『コード・アンノウン』ハネケ


ミヒャエル・ハネケ監督6作目の劇場映画。『カフカの城』のつぎ、『ピアニスト』の前に撮られた映画。なるほど、ぶつ切りの映像と被写体を横から追うワンカットカメラは『カフカの城』のようだし、フランスに移ってから極端に美しくなるハネケの映像美は『ピアニスト』のようでもある。群像劇としては、『71フラグメンツ』にもたいへんよく似ている。違うところは『71フラグメンツ』が殺人という事件が最終的に群像のなかの人々を結びつけるのにたいして、こちらは最終的な事件や事故はほとんどなにもおこらない。だから群像劇はすれちがったままはじまり、すれちがったまま終わる。「すれちがい」というか、「無理解」というか、「コミュニケーションの不在」というか、なんしか人間の「わかりあえなさ」を痛いほど描きだしてくれる。ハネケなので、もちろん容赦なく。

冒頭、聾唖の子どもたちがクイズをしている。ジェスチャーだけでそれがなにを意味しているかを当てるのである。孤独、隠れ家、ギャング、やましさ、悲しみ、刑務所、と子どもたちは手話で答えるが、すべてちがっている。言葉を話すものであれば、それはつたえられたのであろうか。まるで回答のように、「コード・アンノウン」とタイトルが表示される。

ジュリエット・ビノッシュ演じるアンヌ(ハネケの法則にしたがって女主人公の名はアンヌかアンと決まっている)は、アパートの前で恋人ジョルジュ(同法則によりジョルジュ)の弟ジャンとあう。ジャンは父とケンカし農家である実家から家出してきたという。女優の仕事でいそがしいアンヌは「私の解決できる問題じゃないわ」といい、アパートの鍵と暗証番号をおしえておいかえす。アンヌの諫めるような態度にジャンはふてくされ、もらったパンの包み紙を物乞いの女になげつける。たまたまそれをみたマリからの移民二世のアマドゥは「彼女を侮辱した。あやまれ」とつめよる。かたくなに逃げようとするジャンともみ合いになり、もどってきたアンヌが制止するのもきかず、やがて警察がよばれる。

この、なにげないどこにでもあるような事件に関連する4人の登場人物たちの生活が、この事件から枝分かれして物語がすすむことになる。

まず第一に、アンヌとジョルジュの同棲生活。
第二に、ジャンと父との農場での生活。
第三に、マリからの移民アマドゥの家族の生活。
第四に、ゴミを投げつけられた物乞いのルーマニア女の生活。

はじまりが無理解であったように、日々の彼らの暮らしも無理解の連続である。
アンヌはジョルジュと愛し合っていながらも、些細なことでのケンカが絶えない様子である。カメラマンのジョルジュがボスニアから帰宅した日のアンヌの笑顔から推察するに、ふたりは遠く離れていたほうがお互いを思いやれるような雰囲気である。
アンヌがひとりでアイロンがけをしている時、どこかの部屋から子どもの悲鳴か泣き声のような音がする。テレビの音声を消すとたしかに子どもの悲鳴のようである。後日、部屋の扉に子どもの虐待を指摘するようなメモがはさまれている。向かいの部屋のおばあさんに「この筆跡はあなたかと思って」とたずねにいくが、しらないと冷たく扉をとざされてしまう。ジョルジュに相談するが、彼は「それは君の名前宛てに書かれたものだ。一人で決断できる大人になれよ」とあしらわれ、スーパーのなかで激怒し、大声でケンカしてしまう。
物語の中盤、突如として葬式のシーンがはじまる。神父は死んだのが幼いものであったような言い方をする。参列しているアンヌは、献花したあとおばあさんと一緒に帰っていく。このおばあさんはアンヌの向かいにすむ例のおばあさんではなかったか。だとするなら、死んだのはアパート関係の子どもではないのか。見ている鑑賞者にはそれをたしかめる方法はない。
ジョルジュは戦場カメラマンであるが、友達らとレストランで食事しているとき、ある友人から彼の作品の批判をうける。かれのボスニアでの目を覆うような惨状を撮影した写真は、「悲惨すぎて意味がない」というのだ。「出発点が違う」と反論しながらも、たぶんボスニアに行ったことさえない友人の「体験がかんじられない写真だ」という指摘には「そうかもしれない」と答えてしまう。
アンヌはジョルジュとの諍いで、「それじゃあ、あなたは誰かとちゃんと関係をもったの?」と詰めよられ、挙げ句の果てには「誰かを幸せにしたことがあるの?」ときかれ、これにも「ない」と正直に返答する。彼は、地下鉄でむかいあった見ず知らずの乗客を隠し撮りする方法を思いつく。撮りためた白黒の写真は、そこに被さる彼の戦地での体験談とひとつになるとき、ある意味ステレオタイプ化された以前の写真の数倍もの威力のある写真となる。しかし、コソボの死体だろうと、相手に了解のない隠し撮りだろうと、他者との関係が切り離されたところでしかジョルジュは表現しようとしない。地下鉄で盗撮されたさまざまな民族、性別、年齢の顔写真は、家族からも仕事からも、あらゆる関係から切り離された本当の孤独が、図らずも宿っているようだ。
ジョルジュの弟ジャンは、いったんは農場へ帰ったもののまた家出してしまう。息子を喜ばそうと購入したバイクも、つかのまの懐柔策でしかなかったようだ。兄のジョルジュは父の話を聞きながらも、本来は自分が家をつがなければならない立場であるような雰囲気ではない。絶望した父は、飼っている牛をすべて殺してしまう。
マリからの移民二世アマドゥは正義感から物乞いの女に謝罪させようとジャンにつめよる。しかし警察沙汰となり、自分は黒人のために弁明を聞いてもらえず、その尊厳をまもろうとおもった物乞いの女は、そのために不法入国がバレて強制送還されてしまう。
アマドゥの家族は移民ならではの問題をかかえている。母はアマドゥの問題もその弟が学校で問題をおこしたことも、すべて白人のせいだと考え、新興宗教にまで発展した「移民原理主義」のような思想にたよる。アマドゥが白人の娘とつきあっていることも許せないようだ。そのアマドゥと白人娘とのデートで、アマドゥは、彼が気に入らないという腕時計を、彼女が捨てようとするのを止めもしない。自分の祖父のことばかりベラベラしゃべるのはいいとしても、どうして彼女が腕時計を捨てるのを黙認したりするのだろうか。
そのアマドゥが助けようと思った物乞いの女は、ルーマニアでは「パリの学校で働いていた」と嘘をつく。あたらしい家に引越するが、彼女もまた家族のなかで本当に話さなければならないことを、黙ったままでいるようだ。
物語の最後、再度不法入国した彼女は、自分よりももっと惨めな境遇の女が、赤ん坊をかかえてかつての自分の定位置を占拠しているのをみて居場所を失ってしまう。
そのすぐ横を、地下鉄で不良に辱められたアンヌがアパートに帰っていく。アンヌは女優であることをネタに、地下鉄の車内で移民の少年たちに執拗にからかわれ、侮辱されるのだ。このシーン開始直後、大柄で健康そうな青年が大きな荷物をもって地下鉄の車両に入ってくるところが映る。ハネケはこの青年に観客の視線を集めておいた上で、最終的にこの青年になにもさせないのである。健康青年は他の乗客とおなじように、侮辱される女性も不良たちも見ようとせず、何事もないようにうつむき事をやり過ごそうとする。
おなじ移民とおぼしき別の中年男が、アンヌの顔にツバを吐きかけた段になってようやく不良少年たちに「恥をしれ」と叫ぶ。しかし降車ぎわの少年たちの意表を突いたからかいに、みな飛び上がらんばかりに驚いたあとに残るのは、車内を埋めつくすなんとも言えない虚しく悲しい沈黙だけである。
地下鉄から出たアンヌは、なにかから逃げるように帰宅する。恐怖からか、アパートの暗証番号を変えたのだろう、あとから帰宅したジョルジュはアパートに入ることができない。それとも、あたらしい映画の相手役との不倫が本気になってしまったのだろうか。あるいはかつて番号をおしえたジャンをおそれているのか。なんにせよ、暗証番号(コード)が不明(アンノウン)なために人と人がであうことができない。このエピソードはようやく映画そのものをあらわすシークエンスとなる。雨の中、ジョルジュはアパートを去っていく。
冒頭とおなじように、聾唖の子どもがジェスチャーでクイズをするシーンに切りかわる。手話のわからないわれわれには、まったくその意味と答えがわからない。最初のクイズも最後のクイズも、そのあいだをうめる人々のこともまったくわからないまま映画は終わる。


これで思い出すのはアレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ監督の『バベル』(2006)である。なにをやっても、というかなにかことを起こすごとに、人と人との理解は遠のいていく。『バベル』ではそのことをきちんと観客に明示するために、かすかに交差する3つの物語それぞれにコミュニケーションの不成立をえがいた。
『コード・アンノウン』では観客にまでその不成立をつきつける。そこが『バベル』とのおおきな違いである。わかりやすくするということは、コミュニケーションを成立させるということである。成立するところまで、事実を合理的に伝達可能なものとすることである。そこで切りすてたあるいは余分に抱え込んだものが、どれぐらい大切なものだったのかは、観客にはわからない。しかしすくなくとも、ボケッとした観客に人間の関係性が無理解というものでしか成立しないのだよ、と伝えるのを仕事とするなら、『バベル』のほうがよい仕事をしているだろう。なぜなら、ハネケにはそういう親切がいっさいなく、映画と観客との関係性までがディスコミュニケーションであるからだ。われわれ観客は、移民や不法入国者や物乞いや聾唖者や不仲の恋人のように、置き去りにされるのである。

ハネケなので身構えてみていたが、暴力はおろか、血の一滴も出ない。そういうのが苦手な人はこの作品から見てもよいかもしれない。しかし、これまでの作品のなかではいちばん難解かもしれないので、そこはご注意。
パリでの長撮りワンカットはそれまでのハネケ作品のなかでもっとも美しい。『ピアニスト』以上かもしれない。
あと、ハネケにはめずらしく音楽がかかる。BGMとして、ラストに聾唖のこどもたちの太鼓の合奏がかかるのだ。こんな音楽の使い方ははじめてである。度肝をぬくサントラ。音階のない太鼓だけのBGMがどうしてこんなにドラマチックになるんだろう! こんなにも抑制されているのに、こんなにも豊穣に語るBGMは聞いたことがない。
『セブンス・コンチネント』や『ベニーズ・ビデオ』、あるいは『ファニーゲーム』とちがって、なんとかぎりぎり人におすすめできる映画である。


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