5冊でじゅうぶん 『砂の本』ボルヘス

ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編『疲れた男のユートピア』で、主人公の男は一種のタイムスリップをする。平原のかなたに見える家をたずねると、ひどく背の高くどの言語も通じない男が出むかえる。彼は、唯一話すことのできるラテン語で「言語の多様性は、民族はもちろん、戦争の多様性さえ助長します。それゆえ、世界はラテン語にもどったのです」という。「過去については、まだいくつかの名前が残っているが、言語はそれを失いかけている。われわれは無用の細部を回避します。年代も歴史もない。統計もありません」という遠い未来で、彼は主人公が控えめに自慢する2000冊の蔵書を笑う。「2000冊もの本を読める者はいません。わたしも、今まで生きてきた4世紀のあいだに、半ダースの本も読んでいません」。
そして、「大事なのは、ただ読むことではなく、くり返し読むことなのです。今はもうなくなったが、印刷は、人間の最大の悪のひとつでした。なぜなら、それは、いりもしない本をどんどん増やし、あげくのはてに、目をくらませるだけだからです」という。
ケベードの書く「ありもしない場所」というギリシャ語から由来するユートピアを夢想したこの短編は、ボルヘスの戯れのようでもあり、高級な皮肉のようでもある。
しかし、2000冊の蔵書は身につまされる話題でもある。はるか未来の男とちがって、われわれ現代人は読書という人生に有益であるはずの行為を評価する尺度を、数で計測する以外にもっていないのである。
知の殿堂であるはずの図書館でさえ今ではその蔵書数を誇る世の中で、人によって天と地ほどもかわるはずの「読書の質」を、いったいどうやって評価すべきなのかわれわれは知らないし、読書をメディア鑑賞としてとらえられる世界を変革する方法もわからない。
本質だろうと些事であろうと、数のみが評価軸となるのである。
だから多読が読者のもっとも誇れる武器となる。膨大な蔵書が知識の鏡なのである。それがわかっているから蔵書用のいかめしい装幀の「世界文学全集」といった読むためというよりも書斎を飾るための高額な本が売れたりする。
ほんとうに重要な本は、人生にせいぜい4、5冊出会うか出会わないかといったところだろう。あとは、その本と出会うための試練というか、むしろ重要な本にたどり着くのを阻止する目くらましの経済原則であり、「版」という超低コストで再生産可能な商品販売を生業とする企業のマーケティングである。
チャンネル数が増えたからって、いきなりテレビをみて博学になったりしないのと一緒で、多読だからといってなにかメリットがあるかと言えば、たぶんほとんどないだろう。われわれは自分の人生にとって重要な知識をもつことと、数におぼれることを同一視してきた。
ヒットラーを「過去にいた人道主義者」とよぶ不気味なユートピアで、ラテン語を話す巨大な未来の男が読んだ5冊程度の読書を、ボクもしたいとおもう。しかし、その5冊はどうやって決めたらいいだろう。それを発見するために大量の本をやはり読むしかないのか。だからボルヘスは「ユートピア」とよんだのだろうか。


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