『SUPER 8』と『ミツバチのささやき』と『極私的エロス』

テレビへの愛を語るテレビ番組はあまりないが、映画への愛を語る映画はおおい。書物への愛を語る小説もあるにはあるが、あまり一般的ではないものがおおい。映画は愛されるメディアなのだろう。古くから映画そのものがモチーフとなった映画がたくさんつくられた。それがちゃんとヒットしたり、メジャー作品であったりするから、どれだけ愛されているかわかるというものだ。


『SUPER 8』
J・J・エイブラムス監督『SUPER 8』をみた。全編、映画への愛満載であった。「映画への愛」というよりも、「スピルバーグ的な映画への愛」といったほうがいいだろうか。映画そのものがすでにしてスピルバーグへのオマージュとなっている。
主人公たちが熱中しているのは8ミリカメラによる映画撮影である。8ミリであることを強調したかったのか、あるいは監督自身の子どものころを時代背景としたかったのか、映画の舞台は1979年である。主人公ジョー少年となかまたちはゾンビ映画を撮影している。こどもたちの個性付けは笑ってしまうほどのステレオタイプである。メガネ、デブ、ガリ勉、出っ歯、それに美しいヒロインの少女と気弱な主人公。『グーニーズ』のようでもある。またその少年らの名前が往年の映画人たちからとられているのもわかりやすい。
映画撮影の最中にアメリカ軍の列車が脱線事故をおこし、その中から「なにか」が逃げ出す。それを目撃した少年らは軍隊に狙われることになる。が、ここでストーリーを語ってもしかたないのである。『E.T.』をみたひとならこの映画のストーリーを聞く必要はないだろう。
オチで飛び立つ宇宙船の輝きは『未知との遭遇』である。その他にも、監督が影響をうけたとおぼしき映画への「愛」が、この映画にはつめこまれている。それらをひとつずつ取り上げていっても、それも意味のあることではない。目的が映画への愛であるのだから、ディテールも映画への愛にあふれているのはあたりまえのことである。
さらに、エンドロールで子どもたちの撮影したゾンビ映画がながれる。だれかが言っていたが、2時間のメイキングをみたあとに、3分間の本編がはじまるのである。にくい演出である。願わくば、この映画をみた子どもたちのなかから、次のエイブラムスやスピルバーグが育つように、といったメタ鑑賞も含まれているのだ。
物語は予定調和であり、現状をのりこえるちからもないし、宇宙人の造形はゲンナリするほど凡庸で、秘密めかしたプロモーションのわりには『クローバーフィールド』ほどの新奇さもなく、『第9地区』ほどのこだわりもオタク臭もなく、見終わってもなんの感動もわかないが、しかし、映画への愛をここまで率直に語られてしまうと、映画ずきは悪く言えないのである。『ニュー・シネマ・パラダイス』はクサイ映画であるが、みんな大好きであるのと似ている。


『ミツバチのささやき』
ビクトル・エリセ監督の『ミツバチのささやき』も映画そのものがきっかけとなってひとつの物語が進行する。映画のなかに映画があり、内側の映画が外側の映画の進行の動機となり、推進力となる。主人公アナは村にやってきた移動式映画の上映で『フランケンシュタイン』をみる。「どうして女の子も彼(フランケンシュタイン)も死んでしまうの?」とたずねるアナに、姉は「フランケンシュタインは精霊だから、お祈りすればいつでもあえる」と答えるのである。精霊とであえるといわれた廃墟でアナは偶然脱走兵とであう。
プロットはサスペンスの形式をかりており、鑑賞者は物語の進行において非常に少ない情報から主人公の少女アナの行動を理解しなければならない。しかし、すべての情景がばつぐんに美しい。アナに映画の解説をし、死んだふりをしてアナをからかい、焚き火を飛び越えるイニシエーションによって加速度的に大人になっていく姉が、好対照である。また夫にかくれて文通をする母の背徳と、気むずかしい学者ばりの父の憂鬱もアナをかこむ世界の構成に重要な役割をになっている。アナは孤独である。なぜなら世界は大人によって形作られているからだ。フランコ独裁の暗い影がさすスペインの片田舎で、映画だけが娯楽であった時代の大人と、その閉じられた世界の内側に入ることのできない純粋な魂のものがたり。


『極私的エロス・恋歌1974』
映画への愛を語る映画ではないが、映画制作への異常な愛情というか愛着をかんじるというので思い出すのは、原一男監督のドキュメンタリー『極私的エロス・恋歌1974』である。
沖縄に逃げた元恋人をおいかけ、原一男は現在の恋人をつれてゴザにいく。元恋人の武田美由紀はアメリカ兵あいての商売をしており、音声を担当する原の現恋人といきなり大げんかをはじめてしまう。女同士の罵りあいや罵倒はあまりに強烈すぎて見ているのもつらい。音楽もなく、カメラの回るカタカタいう音以外には、女たちの罵声しか聞こえない。たまにナレーションを入れる原監督の声は完全にびびっている。美由紀の怒りは元恋人の原にまでむけられる。フェミニストである美由紀に徹底的に怒られ、「うっうっ」とかいいながら泣き出してしまう原監督。そこまで極私的なことをさらけだして、もう映画制作なんかやめたらいいのに、と思ってしまう。
東京にいったんもどった美由紀は誰の子どもかもわからない嬰児を自宅で出産する。その場面でもとうぜんカメラはまわっている。真正面からとらえた美由紀の股間から、まるで巨大なカエルかオオトカゲのような胎児がにゅるっと出てくる場面は直視できない壮絶さである。奇形児でないのであれば、あれが人の姿なのか、と息をのむ。どうしてそんな出産方法を選ぶのか、どうしてその凄惨にしかならない場面を撮り続けるのか、われわれ一般人にはまったく理解できない。白黒のフィルム、音楽もナレーションもほとんどなく回り続けるカメラ、理解できない人達。まるでスナッフフィルムでもみるような恐怖をかんじる。
それなのに独力出産をする二人目の女をカメラはとらえる。2連チャンで真正面から出産に立ち会う恐怖。たとえば人体を接写すると、どの部分を写してもエロくなってしまう距離がある。それをさらに接近していくと、こんどはやたらとグロテスクに見えてくる。原一男は日常では絶対に実現しないこの「近さ」を人体ではなく人物そのもので利用しているのだ。エロスというより、グロテスクでしかないこの人たちの映画を見終わると、出演している人もつくっている人も、一般人にはまったく理解できない「創造への愛」のようなものがあるのかと思ってしまう。そんなものは実際ないのだろうが、少なくとも映画制作への異常な愛情はかんじられるのであった。あるいみ、歴史にのこる傑作である。


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