戦争報道のコンテキスト 『他者の苦痛へのまなざし』『ウィキリークス アサンジの戦争』

ある女性タレントが近日公開される映画のプロモーションキャンペーンで雑誌社をまわる。雑誌のタイアップで映画の記事を書くかわりに、タレントが表紙を飾る。タイアップ先は女性ファッション誌もあり、なかには男性一般誌もある。だからおなじタレントが、おなじ月のまったくちがう雑誌に同時に登場することになる。それらがコンビニや書店にならぶと、ちょっと不思議な光景になる。
おなじタレントの顔がずらっとならんでいるのはまあいいとしても、女性ファッション誌では清楚でフェミニンなそのタレントが、週刊の男性一般誌ではなまめかしくエロティックな様相で表紙を飾っている。メイク、衣装、背景、照明など具体的な演出のちがいはおおいだろうが、その演出のちがいを生みださせているのは、雑誌購読者の視線のちがいである。視線のちがいにこたえるために、カメラマンや編集者はタレントの「意味」を変えるのである。視線によってこのように変わる「意味」を、われわれは「文脈(コンテキスト)」とよぶ。
文脈がちがえばおなじタレントでも「すてきな奥さん」にもなるし、トレンドセッターのOLにもなるし、コケティッシュな不倫女にもなるだろう。

「民族浄化」という恐ろしい言葉が一世を風靡したとき、ボスニア・ヘルツェゴビナではまったくおなじ一枚の写真が、セルビア、クロアチアの双方で利用された。(スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』)
それは爆撃された村に生きのこった子どもらの写真であるが、セルビアはその写真のキャプションに「クロアチアの爆撃で家族を失った子ども」と書き、クロアチアはその逆を書いた。ボスニア紛争によって、いかにメディアを上手く利用するかがその戦争の勝敗さえも決定するのだということがよくわかった。しかし驚くべきは、写真に付されたたった一行のキャプションによって、どんなに衝撃的な写真だろうとその意味を180度かえてしまうという、コンテキストのおそろしさである。そのようなコンテキストのおそろしさを知ってしまったら、もはやそこに写る悲惨な境遇の子どもが本当はセルビア人だったのかクロアチア人だったのかはもう関係がなくなってくる。もっと言うなら、コンテキストのからくりがばれてしまったあとでは、その子の悲惨な境遇もあまりたいしたものではないような醒めた気分になってくるのである。つまり写真のもつパワーがいっきょに失われるのである。それほどにコンテキストは見るものにとって重要なものなのだ。

2007年にイラクのバクダッドに侵攻したアメリカ軍は、武器を携行していない民間人を戦闘ヘリアパッチから爆撃し10数人を殺害した。普段なら「テロリストの集会所を爆撃」などという短信でおわらせた日常のありふれたできごとだったかもしれない。しかしアパッチに搭載された記録用ビデオカメラの映像が、ある兵士(ブラッドリー・マニング上等兵だと言われており、彼は現在陸軍に拘留中)の裏切りによってウィキリークスに投稿されてしまったのだ。しかも悪いことに、アパッチの乗組員がM230-30ミリ機関砲をぶっ放しながら、ここには書きたくもないような罵り言葉を死にいく標的に吐き続けている音声まではっきり集録されており、さらに悪いことに、撃ち殺された民間人のなかにロイターの通信員が2名も含まれていた。この事件によってアメリカ国防省は大騒ぎとなり、イラク撤退の世論におおきなちからをつけてしまった。その一方で、一部の報道・外交関係者にしか知られていなかったウィキリークスはいっきょに有名になった。国家の悪をあばくあたらしいジャーナリズムだ、と。
しかし、ウィキリークスはユーチューブに公開された映像のなかで、ロケット砲をもつイラク人が写っている映像をリダクション(削除編集)し、なおかつ、写っているのは衝撃的な事件であっても単なる軍隊の業務記録でしかなかったはずの映像に「Collateral Murder(民間人殺し)」というセンセーショナルなタイトルをつけてしまった。アメリカ軍の横暴で危険な体質を糾弾しイラク撤兵を煽動するためか、あるいは事件そのものの衝撃度を上げるためだったかもしれないが、アサンジはウィキリークスにあるまじき行為をおこなってしまったのである。それは、記録映像にコンテキストをつけるという行為である。

ウィキリークスは当初、投稿された外電や記録映像、機密文書は一切編集せずにそのまま掲載するという方針をもっていた。
それができるのは、ウィキリークスがインターネットのウェブサービスのひとつだからだ。たとえばかぎられた紙面数しかもたない新聞は、膨大な枚数の外交文書をそのまま引用することはできない。おのずとリダクションしなければならない。リダクションするということは、そこに人為的な加工が入るということである。新聞を読んだ読者は、ふと気づくときが来る。削られた部分に、全体の意味がかわるような文章があったのではないか。編集によって意味が曲げられているのではないか、と。だからインターネットでは事件の「素材」そのものを見なければ信用できないという意見がおおいのである。しかし新聞は、社会、政治、経済、スポーツ、芸能、一般すべてをおおくてたかだか40ページで網羅しなければならない(しかも憂鬱なことにそこにあの忌まわしい広告まで入ってくる!)のである。
ところがウィキリークスはそれらを一切編集せずに掲載するという。それが可能なのはウェブページに量的な制限がないためである。新聞のリダクションに不信感をいだいていた人々には、ウィキリークスはある意味ヒーローであったろう。

が、蓋を開けてみると事態はちがっていた。3つの意味でウィキリークスの「無編集」はわれわれ一般人には相手できないものであるとわかったのだ。
第1に、25万件もの外交文書を読むことは、一般人には量的に不可能であること。
第2に、膨大な素材を与えられると、われわれ一般人はどれがニュースでどれが日常のできごとなのか、その価値を知ったり判断したりできないということ。
第3に、いわゆる「国益」をそこね、関係者の生命を危険におかしてまで「素材」にこだわる必要が見いだせなかったということ。
それらの理由において、結局われわれはガーディアンやニューヨークタイムズといった「権威ある」新聞のリダクションの記事を読むのである。それが「ジャーナリズムというコンテキスト」で書かれたものだとしても、そのフィルタリングがなければわれわれはニュースを、ニュースを通して世界を認識することができないのである。

無編集にこだわったウィキリークスでさえ、「Collateral Murder」というコンテキストで語らなければ人民は気づいてくれなかった。
むしろ素材そのままをわれわれ素人が受け取った場合、われわれはジャーナリストより適切にその判断ができるだろうか。無実の民間人の子どもを30ミリ砲でヘリから撃ち殺す映像を見て、なんの感情の表明もなくツイッターにつぶやける人がいるだろうか。誰もがこう書くだろう。「ひどい! アメリカ軍の横暴はゆるせない。いますぐ撤兵を!」と。とうぜんだが、それはジャーナリズムではない。ウィキリークスがリークというシステムでありジャーナリズムではなかったように、ツイッターもブログもフェースブックもジャーナリズムではない。なぜならわれわれの「伝える」という行為の前には、常に恣意的な感情と利害に根ざすコンテキストが存在するからである。それは特定のタレントを一方で「清楚でフェミニン」とおもいたい女子の視線があり、一方で「コケティッシュな不倫女」としてしか眺められない視線があるからだ。
われわれはコンテキストから自由になることはできないし、コンテキストのない情報をあつかう方法をしらないのである。であれば、希望的には、われわれは複数のコンテキストを同時に認識する方法を手に入れるべきだろう。





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