原発報道の偏向と「アラブの春」

震災とソーシャルメディア
エジプト、リビア、イエメン、シリアに今年つぎつぎとおこった民主化運動、いわゆる「アラブの春」では、フェースブックとツイッターが大きな役割りをはたし、あらたな「人民のメディア」として注目が集まった。それはこの3月におこった東北大震災でもツイッターが安否情報などで威力を発揮したのと時期を同じくしている。その後、原発問題によってさらにツイッター、ユーチューブ、フェースブックなどのCGM、ソーシャルネットワークは注目されるようになった。有り体にいえば、民主化運動や震災によってソーシャルメディアは「株を上げた」のである。

正常化のバイアス
一方で株を急落させたのがテレビである。震災被害の第一報にかんしては速報性と網羅性でテレビの効用を見なおす動きがあったにもかかわらず結果的に「値を下げた」のは、その後に発生した原発問題の報道姿勢があったからだ。
「国民は冷静な対応を」「ただちに人体に影響のあるものではない」といったような、口の悪い人はそれを「大本営発表」と揶揄するテレビの報道姿勢は、むしろ大本営というようりも災害心理学でいう「正常化のバイアス」であるようにかんじられる。
通常、正常化のバイアスは災害に直面した個人におこる心理作用である。簡単にいうと、警報の鳴る音を聞いても「非難訓練かなにかだろう」と正常時に引きつけて結論づけてしまう心理のことだが、今回はテレビという巨大な組織がその罠に陥った。懸命に働くテレビ報道関係者には申し訳ないが、テレビの報道はジャーナリズムとしての指針を完璧に見失ってしまったように見える。未曾有の原発事故を前にして、政府を叩けばいいのか、国民の安全を考えればいいのか、事実だけを報道しつづければよいのかという、この信じられないぐらい難しい問題にたいして、「わが社はこの方向で行く」と決定できたテレビ局はおおくなかった。だからさまざまなバイアスのなかでもっとも国民のためになりそうだ、と予測しえた唯一の方向、つまり「事態はそれほど緊迫していない、だから国民は日常の暮らしをしていればいい」という「正常化のバイアス」を選んでしまったのだ。くしくもその姿勢が70年前の大本営と似てしまったのである。戦意を高揚するためには虚偽の発表は仕方がないという思考方法である。

「エリートパニック」
大本営発表も正常化のバイアス報道も決定的にまちがえているのは、報道により国民をコントロールできる、と考えている点である。社会学者のキャスリーン・ティアニーは、パニック発生のメカニズムにまったく新しい説を論じている。それによるとパニックは「人民がパニックなるのではないか」と怖れたエリート層や支配層がパニックを起こして情報を隠蔽したり虚偽の報道をすることによって、逆にパニックが発生するというのである。ティアニーはこれを「エリートパニック」と名付けた。2005年にアメリカ南部をおそったハリケーン・カトリーナでは、被災した黒人貧困層が暴動をおこすのではないかという一部エリート層の判断で、ニューオリンズの完全封鎖をふくむ緊急事態宣言が出され被害が拡大したという。けっきょく誰が隠蔽したのかわからないが、SPEEDI(緊急時迅速放射能影響予測ネットワーク)の観測予測で事前に福島の放射能濃度が判明していたのに、「混乱をおこす」という理由で3月23日まで公表されなかったのはまさしくこの理由による結果的な犯罪だろう。
「エリート・パニック」が災害における人為的被害の最大の原因かどうかは知らない。しかし情報を隠蔽する、虚偽の報道をする、過小報道をする、といった情報の取捨方法は、災害などの特異インシデントではなんのメリットもうまないのだということは、今回の原発テレビ報道をみてしみじみかんじた。テレビ報道なりの良心でそうしていたとしても、事態は悪い方向にしか進まないだろう。国民をコントロールできると考えるテレビのその驕慢さは我慢できたとしても、ここまで事態が悪化してしまったらもはや理想がもとの生活にあるはずもないのに、それでも正常化を目指そうとするテレビ報道の意味がボクにはまったく理解できないのである。

アルジャジーラの「もうひとつの意見」
やはりみなそう考えていたようで、国民はテレビを見捨ててあらたな、そしてより真実に近いとかんじられるソーシャルメディアへとはしった。そこにはそこで、また新しい顔をした魔物がひそんではいるのだが、同じ事件をまったく違った角度で見ることのできる新鮮さに人々はおどろいたのだ。
1996年にカタールの首長マハドが私財を投じて「アラブ世界の自由報道」として設立した放送局アルジャジーラのモットーは、「意見、ともうひとつの意見」である。史上最低の為政者のひとりであるブッシュ政権下で国務長官をつとめたラムズフェルドは、アルジャジーラを評して「許しがたいほど偏向している」といったが、ウィキリークスによるとアフガニスタン侵攻時にアメリカ軍はアルジャジーラのドーハ支局を攻撃対象リストに載せていたというから、彼の非難は割り引いて考えるべきだろう(guardian 2010/12/10)。
しかしわれわれはアルジャジーラとペンタゴンの情報戦を笑っていられる状況ではない。われわれにはどのチャンネルだろうとひとつの「意見」しか流れてこないという、アルジャジーラのモットーをはるかに下回る「報道管制下」でくらしているのだ。それがジャーナリズムの良心から選択された「管制」であるとテレビ報道が考えている時点で、すでにこの国のメディアは大きく偏向したものになってしまっているのである。対象者のはっきりしないヒューマニズムほど曖昧で危険なものはないはずなのに、今は報道がそのような状況であるから、国民はみずから努力して「もうひとつの意見」をソーシャルメディアなどのニューメディアにもとめたのだ。

原発開発と第一次中東戦争
ここで思い出すのが「アラブの春」である。アラブの春ではソーシャルメディアを中心とした(そしてそこにはアルジャジーラも含まれる)ニューメディアが国を転覆させたのである。われわれには日本国を転覆させるだけのモチベーションを維持する動機が不足しているが、国民におこっていることはおなじである。
そもそも原子力発電所は石油の代替品として1960年代に急速に開発されたが、それは1948年にはじまった第一次中東戦争に端を発し、第四次中東戦争でオイルショックを招いたことを背景としている。つまり、今回の原発問題は脱石油文明、言い換えると脱アラブ運動が招いた結果であり、アラブの春と原発問題はその根をたどるとおなじアラブ問題にいきつくのである。さらに、産油国の石油価格決定とそのOAPEC(現OPEC)設立の下地を用意したアメリカ石油メジャーの寡占、さらにはイスラエルのパレスチナ占領など、より大きな問題へとその根をたどっていくことも可能である。しかしここではその話は長くなるのでしない。それよりも、60年以上も前におなじ根から枝分かれしたアラブの強権政治と日本のエネルギー問題が、いまここで、時をおなじくしてニューメディアを活用する方向で国民を動かしているのはどういう偶然だろう。アラブでも日本でもおこりえたことは、石油依存と国による情報統制問題を抱えるすべての国でおこりえることであると考えて、なにか不都合があるだろうか。アルジャジーラのユーチューブアカウントは、毎月250万PVをかせぐといい、そのうちの80%は英語圏からのアクセスであるという(出典失念!)。アルジャジーラを見ることのできないはずのおおくのアメリカ人たちは、放送免許とは無関係なアルジャジーラのストリーミング配信になにを期待しているのだろうか。それが、日本人がソーシャルメディアに頼らなければ自分のこの国でほんとうはいったいなにがおこっているのか把握できないのと、おなじ焦燥感でないとどうして言えるのだろうか。
それならせめて、エジプトやリビアが強権政治から自由になったように、われわれ日本の国民も驕慢な既存のメディアからいちはやく自由になればいいと思う。むしろそうなるよう、ボクは願うのである。



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