヌの諫めるような態度にジャンはふてくされ、もらったパンの包み紙を物乞いの女になげつける。たまたまそれをみたマリからの移民二世のアマドゥは「彼女を侮辱した。あやまれ」とつめよる。かたくなに逃げようとするジャンともみ合いになり、もどってきたアンヌが制止するのもきかず、やがて警察がよばれる。 この、なにげないどこにでもあるような事件に関連する4人の登場人物たちの生活が、この事件から枝分かれして物語がすすむことになる。 まず第一に、アンヌとジョルジュの同棲生活。 第二に、ジャンと父との農場での生活。 第三に、マリからの移民アマドゥの家族の生活。 ...

ハネケ『ベニーズ・ビデオ』

イメージ
ミヒャエル・ハネケ監督の劇場第二作。第一作が家族の破壊が自死にむく、つまり内側への暴力だったのにたいして、今回は外側へ、つまり他者への暴力のかたちで破壊がおこなわれる。第一作の『セブンス・コンチネント』でもそうとうつらかったのに、それが人殺しとなるんでしょ? 「いやだなぁー」と思いながらみた。 案の定、映画は豚の屠殺シーンからはじまる。ビィービィーひどいありさまで鳴きわめく豚。屠殺用の銃を眉間にうちこまれ、白目で倒れ込みひくひくしているところにさらにもう1発。 タイトルのはじまる前のこの段階から、すでにハネケ攻撃ははじまっている。なぜならこの豚の屠殺シーンが民生用ホームビデオで撮られた画質のあらい映像であり、それゆえたぶんこの撮影のためにこの豚は実際ほんとうに殺されたのだろうということは、だれもが簡単に推察できるからだ。「豚はじっさいに殺されている」というメタ鑑賞を前置きとして、ようやく映画のタイトルが表示される。 このホームビデオを撮影したのは中学生のベニーくんである。このビデオはベニーくんのお気に入りなので、毎日のようにみている。見終わってもまた巻き戻し、屠殺の瞬間をこんどはわざわざスローモーションでみてたのしむ。スローに低く引き延ばされた豚の悲鳴は、まるで地獄のそこからの地鳴りのようである。勘弁してくれよ・・・。 家畜が屠殺されるシーンのある映画なんて山のようにある。エルマンノ・オルミ監督の『木靴の樹』(1978)ではイタリアの貧しい小作農家たちが、祝祭の日に宝ものの豚をみなで屠殺する。豚に「すまんな」といったりお祈りしたりしながらも、屠殺シーンのリアリズムはかなり「グッ」とくるものがある。リチャード・リンクレイター監督『ファーストフード・ネイション』(2006)では映画のラストで、超高電圧のスタンガンで屠殺され、皮をはがれ、巨大なかぎ爪に吊された牛の腹部から大量の臓物が滝のようにふきだす、「足首まで血に浸かる」といわれる「内蔵選別ライン」の映像がまっている。 あるいは「恐い」映画なら他にも山のようにあるだろう。レンタルビデオショップにいけば専門のコーナーが仕立てられていて、無数の「恐怖」がよりどりみどりだ。 恐い映画がすきなのは、日常に恐い場面が存在しないからこそ、映画でそれを仮想体験しようというのだろう。愛と夢と希望と冒険が実生活にないから...

脳死について 『他者の苦しみへの責任』

イメージ
南アフリカでの世界初の心臓移植手術がおこなわれた直後の1968年に、日本で最初の心臓移植手術が札幌医科大学の和田医師により実施された。世界で30例目、移植手術としても日本で2例目という早さだった。心臓に多弁障害をもつ18才のレシピエント(臓器受領者)は、術後半月は順調に回復したのだが徐々に衰弱し、手術から2ヶ月半後に血清肝炎が原因となり呼吸不全で死亡する。 もともと疑惑の多かったこの手術は、レシピエントが死んだことでいっきょに問題を噴出させることになる。センシティブな問題なので思い切ったことは書けないのだが、1991年にはじまったこの事件の調査委員会の報告では以下のような疑惑があり、事件にかんするほとんどの日本人の記憶もこのようなイメージを持っていたのではないだろうか。 まず、18才のレシピエントは心臓移植を必要とする多弁障害ではなかったのではないか。それは和田医師がかつて発明した「ワダ弁」といわれる人工弁で治癒できる心臓病であったのではないか、というものである。そもそもレシピエントはこの人工弁置換手術のために和田医師のいる札幌医科大に入院していたはずであったが、そのことはどこにも発表されずに移植がおこなわれた。 つぎにドナーである21才の溺水した大学生が、ほんとうに脳死状態であったのかどうかの判定があやふやなまま和田医師らにより「脳死宣告」されていたということ。当時はいまのような、二度にわたっておこなわれる脳死判定終了まで移植医はドナーに近づくことも禁じるというような厳格なルールがまったくなかった。脳死判定をするものと、移植手術をする医師がおなじ人間であった。 札幌医科大に搬入されたドナーに筋肉弛緩注射をする和田医師に、抗議した麻酔医が手術室からの退出を命じられたとする証言も疑惑をさらに深めた。 さらには、レシピエントの死後その心臓が3ヶ月にわたって行方不明となり、発見されたときには各部がばらばらに切断された状態になっており、充分な検死もないまま荼毘に付された死体とあいまって、もはやレシピエントの元の心臓がほんとうに移植手術が必要であったのかの検証ができる状態ではなかったという事実もある。 その後、和田医師は殺人罪で起訴され、4年の論争のすえ証拠不十分で不起訴となった。 当時おなじ札幌医科大の整形外科医であった作家の渡辺淳一は、この事件を取材し『白い宴』という小説...