陰謀とパラノイア 『競売ナンバー49の叫び』『フーコーの振り子』

「漢字Talk」のころの古いマッキントッシュに「Kilroy」というフリーソフトがあった。インストールするとファインダーのウィンドウ上部から、みしらぬおじさんがその大きな鼻をウィンドウのこちら側に垂らしてマウスのあるほうをじろじろ見るという、なんの役にもたたないネタソフトである。ウィンドウの前面に干渉する当時としては比較的高度な技術とその不気味だが愛嬌のある動きが、フリーということもあってかなり流行った。
その「Kilroy」のもとになったものが、かつてはアメリカ海軍で都市伝説とまでなった落書き「キルロイ」である。キルロイは壁の向こうから長い鼻を垂らしてこちらをのぞき込む人物の落書きのことである。その発祥には諸説あるが、大概の説に共通するのは、第二次世界大戦に生まれたこと、通常一般兵士が立ち入ることのできない区域の壁や、艦船や潜水艦内部の手の届かないところにまでそれが描かれていたということ、ベトナムのジャングルの奥地や、地中から掘り出した不発弾にもキルロイの落書きがあったということで、海軍兵士を中心に一挙に噂がひろまり、それをまねるものが続出した。

アメリカの作家トマス・ピンチョンは、長編小説『V.』のなかでキルロイ発祥の自説を語っている。それによるとキルロイはバンドパスフィルタ回路図がもとになっているという。『V.』主人公のベニー・プロフェインが軍人だったころはまだキルロイは現役の流行をつづけており、それはどこにでも出没する謎の徴(しるし)だったのだ。
おなじ徴をたてつづけにみるとたしかになんでも気になってくる。ボクははじめてSTUSSYのロゴをみたとき、その抽象グラフィティ的なロゴの読みにくさと目撃する頻度の絶妙さからあれはいったいなんなのだと非常に気になったものである。流行のはじまりとはそういうもので、それが南カリフォルニア発祥のサーファーアパレルブランドだとわかるとひと安心し、むしろ謎を振りまく「こっち側」の人間になろうとする。
ブランドロゴでさえ気になるのであれば、キルロイを原子力潜水艦の原子炉隔壁の内側に発見した当初の人間の驚きと恐怖はどれほどであったろうか。造船所の検査員が、検査済みリベットにその印としてマークしたものだという説を聞くまでは、ひどいものだと宇宙人の仕業だとかスパイの暗号だとか超自然的な符号であるとかいうような荒唐無稽な説になびいたとして無理からぬことであったとおもう。
STUSSYは問題外として、キルロイ程度の謎ならばいずれすぐにとけるだろう。しかしこれがフリーメーソンの陰謀だとか宇宙人侵略説とかになると検証のしようがないぶん、謎が謎のまま、つまり荒唐無稽な説が荒唐無稽なまま存在していられることになってしまう。むしろそのような荒唐無稽な説そのものがすきな人もおおくいて、そんな人のために書籍ばかりか専用の雑誌までもが存在し、そこでは地球人の5人に1人はなりすました宇宙人であるとか、NASAは宇宙人の存在を隠しているとか、地球の内部は空洞でそこには別の人類が住んでいるとか、海に沈んだムー大陸人はみな超能力者だったとか、聞いていてもしんどくなってきてしまうような説がいくらでも出てくる。それらを自嘲気味に「トンデモ学説」と言っているうちはまだいいが、ダン・ブラウンの小説を読んで「キリストには妻がいたんだぞ」とそのまま鵜呑みにする読者がいたりするからおそろしい。そのおそろしさが歴史と政治と長い時間をかけて国家による大量殺人にまで発展したのが「シオン賢者の議定書」である。現在でもフリーメーソンの陰謀というのはこの国でさえ好んで話される罪のない噂話のように思えるテーマであるが、その大もとをたどればナチスのホロコーストの理論的証明にも使用されたというこの「シオン賢者の議定書」にいきつくと知ると、もう適当なことはいえないのである。


『フーコーの振り子』
そんなニセ科学、ニセ歴史書などからなるオカルトや陰謀史観を博物館的に蒐集してみせたのがウンベルト・エーコの『フーコーの振り子』である。ジャン・クロード・カリエールとの対談でも自身を非凡なオカルトオタクであると話すように、エーコの蒐集するオカルトは古今東西、古代から中世、現代まで多岐にわたる。
しかし、現実のトンデモ学説や陰謀史観がやはりどうしても素人の作であるために理論的な組み立てが弱かったり証明が不十分であったりするように、『フーコーの振り子』の作中に取り上げられるオカルトや陰謀史観もみな学説として不十分なのである。だから作中、オカルト愛好家から大金をとって自費出版させる出版会社勤務の編集者3人は、不完全なものしか持ち込まれないのならいっそ自分たちで完璧なオカルト陰謀史を作ってしまえということになる。このあたり、オカルトオタクの著者の碩学とこだわりぶりがよく見えてくる。
ところがテンプル騎士団にかんするメモをもとに作り上げた創作のオカルト陰謀史のできあがりがあまりに完璧であったため、自分たちの考えた陰謀史がうまくはまりすぎたのか、あるいは単なる偶然の連続なのか、あるいはまた自分たちの考えたと思っている陰謀史が、実際はほんとうに存在したものであったのかがわからなくなってくる。さらに編集者3人はテンプル騎士団としか考えられないような妨害と身の危険に遭遇し秘密に関与した者が失踪するにいたると、もはや遊びが遊びでなくなっていくのであった・・・。
こういうふうに書くと「オカルト陰謀史観ミステリー」のようであるが、それを期待して読むとかなりつらいだろう。むしろこの小説はこれ以上ないほど精緻で強力な「オカルト陰謀史」のカタログ化であり、小説そのものが陰謀史の証明とその逆の否定を同時におこなう知的な遊びだからだ。そこまでオカルトの側にたって論証の手助けをしてやり、陰謀史の符号をひとつずつ丹念にあわせてやる著者につきあいきれる人はそうおおくはないはずだ。だからこの『フーコーの振り子』は前作『薔薇の名前』ほどは売れなかった。オカルトそのものではなく、オカルトをカタログ化する小説としては今後ながいあいだこの作品をこえるものは出ないだろうとおもうほどの力作なのだが。


『V.』『重力の虹』
エーコは完全で史上最強の「オカルト陰謀史オタク」として学会で発表できない分野にガッツリとりくみ小説にしたのだが、いっぽうでトマス・ピンチョンはあくまでも素人として、陰謀的な徴に出会う日常の人物の視点から逸脱することなく陰謀、あるいは陰謀的な徴を小説に取り入れた。
まず先述した『V.』に出てくるキルロイの話である。わざわざキルロイ発祥の自説を開陳するのは、この『V.』そのものがひとつの大きな陰謀史観であり、陰謀史観の枠組みを利用したものだからだ。いわばキルロイと『V.』は入れ子でありフラクタルである。歴史を影で動かすV.など本気でとらえる読者はいまい。それでも物語の技法的な意味においてもピンチョンはスパイ小説には陰謀史観が絶対的に必要であることをしっていたし、なによりピンチョンは世界を現状のまま物語にすることの無意味さをもっともよく知っている作家のひとりであるのだ。ドイツのピンチョン研究家サーシャ・ペールマンは『逆光』の批評『複素数的なテキスト』においてこのように書いている。
ピンチョンは数学における世界の拡張のイメージを『逆光』でさかんに活用しているが、それは、世界を現状に還元してしまうことは諦めと放棄を意味するという、彼のほかの作品で繰り返されるメッセージのひとつの変形版なのである。こうした想像力は、ピンチョンにおいて常に、世界をオルタナティブに考えることを禁じるイデオロギーに対抗する政治的な手段でもある。(tweakk氏訳 http://d.hatena.ne.jp/tweakk/)
だから歴史をたとえば陰謀史としてとらえることで、かえって歴史そのものに翻弄される人間がパラノイア化していく状況でなければ、世界を物語のなかに定着させる意味はないことになるだろう。
それが『重力の虹』においては、陰謀そのものの発生現場を中心として、そこでくりひろげられる一見荒唐無稽な人々とディテールを積み上げることで世界のエントロピーを書き出す。主人公スロースロップがセックスした場所に、後刻かならずV2ロケットが着弾し、謎の機関ホワイトヴィジテーションはあらゆる科学と心理学と哲学とを援用してその謎を解明しようと躍起になる、というなんともバカげたシナリオなのだが、勃起と謎の化学物質「イミポレックスG」との関連をパブロフ学派の心理学者や統計学者たちが大真面目に議論する姿を上下巻あわせて1000ページ以上読まされると、たしかに人間の情報理解能力はわれわれが思っているものとはまったく違うカタチをしているのではないかと納得してしまう。パラノイア人間が過半数を占める世界では、そうでない者がパラノイアにならざるをえないのだ。



『競売ナンバー49の叫び』
ピンチョンの作品のなかでもっとも読みやすいといわれる長編『競売ナンバー49の叫び』はそのものずばり不可抗力的にパラノイア化していく人間の物語である。
ごく平凡な主婦エディパ・マースは、かつて愛人関係にあったピアス・インヴェラリティが死んだという手紙を受け取る。しかも不可解なことには、不動産王で大富豪のピアスがエディパを遺言執行人に指名しているというのだ。エディパは共同執行人のイケメン弁護士メツガーに会いにサン・ナルシソ市へむかう。サン・ナルシソ市でエディパはピアスの残した財産目録のなかに不思議な切手を発見する。それは通常の郵便事業をあらわすトランペットの先にミュートのついた見なれぬマークの偽造切手であった。それ以降、エディパのまわりにはトライステロとよばれる不思議な徴が頻出するようになる。不倫関係となったメツガーとでかけたバー「ザ・スコープ」では、私設の郵便配達夫が手紙を配っているのを目撃する。トイレに入ると「洗練されたお遊びはいかが? カービーにご連絡を。ただしWASTEを通じて」という落書きとともに例のミュートトランペットが書かれている。ピアスが大株主をつとめる企業ヨーヨーダインの株主総会では、フエルトペンでミュートトランペットのロゴを封筒に書き込む男とであう。ホモセクシュアルのパーティー会場では胸にミュートトランペットのバッチをした男がおり、バスに乗るとWASTEという文字の下に鉛筆でこう落書きされている。「喇叭を敵にまわすなかれ」。そのうちにエディパにもミュートトランペットの謎がわかってくる。どうやらそれは神聖ローマ帝国の15世紀から19世紀にかけて郵便事業を独占したテュールン・タクシス家に反対したトライステロという私設地下郵便組織のマークであり、WASTEは「我らは沈黙のトライステロ帝国を待つ(We Await Silent Tristero's Empire)」の略語であるということだ。そしてその秘密結社と化した郵便事業は、あらゆる歴史的事件に社会の裏側から関与し続けているという。混乱するエディパの前には数々の徴が顕在化してくる。漢方薬店の漢字の向こうに、歩道の落書きに、芝居の台本のなかに、すれちがう子供達の口ずさむ歌の歌詞のなかにも。これはいったいどういうことなのか。自分の頭が狂いつつあるのか、それともこれはピアスの手のこんだいたずらなのか、あるいはトライステロはほんとうに存在する秘密結社で、世界はいままでエディパがみていたものとは別の姿をもっているのか・・・。そのうちにエディパは、ピアスの残した偽造切手を高値で競り落とす人間が競売会場に現れるという情報をえる。その人物こそがトライステロの中心人物であるにちがいない。会場では競売ナンバー49がつけられたピアスの偽造切手に、競りのかけ声(叫び)がひびき、謎の人物が入室してくるところで物語は突如として終わる。
謎が謎のまま終わるので、われわれ読者はエディパの混乱と不安を引き継いだまま本を閉じることになる。50ページに及ぶ親切な訳者解説も、トライステロの謎を解明するのにはもちろん役立たない。トライステロがエディパの妄想であるならわれわれもパラノイアであると言えるし、それがピアスの仕掛けた壮大ないたずらであるならわれわれは極度のパラノイアでできたいたずらに長い時間付き合わされたことになる。逆にもしトライステロが実在する秘密結社で世界を闇から操っているのであれば、本を閉じた後のわれわれの世界はその意味と姿を少しばかり変えているのかもしれない。

パラノイアは病名であるが、それは多数決で病気であると決定した病名である。パラノイア患者のいうことは理論的でないしおおくは話が破綻さえしている。しかしパラノイア的な考えを忌み嫌い、見たままの世界の姿を真実であると思い込み、教師や教科書や新聞やテレビに教えられた世界観に固執し続ける現代人も、ある意味極度のパラノイアであるのだ。だから世界を理解する思考パターンとして、人工的にパラノイア的な考え方を身につけてみるのは有用であるかもしれない。先述したサーシャ・ペールマンはこう書いている。
「ピンチョンにとって、オルタナティブを許さないような現実は硬直を意味する」
しかし残念ながら、われわれは硬直した世界に生息している。『V.』のもうひとりの主人公ハーバート・ステンシルは、あるかどうかもわからない謎の人物「V.」を探し求めるパラノイアかもしれないし、歴史の裏にほんとうはどのような真実があったのかはわからないが、しかしステンシルも、エディパの体験も、世界の硬直化を前にした「もうひとつの世界像の提示」であることはまちがいないだろう。
ただ、世界はテンプル騎士団が操っているとか、アメリカ政府は宇宙人に侵略されているとか本気で考える人たちのように、パラノイアは一度深みにはまると抜け出せない魔力をもつものではあるが。どちらにしても、パラノイアおそるべし。




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