「現代思想 震災以後を生きるための50冊」

1938年に発表された『嘔吐』は、サルトルの著作のなかでももっとも売れた作品である。サルトルの主著である哲学書『存在と無』の小説化であるとも言える『嘔吐』は当時、実存主義のバイブルとさえなり、サルトル本人は辞退したが、ノーベル賞の契機となった。
しかしその後、アンガージュマンの思想とソビエトへの偏向を強めていったサルトルはこう言う。

「飢えた子どもを前にして『嘔吐』は無力だ」


未曾有の被害を日本にもたらした今回の地震により、哲学者や文学者は思想的にさまよっている。「飢えた子どもを前に」している以上の過酷な現実に、思想や文学がなんの役にもたたないことを痛感しているのだろうか。思想や文学なんて衣食足りた閑人のすることである。サルトルの言うように、本なんて食べられないし、いくら読んでも金になるわけじゃない。
であるなら、知識人はみな政治に参加すべきだろうか。各人のおこないがすべて政治である必要があるのだろうか。

書店にいくとそういう悩みを抱えた人のための書籍が数多く売られている。雑誌「現代思想」も臨時増刊でその悩みに対応しようとしている。
「現状を乗りこえる」というよりも、むしろこのように過酷な現状を自分のなかに取り込み消化したいという欲求が、書店の「話題の本」コーナーに顕在化している。しかしよく見ると、そのすべてを読んだとしてもそのような欲求が解消されないのはわかるはずである。
『2012年 日本経済は破綻する』というタイトルの書籍の横に『日本復活のシナリオ』といった名前の本がならぶ。経済だけでも政治だけでもなく、原発問題をふくむあらゆるジャンルで、矛盾し相反する書籍が同時に売られ、同時に購入されていく。むしろ、3・11以降の日本の迷走と混迷がそのまま書棚に表現されているだけのようにかんじられる。「現代思想」臨時増刊「震災以後を生きるための50冊」という特集で渋谷慶一郎がこう書いている。

「これがきっかけで読む本が全部原発に関するものになったりするのはどうかしていると思います。いままでやってきたことを否定しても現状にコミットする戦力になりえないですよね」 『つづきをやればいい』 「現代思想」7月臨時増刊号

そういうことである。地震から4ヶ月たっても3・11を乗りこえる思想をわれわれが持ちえないのは、必死になっていままでの自己の否定をしているからだ。いままで築き上げてきたもの、それ自体が乗りこえるべき障害であると認識してしまったからだ。あるものは政治に帰し、あるものは反原発思想への傾倒にまかせ、あるものは沈黙する、そういったそれぞれのやり口で今までの自己を否定してしまっているからだ。自己否定というと大げさに聞こえるかもしれないが、それはある価値観が崩壊するとき、新しい価値観に乗りかえるためにわれわれが常におこなっている行動である。
国民レベルで暗黙の自己否定がおこなわれている時代に、アンガージュマンは「次の精神的支柱」を見つけ出してくれるのだろうか。

たしかにお腹がいっぱいにはならないが、思想や文学や哲学が驚くべきほどの遅効性であることを忘れている人がおおすぎる。ボクはいかなる神も宗教も信じてはいないが、「最後の審判」という観念は、実のところ毎日のようにわれわれに降りかかる。日常のできごとのその時々に、その人の「小さな審判」なり「小さな決算」がやってくる。今は100年に一度の大決算期だろう。あわてて聖書やコーランを買いに走っても、今までの自己否定にしかならない。
もし「震災以後を生きるための」思想なり哲学なり書籍なりがあるとするなら、それは自分の過去から見つけ出してくるしかないだろう。否定できない自己を、過去のどの時点からもってくるのかの問題なのである。
だから、迷走と混迷を抜け出し、この現状を乗りこえる方法と思考があるとするなら、それはテレビのニュース解説でも、「話題の本」コーナーに置かれているどの新刊本でもないだろう。3・11は、それほど容易な事件ではなかったはずである。

渋谷慶一郎の言うようにわれわれは愚直に「つづきをやればいい」のである。やるべき「つづき」のないものはむしろ幸いである。新しい価値観と思想を手に入れ、弱いアイデンティティーとわかれられるチャンスだからだ。
この震災と原発問題は、それほどに各自の過去を問うているのだ。



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