今福龍太『身体としての書物』についての随筆

「メディアはメッセージである」という箴言で有名なカナダの社会学者マーシャル・マクルーハンは、メディアを身体の拡張として定義した。テレビは目の拡張であり、ラジオは耳の拡張であり、電話は音声と聴覚の拡張であると。総合的ではあるが、そういう意味で本は記憶の拡張である。だから記憶の集積した図書館は人類のメディアなのである。
ひとつの記憶が脳のひとつの場所に集まっているのではないと、最近の脳神経学者はいう。シナプスの電気信号が遠く離れた細胞どうしを結びつける関係性が、記憶であるというのだ。分散化し、クラスター化し、最近ではクラウド化しつづけるサーバと電子網は、まるで地球を覆う脳の拡張のようだ。
ボルヘスは、人間の道具がみな身体の拡張であるのに対し、本というものは脳・記憶の拡張であることから、本は通常人間が使用する道具とは根本において意味が違うのだと書いている。であれば、本は今福龍太のいうような「身体性」をもっているのだろうか。
まずもって書物は記憶の入れ物である。入れ物であるということは、言い換えれば器である。器は道具であり、だから書物は道具であるといえる。書物のもつ「厚さ」は強烈な身体性である。開始と終了をつなぐ読書という直線上のどの位置に自分がたっているのかをつねに意識しながら、われわれは本を読む。読書は、ものがたりや書かれた理論の終わりがいつくるのかを常に指先でかんじながら進行していくのである。人差し指と親指の距離がどのくらいであるのかによって、われわれはたとえば推理小説において作者の安易なミスリードを看破するのである。
ステファヌ・マラルメはこういっている。
「印刷された紙を折りたたむということは、ほとんど宗教的といえる行為である。だがそれ以上にすばらしいのは、紙の積み重ねが厚みを持つことで、まさに魂の小さな墓標をかたちづくることである」
記憶や魂がカタチを持たないことの、人間の不完全さに由来する事実にわれわれは悩まされてきた。だから書物のもつ身体性はわれわれにとって「墓標」であるとさえ感じられるのである。
また、書物のもつ身体性は「蔵書」というフェチズムにおいても顕著である。書棚のまえにたって背表紙をながめているだけでアイデアや理論がうかびあがると言う学者や作家がいる。視覚と言語機能の極端な接近が、書物どうしの関係性を触媒として思考をうみだすのである。ウンベルト・エーコはJ・C・カリエールとの対談においてこのような蔵書の効用を語っている。それは書店を歩きまわるだけでもおこりえることである。ここでは、視覚という身体性と、書物どうしの関係性が化学反応をおこしているのだ。
さらに、蔵書においてはその配架においても所有者の思想なり趣向が現れる。吉田兼好はきちんと高さのそろった本のならびは趣きがないと、その偉大な随筆『徒然草』のなかでいう。乱調の美学の問題はおいておくとしても、たしかに、書物をその製本の規格において分類するとは、身体性以前にその内容よりも物理的な外見を重視する無粋をかんじる。
禿頭のしがない一介の老人も、彼の偉大で圧倒的な蔵書の前でインタビューされれば、その映像は老人の個別の問題を超越した権威そのものの発言となるだろう。書物は禿頭をも凌駕する。身体性というよりも、書物が身体を補完するのだ。

レイ・ブラッドベリのSF『華氏451度』では、あらゆる思想や知識が書かれたすべての書物を焼く「ファイアマン」が登場する。彼らの全体主義国家が禁じているのは、知識というよりも書物の身体性である。人間の記憶を消すことはできないから、ひとつの社会から完全に切り離すことが可能な具象としての本を政府は焚書する。もし書物の記憶が指先に宿るのであれば、彼らのディストピアは国民全ての指先を切り落としたであろう。
ここがボルヘスのいう書物のもつ特殊性の一端をあらわしている。道具をとりあげられた大工は仕事を遂行することができないが、本という道具は出力した情報を再度入力することで利用者を別の立場、別の人格へと変更をくわえてその役目を終えることもできる。それが書物の道具でありメディアである理由である。このように端的な形で人に介在し、かつ利便性を保持したまま進化した発明を、ボクはしらない。
そもそも「リテラシー」とは書かれた文字をみて理解する能力のことである。その社会に共通する文字を読めることを大前提として、さらにその上でその文字の羅列が伝えようとする意味を理解できる能力の度合いのことである。だから映像はリテラシー以前に身体的であると言える。能動的な態度を必要とせず、リテラシーが問題にならず、意味は直接脳に送り届けられる。テレビにおいてはその傾向が顕著である。視聴者はつねに無批判な態度をもとめられる。だから、テレビの身体性は、そういう意味で性的である。情報が無意識の欲望と反応をおこすのである。フロイト的にいうと、電波受像機をとおしてわれわれはいわば「娯楽の夢」をみているのだ。
ブラッドベリが『華氏451度』で予言したのは、情報の遮断による管理社会ではない。反対にあのディストピアでは、人々はつねにイヤホンから音を聞き、すべての住宅に強制的に発光する映像モニターがしつらえられていたではないか。
書物の身体性はその反対に位置する。それは保存であり共有であるからだ。その身体性が書物のフェチズムをうみ、焚書をおこし、人類をさまざまな体験に導いてきた。どのような書物であろうと、自分において「身体としての書物」というものを問われれば、保存と共有、出力と入力を永遠に反復することで、閉じられた脳・記憶が世界とつながる循環のことであると回答する。その反復と循環がおこりえるのであれば、それが新しいかたちの電子書籍であろうと紙の書籍であろうと、そんなのは問題ではないのだ。

文化人類学者、今福龍太の『身体としての書物』を昨日買ってきて、そのようなことを考えた。買ったのは、ボルヘスの解釈が4章にわたって書かれているのをしったからだ。しかし、実をいうとまだ序章しか読んでいない。だから上記の内容はあてずっぽうである。着想を得たとすれば、書名と序章からのみである。だからこれは書評ではない。



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