ボルヘスの夜 『七つの夜』

アルゼンチンの作家ホルヘ・ルイス・ボルヘスが死んで、昨日(6月14日)でちょうど25年だそうだ。はるか昔の文学者というイメージなのだが、実は死後たった25年しかたっていないというのはビックリである。
それにあわせたわけでもないだろうが、岩波文庫から『七つの夜』が出版された。ちょうど命日の昨日、紀伊国屋書店に買いに行った。
1977年、77才のボルヘスが7つのテーマを7夜にわたっておこなった講義の内容が収められている。「神曲」「悪夢」「千一夜物語」「仏教」「詩について」「カバラ」「盲目について」の7つのテーマの講義録である。
ボルヘスは「数分で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは、労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である」といって詩と短編小説しか執筆しなかった。ボルヘスの書くどの作品も小説というよりはまるで評論かエッセーのような読み口で、しかしつかうときの隠喩はまるでシュールレアリズムのごとく幻想的で切れ味がよかった。
しかしなによりボルヘスの魅力は、その驚異的なテクストの読解にあると考える。ボルヘスがカフカを語るのを読んだとき、おなじ作品を読んでこうまで解釈の幅に隔たりがあるのはいったいどうしたことだろう、と愕然となる。ボルヘスの書くカフカ論は、むしろカフカを読むという読書体験よりももっとずっと高度な文学的創造ではないのかと考えさえする。
「Musician's Musician」という言葉は、プロのミュージシャンが聞くミュージシャンのことである。一般受けはしないが、プロからは絶賛される音楽のことである。ボルヘスはそういう傾向がある。世界中の小説家や文学者が、文学の示唆をもとめてボルヘスを読むのである。
ボルヘスは偉大だが、高校の教科書に掲載すべきだとはちっともおもわない。多少ともボルヘス的な文学的読解力をつけてからの楽しみにとっておくべきである。でなければ、読解というものが読者の自由裁量であるという大前提に達するまえに、自分の読解を嘆き、質の悪いボルヘスもどきのコピーとなるだろう。当時アルゼンチンではボルヘスそっくりの作家が大量にうまれたそうだが、そのなかでこんにち生きながらえているものはいないのである。ボルヘスがユニークすぎたし、彼の創造したジャンルで活動できる文学者はやはりボルヘスしかいなかったのである。
当時、ボルヘスに読まれることに緊張感をもたない同時代の作家は少なかったろう。ボルヘスは自分では「私は享楽的な読者である」と言うが、研究のための読書であればかえって作者は緊張しないのではないだろうか。それよりも、かのボルヘスを楽しませなければならないという立場が、人を緊張させるのだろう。なぜなら、ボルヘスはつまり、「読者の天才」だからである。

ごく普通のあまり文章を書いたことのない人が、いきなり読んだ本の書評を書こうと思うと、いきおい読書感想文のようなおもしろいおもしろくない、といった主観的表現になってしまうか、あるいは物語のあらすじを追うだけのものになってしまう。
それが、次には対象となる書物を解釈する思考グリッドのようなツールを発見し、そのグリッドによって物語を別の言葉に置きかえられるようになる。
さらに進化すると、小林秀雄が言うように「他人の作品をつかって自分の言いたいことを言う」というところまで発展する。もはや書評において対象となる書物はあまり重要でない、という逆説的な境地である。
ボルヘスの「読み」は、その逆説のさらに向こう側からの解釈であるように感じられる。書評や批評のための書物は、ボルヘスにとってまるで触媒かなにかのような役割りになっているのではないかと思われるのだ。
ボルヘスにとって対象となるはずの書物は、あってもなくてもかまわないし、適当なのがなければ架空のものを自分で作りだしてもよいのである。ボルヘスも語るように、書物とはそれ自体で完結するものではない。書物とは他の書物との関係性のことなのである。ボルヘスが重要とするのはその「関係性」の部分であるのだ。
だから「メタ読書」「メタ批評」というポストモダンを、もう60年もまえに実践できたのだろう。ボルヘス自身はけっしてポストモダニストではなかったのだが。



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