信頼できない語り手 『このページを読む者に永遠の呪いあれ』『蜘蛛女のキス』ほか

ウンベルト・エーコの長編小説『薔薇の名前』の主人公バスカヴィルのウィリアムは、中世の閉鎖的な修道院でおこったおぞましい殺人事件を解くために、あらゆる手がかりをもとに犯人を探し当てようとする。ウィリアムは当初、殺人の方法と使われた凶器により、この殺人事件が旧約聖書の七つの大罪を模した犯行であると推理する。その推理の果てにたどり着いた、入室を禁じられた迷宮のような図書室でウィリアムはみごと真犯人と対峙することになる。
しかしウィリアムは、最初に推理した七つの大罪が自分の推理ミスであったことを真犯人に告白する。真犯人の方でもウィリアムが間違えた推理をしていることをしっており、その間違えた推理をさらにミスリードするためにウィリアムの打ちたてた仮説にのっとった犯行をしようと企てる。しかしミスがミスをよび、両者は最終的におなじ目的地にたどり着いてしまうのである。
『読んでいない本について堂々と語る方法』の著者ピエール・バイヤールは、そのなかで「一度間違えをおかした探偵の言うことが、二度目には絶対正しいといいきれるだろうか」と言っている。つまり探偵役のウィリアムはいまでも間違えた推理をしたままかもしれないし、真犯人の告白はもっと大事な秘密を隠蔽するための便宜上の肯定なのかもしれないのである。
ウンベルト・エーコのこの小説にはそう考えさせるだけの振り幅があるという結論でもいいのだが、そもそもウィリアムが間違えた道をたどって偶然に真犯人のもとにたどり着くというプロセスをわざわざ入れ込んでいるのには、エーコの技法上のたくらみをかんじる。
それがなんのたくらみかというと、一定の流れで終了してしまうような単純な構造から、物語そのものを救い出すためであると思われる。古典的なミステリー文学の体裁をとりながらも、通常であれば絶対的善で間違えをおかすことのない理性的な主人公に、決定的な亀裂をあたえることでこの物語は不完全なものとなる。ボルヘス的にいうと、円環をなす物語となっていく。主人公で探偵役でもあるウィリアムが根本において間違えていたのであれば、あの時のあの推理は正しかったのか、あの場面での描写はほんとうに正しく描写されていたのだろうか、ウィリアムが断定したあの台詞はいいかげんなものであったのではないか。つぎつぎとうかぶ疑問は、われわれをけっきょく再読へと誘う。さらにエーコは、ウィリアムそのものに物語を書かせず、物語を書きとめるためにワトソン役であるアドソという頼りないキャラクターを用意している。間違えていたかもしれないウィリアムの発言と行動を、それを正しかったのかどうか検証する能力さえなく、ウィリアムに「おまえの頭は豆粒みたいだ」とさえ言われるアドソが数十年後に手記にしたのである。しかも、そのころにはアドソは師の唯名論から離れて真逆の実念論を正しいと思うようになっている。師が生涯をかけた哲学論議を受け継いでさえいないのである。アドソの真摯な性格は疑いもないのだが、しかしこうなるともう、ほんとうはどのような事件が発生し、だれが真犯人であったのかは不明なままであると言わざるをえない。つまり、その結論も真実もふくめた状態で、物語は読者の前に投げだされているのである。
このように、作品に「無限の読み」という円環をあたえ、ポストモダン的な価値を作り出し、作者の手をはなれてもなお物語が物語そのものを生産し続け、読者を物語の内部に誘い込もうとする技法のひとつに、「信頼できない語り手」という概念がある。

『ロリータ』ウラジーミル・ナボコフ
話者がウソを言っているかもしれないと疑う状況で、読者はなにを信じたらいいと言うのだろうか。信頼できない人物が語り手の立場に立つことで、読者のもつ読書スキームはグラグラと徐々に崩壊しはじめるのである。
話者が事実描写において不安定であれば、物語は全くちがった様相を示しはじめることに、最初はドストエフスキーやゴーゴリといったロシアの作家が気づいた。そのロシア文学の流れで「信頼できない語り手」という概念を大きく飛躍させたもがウラジミール・ナボコフである。
彼のもっとも有名な作品『ロリータ』では、前思春期の少女を偏愛する教師ハンバート・ハンバートが、ロリータを手に入れるために結婚詐欺同然にその母親をだまくらかして入籍し、母の死後ロリータをなんとか自分のものとしようと画策する狂気の愛が語られる。しかしその物語は当の本人がロリータの婚約者を殺害した廉で入れられた刑務所のなかで書いた手記なのである。ロリータは被害者なのか悪魔なのか、ロリータの母親はほんとうに病死したのか、ハンバート・ハンバートはどこまでほんとうのことを書いているのか。

『アクロイド殺し』アガサ・クリスティー
ボルヘスは「20世紀の偉大な小説は、すべて探偵小説である」と言っている。この画期的な箴言の意味はここでは問わないとして、しかしナボコフが押し進めた「信頼できない語り手」という概念を一般にも理解できる「偉大な」成果として発表したのがアガサ・クリスティーであった。
アガサ・クリスティーの長編推理小説『アクロイド殺し』は、語り手という読者からすれば絶対的基盤であるはずの基本概念をくつがえすことで、推理小説のトリックをメタトリックとしてみせた画期的な小説である。笠井潔の言うように、トリックのそのもっとも大枠では、「フェラーズ夫人が亡くなったのは、6月16日から17日にかけての夜ーー木曜日の夜だった」という書き出しではじまる散文を、読者がそれまでの読書経験にもとづいて勝手に「これは一人称小説だ」と思い込むところにクリスティーのしかけたトリックがあるのだ。一人称小説でワトソン役を演じる狂言回しが犯人であるなら、全部ウソである可能性もある。それではフィクションの枠組みが崩壊してしまう。だからクリスティーは犯人の手記を手記とさとられずに、読者が手記を一人称小説であると思い込むような細工をほどこしたのである。メタ推理小説のようでもあるが、散文である以上その技法に頼らざるを得ない小説というジャンルに、クリスティーは大穴をあけたと考えてもいいのではないか。

『蜘蛛女のキス』マヌエル・プイグ
さらにその「信頼できない語り手」を発展させたのがマヌエル・プイグである。
1496年のアルゼンチンに樹立したフアン・ペロン独裁政権により、ボルヘスはそれまでのブエノスアイレス国立図書館の職を追われ、市外にある国営家畜場でのヒヨコおよびウサギの雌雄判別係に任命された。すでに作家の地位をかためつつあったボルヘスはただちに公務員の職を辞して失業者となる。母は国家への反逆罪として自宅軟禁となり、ボルヘス自身はすべての書き物を検閲され、外出時にはつねに秘密警察による尾行がつけられたという。
ボルヘスの他に、フアン・ペロンの独裁によりアルゼンチンが喪失した才能のもうひとつが、マヌエル・プイグである。プイグは学生のころから映画制作に興味をもち、留学先のイタリアチネチッタでデ・シーカなどの助監督をつとめた。しかしフアン・ペロン党と亡命先のスペインから帰国した第三次ペロン政権がおしすすめるコーポラティズム政策により、身の危険をかんじたプイグは亡命を余儀なくされる。
プイグの魅力は映画的な技法をそのまま小説という散文のなかに持ち込んだことにある。彼のあたまには、言葉のまえにまず「絵」があったのではないかと思われるのである。そのことをプイグ自身が知っていたのだろう。だから傑作と言われる『蜘蛛女のキス』においては風景はいうにおよばず、人物の風貌や表情、作中登場する小物、季節感、室内描写などの視覚による描写をまったくもって一切省略した実験的ともいえる技法をつかっている。自分の思考方法が映画的だからこそ、逆に視覚からくる描写を全部消し去って散文を組み立てようとしたのではないだろうか。それは映画における脚本がアイデアのもととなったのかもしれないし、舞台のト書きを消しさったあとにのこるものを探したのかもしれない。
なんにせよ、カギ括弧つきの言葉ばかりで構成された、つまり登場人物ふたりの会話文や手紙などの、描写のない文体でできあがった小説を読んでみると、まるで目をつぶって映画をみているような、得も言われぬ不安がわき上がってくる。もしかするとその不安は、目隠しして道を歩くような不安といってもいいかもしれない。ふだん気にもかけない風景や室内や人物の描写に、われわれ読者はこんなにもおおくの情報を得ており、その情報が物語の進行においてどれほどの安心感をうんでいるのかがわかるのである。

『このページを読む者に永遠の呪いあれ』マヌエル・プイグ
プイグにおいて「信頼できない語り手」の最たるものは『このページを読む者に永遠の呪いあれ』であると思う。『蜘蛛女のキス』をさらに先鋭化させたこの小説には、物語の最後に5、6枚の短い手紙が挿入される以外、すべてが登場人物ふたりの会話文でなりたっている。会話文がすべてであらゆる描写が省かれているだけでも極度の近視になったような気分なのに、会話をすすめる人物がひどく「信頼できない」ふたりなのである。ひとりはアルゼンチンから亡命した老人ラミーレスで、老人ホームに住まうこの孤独な男は精神障害をおこしており、なおかつ老人性痴呆のような記憶障害をもっているとおもわれる。もうひとりはラミーレスの車椅子を押して散歩につきそうアルバイトで日銭を稼ぐ失業者ラリイである。ラリイは大学講師の免許をもっているようだが働く場所がなく、ラミーレスにたいして個人的なことを極端に話したがらず、つねになにかを隠しているような、どこかゆがんだ思いをもつ人物にみえる。老人ラミーレスは精神障害からか本人のいうようにほんとに記憶が消えているのかはわからないが、生活や日常の基本的な事柄さえ知らないようで、そのたびにラリイに質問をしてくるのである。作品の冒頭からこの調子である。
「これはなんだ?」
「ワシントン広場です。ラミーレスさん」
「広場がわかるがワシントンがわからないな」
「ワシントンというのはアメリカの初代大統領の名前です」(・・・)
「うむ、よく分かった。ところでひとつ訊きたいんだが・・・ワシントンと言った時に、みんなはどんなふうに感じるんだ?」
「・・・」
「そきほど名前など気にすることはないと言ったが、それならほかに気にすることがあるのかね?」
こういったやりとりが延々とつづいていく。読んでいるとラミーレスのこのボケぶりはボケたふりをしているのではないかと思われてくる。なぜなら物語がすすむにつれて今度はラリイの方があやしくかんじられるからである。しかしさらに読み込むとやはりラミーレスの記憶はそうとう混乱しているのがわかる。昨晩見た夢と記憶をいっしょにしたり、白昼夢を現実と混同したりを平気で繰り返す。混同したり混乱したままラリイはあるときは適当に、あるときはイライラしながら受け答えをする。
そのなかに、ラリイが大学職員時代に妻とわかれたいきさつを語る場面や、ラミーレスの本当の過去を伝える場面などのひどく真摯な会話が挿入される。このあたりが物語の白眉か、と思って用意していると、こんどは真摯な場面がみごとに逆転する。たとえば、ラリイが海兵隊員としてベトナム戦争にいったとき、たまたま無実の民間人を撃ち殺してしまう話などである。ラミーレス老人は心配して訊ねる「その夜はどうだった、眠れたかね?」。するとラリイはその夜、鏡にうつったベトナム娘の尻をみながら愛撫される「最高の」サービスがあるサイゴンの娼家にいったのだと話すのである。ラミーレスがあまりに執拗にその娼家とベトナム娘のことを訊いてくるので、ラリイは「いまのは全部ウソです。ボクはアメリカからでたこともありません」と答える。しかしほどなくすると、記憶障害なのかラミーレスは「でもその娘は店一番の娼婦だったんだろう。それを上司に譲るなんてえらいな、ラリイ。もっとその娘のことを話してくれ」と執拗に質問してくるのである。もはやなにがほんとうなのかまったくもって信頼できないふたりなのである。
そのうちに、おぼろげながら事実とおもわれることが読者にもわかってくる。ラミーレスは自分が言うように受託金横領の無実の罪で刑務所にはいっていたのではないということ。それは、労働運動指導者としてアルゼンチン秘密警察に拘束され、過酷な拷問により精神を破壊され、挙げ句の果てには自宅ごと家族を爆死させられた男が、人権擁護団体の救済でアメリカに亡命してきていまこの老人ホームにいるということ。彼の唯一の遺産である4冊の本には無数の書き込みがあり、その一見意味不明な書き込みが実は暗号となっており、その暗号の謎をとき、アルゼンチンの労働運動弾圧とその指導者の研究を論文にし、かつて自分を疎外した大学に復帰しようと目論むのがラリイなのである。
疑いながらもそこまでようやく確証できたところでラミーレスの精神障害と記憶障害が重症になり、心をかよわせる寸前でいつも破綻したふたりの友情は、おたがいをひどく傷つける中傷と攻撃であっけなく幕切れとなってしまう。その直後、完全に混乱した精神でラリイをよびながらラミーレスは死ぬ。
最後にはほんの少し物語の真実をつかめる手がかりとして、ラミーレス死後、彼の監察官と病院との書簡が掲載されて終わりである。
読者は真っ暗な廊下を、精神障害と記憶障害をもつ痴呆の老人と、だれにも本心をあかさずにウソばかりで自分さえも騙しているねじくれた心の青年に両手をひかれて進んでいるような気分で終わるのである。出口に連れていくといわれていたはずであるが、目を開くとよくわからない風景にたっている。そこが目的の場所であったのかどうかも読者にはわからない。そんな読後感である。しかし、それ以上にどこかもの悲しいのである。最後までわかりあえなかったラミーレスとラリイと読者である自分を思って悲しいのである。たぶんそれは、プイグの書く会話文の洗練ゆえである。

「信頼できない語り手」もここまでくればもはやその「信頼できなさ」そのものがいとおしいのである。すぐれた名人芸だと思う。


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