人間の叡知を疑う 『AKIRA』大友克洋
大友克洋のマンガ『AKIRA』は、人類の破壊と再生とエントロピーの物語だ、と思う。その循環はまるでヒンドゥー教の三神一体のようだと常々おもっていた。創造の神ブラフマー、維持と繁栄の神ヴィシュヌ、破壊の神シヴァによる三神一体の世界観が、『AKIRA』の描く頂点まで登りつめエントロピーを極めた近未来社会の繁栄と、その繁栄を根底から覆すまったく新しい人類の能力、そしてその能力の発揮による崩壊と再生にみごとに一致するからだ。気の遠くなるほど長い年月をかけた生命の循環が、ひとりの神のような少年のすがたで象徴される物語である、とそうとらえて楽しんだりしていた。星がうまれ、成長し、やがて老いて超新星爆発をおこし、その爆発からまた新しい星がうまれる、といった壮大なものがたりのようでもある。
そうであるなら、永遠にうまれかわる循環とひきかえに、われわれは崩壊をめざして成長するしかないのかもしれない。『AKIRA』が描く爛熟と混乱をきわめ欲望だけが力となる近未来の風景が、われわれのこの現実の日常とひどく似ていることを考えると、人類再生直前にあるはずのカタストロフも地続きであるかもしれないのだ。
『AKIRA』での主要登場人物のひとりであるアミーの大佐は、「アキラくんが目覚める」というキヨコの予言をおそれ、「完全な秩序」のなかでアキラを眠らせている、オリンピックスタジアム地下に埋設された0.005ケルビンの超低温冷凍装置の視察にいく。
それはまるで巨大な人工知能のようでもあり、宇宙船のようでもあり、原子力発電所の原子炉のようでもある。大佐はその巨大な装置を前に、博士につぶやく。
見てみろ・・・
この慌てぶりを・・・
恐いのだ・・・
恐くてたまらずに覆い隠したのだ・・・
恥も尊厳も忘れ・・・
築き上げてきた文明も科学もかなぐり捨てて ・・・
自ら開けた恐怖の穴を慌てて塞いだのだ・・・
それはまるで、かつてはチェルノブイリのことを語っているようにも思えたし、いまではフクシマを指しているようにも読める。
進歩は人類の幸福への鍵であり、人々は時代を経るごとに恵まれた生活をおくるようになる、と考える人はおおい。しかし人類の叡知とは、そういうものだろうか。
叡知も情報の集積であるなら、発展すればするほどわれわれはエントロピーの法則にしたがい無秩序な世界にむかのうではないのか。発展の先には、われわれの目には「恐怖の穴」としか写らない破壊の種があるのではないのか。われわれは知識や文化を生産しコントロールしていると思い込んでいるが、コントロールされているのはわれわれ人間のほうなのではないのか・・・。
などと考えてみた。そうでなければ、どうして人間はこんなにもいそいで科学技術を生活に取り入れようとするのかがわからない。それは「取り入れた」のではなく、科学や文明といった「人類の叡知」というものに、自然物としての人間の生活が浸食されているからではないのか。
だとしたら、こわいよなー・・・。
だとしたら、こわいよなー・・・。
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