ハネケ『ベニーズ・ビデオ』

ミヒャエル・ハネケ監督の劇場第二作。第一作が家族の破壊が自死にむく、つまり内側への暴力だったのにたいして、今回は外側へ、つまり他者への暴力のかたちで破壊がおこなわれる。第一作の『セブンス・コンチネント』でもそうとうつらかったのに、それが人殺しとなるんでしょ? 「いやだなぁー」と思いながらみた。
案の定、映画は豚の屠殺シーンからはじまる。ビィービィーひどいありさまで鳴きわめく豚。屠殺用の銃を眉間にうちこまれ、白目で倒れ込みひくひくしているところにさらにもう1発。
タイトルのはじまる前のこの段階から、すでにハネケ攻撃ははじまっている。なぜならこの豚の屠殺シーンが民生用ホームビデオで撮られた画質のあらい映像であり、それゆえたぶんこの撮影のためにこの豚は実際ほんとうに殺されたのだろうということは、だれもが簡単に推察できるからだ。「豚はじっさいに殺されている」というメタ鑑賞を前置きとして、ようやく映画のタイトルが表示される。
このホームビデオを撮影したのは中学生のベニーくんである。このビデオはベニーくんのお気に入りなので、毎日のようにみている。見終わってもまた巻き戻し、屠殺の瞬間をこんどはわざわざスローモーションでみてたのしむ。スローに低く引き延ばされた豚の悲鳴は、まるで地獄のそこからの地鳴りのようである。勘弁してくれよ・・・。
家畜が屠殺されるシーンのある映画なんて山のようにある。エルマンノ・オルミ監督の『木靴の樹』(1978)ではイタリアの貧しい小作農家たちが、祝祭の日に宝ものの豚をみなで屠殺する。豚に「すまんな」といったりお祈りしたりしながらも、屠殺シーンのリアリズムはかなり「グッ」とくるものがある。リチャード・リンクレイター監督『ファーストフード・ネイション』(2006)では映画のラストで、超高電圧のスタンガンで屠殺され、皮をはがれ、巨大なかぎ爪に吊された牛の腹部から大量の臓物が滝のようにふきだす、「足首まで血に浸かる」といわれる「内蔵選別ライン」の映像がまっている。
あるいは「恐い」映画なら他にも山のようにあるだろう。レンタルビデオショップにいけば専門のコーナーが仕立てられていて、無数の「恐怖」がよりどりみどりだ。
恐い映画がすきなのは、日常に恐い場面が存在しないからこそ、映画でそれを仮想体験しようというのだろう。愛と夢と希望と冒険が実生活にないからこそ、われわれはそれらが詰め込まれた映画をみにいくように。
しかし、ハネケの恐怖はそれらとあきらかに一線を画している。ハネケの恐怖はわれわれの日常に根ざしたものだから怖いのである。人の首をちょん切ったり内臓を引き出したりなんてことを、われわれは実生活では絶対にしない。しかしわれわれは屠殺された「はず」の豚肉やベーコンや焼き豚を毎日のように食べている。通常、その「向こう側」は考えずにすましている。だが、ハネケは作品冒頭において、さっきあたなが食べた回鍋肉と、いまみている屠殺シーンをむすびつけてから映画を開幕させてくるのである。だからこのビデオ映像とわれわれの実生活は地続きである、という前提で、ベニーくんの凍り付いた日常が描写される。
主人公の中学生ベニーくんはビデオオタクである。自分で撮影した豚の屠殺映像をみるのがたのしみで、レンタルビデオ店ではB級映画(たぶん「悪魔の毒々モンスター」)を借りて楽しむプチブル中学生である。お父さんはインターコムのサラリーマン、お母さんは画商のような店を経営している。映画には出てこないが、姉は無限連鎖商法のようなビジネスをしているようだ。ベニーくんの部屋にはビデオデッキやモニターなどの高そうな機材がたくさんあり、モダンな部屋とあいまってまるで編集スタジオのようである。
夜遅くまでビデオをみつづける息子に母は「テレビに切り替えなさい」と注意する。ベニーくんがそうすると、テレビ画面にはコソボ空爆のニュース映像が流れる。のっけからハネケ節全開である。誰もが毎日食べている身近な豚の屠殺には神経を逆なでされるのに、おなじ人間が空爆により死んでいくニュースは、ベニーくんの母にとってもわれわれ観客にとっても「日常」なのだ。これはわれわれの倫理的無頓着の指摘のようでもあるが、逆を言うとそれだけベニーくんの「ビデオ」が怖いのだともいえる。この恐怖はどこからくるのかを考えたいのだが、さっきみた屠殺シーンの生々しさが忘れられず、さわやかに思考できない。いずれこの物語のなかで今度はたぶん人間がおなじように死ぬのだろうな、という想像が容易につくからだ。椅子の肘掛け部分でもクッションでもなんでもいいからずっと握ってないと、次の衝撃にたえられない気がしてくる。
が、しかしその後とくにそういう衝撃はこない。ここがハネケのプロットのすごいところである。見る者の緊張と緩和を完全にコントロールしている。ビデオを借り、返却し、学校にいき、友達と姉のネズミ講をまねた遊びをしたりするだけである。
ある日、ビデオ屋でよくみかける女の子に声をかける。かわいくもないし、かといってブスでもない、なんだかのぺっとした少女である。両親がでかけている家によびこみ、ビデオ機材をみせ、そのビデオで少女を写してみせたりする。中学生独特の空虚な会話と、「これほど美味くなさそうな食事シーンははじめて!」とビックリするピザの食事のあと、例の豚屠殺ビデオを自慢げにみせる。われわれがこれをみるのは2回目である。屠殺のときにくすねたピストルもあるんだといって少女にみせる。銀色の医療器具のような屠殺用ピストルがごろんとテーブルになげだされる。「弾だってあるよ」といってピストルに弾を込めてみせる。このあたりからみているのがつらい。ひとことでいうと、「恐い」のだ。「早送りしたい・・・」。いやむしろ、もうみるのやめたい・・・。
とうぜん少女は殺されるのだが、それはベニーくんのビデオが写すモニター映像越しにみることになる。豚なら2発で死んだのだろうが、おそろしいことに人間は2発でも死なない。悲鳴ともうめきともつかない叫びをあげて逃げ惑う少女の声だけがするなか、モニターの端っこにかすかに少女のものとおもわれる脚かなにかが動いているのが見える。「たのむよ、静かにして」といいながら、カメラの右手にあるはずの机に、追加の弾を込めに走ってもどるベニーくん。それが2度繰り返されて、ようやく少女は静かになる。
告白しよう。DVDであるのをいいことに、ボクはここで一時停止をしたと。恐怖映画への抗体が低めのボクではあるが、もう限界をふりきっていたのだ。恐怖映画ではないのに!

しかしほんとうに恐いのはこのあとである。
血だらけの死体をそのままにして、全裸になったベニーくんはかかってきた電話になんの興奮もなく受け答えをする。さらに死体をビデオで撮影し、それをクローゼットに隠し、ヨーグルトを食べ、クラブパーティーにいき、友達の家にとまり、翌日、散髪屋で丸坊主にして帰宅する。両親はもどっている。丸坊主のことを父にいやみったらしく注意される。父の小言はまったく的を射ていない。学校では問題をおこし、先生に注意されたあと校長室にはいかずそのまま帰宅してしまうベニーくん。少女殺害のビデオをみているところに両親が入っていくる。ベニーくんはビデオをとめることもなく、全員凍り付いたままビデオでは少女が2度目の恐怖の悲鳴をあげている。
両親はベニーくんにいくつか質問したあと、「眠れそうか」といってベニーくんを彼の部屋で寝かしつけようとする。母は「おなかぺこぺこだよ」という彼に夜食をつくってやるのである。さらに、夫婦は死体を切り刻んでトイレに流してしまう算段をする。緊張のあまり母は噴き出して笑ってしまう。泣いているのだろうが、笑みにしか見えない。こんなおそろしい密談はみたことがない。どのように始末するかを具体的に決めていきながら、死んだ少女への言及は完全にない。息子への叱責も逆上もない。さらに彼のしでかしたことを、両親がすべて片付けようというのだ。ハゲにしたぐらいであんなにくどくど小言をいっていたのに・・・。
この家には、家族が家族であるための、その中心となるはずのなにかが決定的に欠落している。現実の人間同士がかんじる距離に異常が生じている。生身の人間が死んだはずなのに、その後始末にのみ腐心する彼らのすがたは、われわれがニュースで戦争をみるのとおなじである。こんなにも「恐ろしい」人間はみたことがない。しかし、父も母も、そのどこにも異常なものを発見できないごく普通の善良な市民にしかみえない。
しかしこれは、そういった家族や人としての倫理観を問う映画なのだろうか。そうでないだろうし、そんな思想があるようにもみえない。映画の後半、母と息子はエジプトに旅行にいく。のこった父が死体を処理するためでもあり、息子にそれをみせないためでもある。処理のシーンがないかわり、母と息子の旅行はまたしても撮影されたビデオとして表現される。それは家族旅行の「ふり」をしている旅行である。たのしいバカンスを演じているバカンスである。われわれ観客はその裏で罪もない少女の遺体が切り刻まれてトイレに流されつつあるのを知っている。だからこの母子のバカンスがおそろしく空虚で欺瞞と偽りにみちたものであることも知っているのだ。この家族にとっても観客にとってももっとも重要であるはずの死体処理が写らないということは、なにか決定的な欠落が、ぽっかりと巨大な空間となってひろがっているようにかんじられる。その欠落は、豚肉ベーコンでいうところの屠殺である。テレビニュースでいうところの戦争で死ぬ人間である。逆にいうと、ベニーくんのこのバカンスは、その「向こう側」を一切たちきったわれわれの食卓であり、ニュース映像となった戦争であり、重要なその中心を欠落させた、制度としての家族であり、夫婦であるのだ。
ほんとうに恐いのは、首がちょんぎれたり内蔵がふきだしたりすることではなく、もしかするとわれわれの日常がそういった恐怖とかんたんにつながってしまう、その可能性なのかもしれない。と思うのであった。
あぁ、もうみたくない・・・。



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