原発のことは今、話したくないのだけど・・・
原発がトレンドのようである。とうぜんかもしれないが、世界中の関心があつまっている。
生来へそ曲がりなので、いまさら原発反対とみなが言いだしてもテンションが凹むだけである。どうしてそれをもっとはやく言わなかったのか。どうしてもっとはやくそれに気がつかなかったのか。と忸怩たる気分である。誤解をおそれずに言うと、むしろ東京電力などのインフラ会社や原子力保安委員会などの組織に対して、かつていかなる危機感も、いかなる警戒心もなかった者たちこそ、今、声高に東電を非難しているような気がする。信じていたからこそ裏切られたときの怒りは大きい、という理論である。信じていない人は意外とあっさりこういうだろう。「ほらみてみろ」と。
だから、原発にたいして今なにか意見をいうのはすごくためらってしまう。ためらってしまうのだが、しかしこんなにもいい映画が続けざまにかかると、いわずにはおれないのである。にわか原発評論ブームの影響で日の目をみた映画数本と、思い出す名画をすこし。
『100000年後の安全』マイケル・マドセン監督
前倒し上映だそうである。本来なら渋谷アップリンクで1、2週間上映されて終わっていたはずの映画である。地方の人間はその存在すらしらなかっただろう。それが全国48カ所で上映が決まったそうである。48倍である。トレンドとは恐ろしいものだ。
フィンランドのオルキルオトに建設中の最新鋭の核廃棄物最終処理場を取材したドキュメンタリー。核物質はその絞り滓でさえ10万年以上放射能を出し続ける。自分のした糞の始末を自分でつけられないヤツにもこまったものだが、その糞を捨てるトイレもない部屋で大食らいする計画のどこがエコロジーなのか。そもそもボクは「エコロジー」という語が大嫌いである。こんなにも気持ちの悪いキャッチコピーはみたことがない。CO2を減らしたいのか、石油依存から脱却したいのか、清貧生活をおくりたいのか、その真意がまったくみえてこない。われわれの生活スタイルが、イデオロギー対立とネオコン思想が多量に注入されたエコロジーである必要はない。われわれが目指すべきはサスティナブルである。無限に循環できることを目指すべきである。明日底をつくかもしれない石油に依存し、崩壊を前提とした投機が経済をささえ、捨てる場所さえない危険きわまりない廃棄物を大量にうみだす原子力をエコロジーととらえる、そんな恣意的なライフスタイルをあらためるためには、われわれはエコロジーではなくサスティナブルを目指すべきだ。サスティナブルでないライフスタイルの前では、CO2削減などとるに足らない些末な問題でしかない、と言い切ってしまおう。
自分でした糞の始末さえできない人間が、穴を掘って10万年後の未来に問題を先送りする。糞なら微生物が分解するだろう。だから糞はサスティナブルである。でも放射能を出し続けるウランの絞り滓はだれも分解しない。だからサスティナブルではない。未来から一方的に借りを作っているだけである。サン=テグジュペリの『星の王子様』で「仕事にんげん」の星にたちよった王子様は、「オレはちゃんとした人間なんだ」と連呼し星の数を数えて貯蓄する彼を見てこう思う。「すごい。それなりにかっこいい。でも、ぜんぜんちゃんとしてない!」。そういう気分である。
『六ヶ所村ラプソディー』兼仲ひとみ監督
2006年の上映時はほとんどすべて自主上映会というかたちであったのが、5年後のこんにちでは渋谷アップリンクをはじめ一般劇場で堂々と公開である。それよりも、5年前では「原発に反対するあたまのおかしな左翼」と捉えられていたのが、いまでは兼仲ひとみはヒーローである。いや、ヒロインか。もう一回いうが、トレンドとは恐ろしいものだ。
もう20年ちかく前になるが、日本原燃の運営する六ヶ所村の核燃料再処理施設を見にいったことがある。とうぜん中にはいれてもらえなかったが、無限かとおもわれるほど広い下北の平野をまっぷたつに縦断する厳重なフェンスのつらなりは、まるで沖縄の嘉手納やキャンプコートニーとおなじたたずまいであった。
そのフェンスを一歩こえれば日本の憲法が適用されない外国となり、そのなかには銃弾や地雷やライフル銃や戦車や戦闘機などの火器とそれにまつわる極秘情報がやまのようにあるアメリカ軍基地と、どうして日常使う燃料の再処理施設がおなじようなたたずまいであるのか理解に苦しんだものである。そんなに危険、もしくは秘密なのか。嘉手納やコートニーのフェンスのむこうには殺傷能力のある兵器がある。六ヶ所のフェンスのその先にはなにがあるというのだ。
『六ヶ所村ラプソディー』では賛成、反対、中立のそれぞれの意見がわかるようになっている。どちらかというと、「六ヶ所村の今」を知ることができる。
六ヶ所村で思い出すのは鎌田慧の『六ヶ所村の記録』である。本棚を探すと日やけした上下本がみつかった。売らずに置いててよかったー。
『六ヶ所村の記録』は1971年の出版ということもあって、「六ヶ所村に再処理施設ができる直前直後」のことがよくわかる。不動産屋が増え、村にいくと用地買収の人間と思われ、成金が青森のキャバレーで散財する60年代末の物語は、しかし今もなにかがかわったようには思えないのであった。
原発とは関係ないが、鎌田慧のこの本を読むと「ルポルタージュは足で書く」ということがよくわかるのが、オマケとしてついてくる。
『ストーカー』アンドレイ・タルコフスキー
『惑星ソラリス』につぐ、タルコフスキー2作目のSF映画である。
国家により完全封鎖され、一説によれば隕石が落下してできたともいわれる廃墟群「ゾーン」の中心部には、そこに入った者の望みがすべてかなう部屋があるという。
一人の作家と一人の科学者は、「ストーカー」とよばれるゾーンへの非合法案内人を雇い、その中心部をめざす。
国家による監視と想像を絶する不可解な現象による危険を乗りこえながら、彼らはゾーンのなりたち、人間の欲望、神への信仰といったことを話す。やがて目的の部屋にたどりついた3人は、その部屋を爆破しようとする科学者をなんとか思いとどまらせたあと、しかし結局だれもその部屋のなかにはいることなくゾーンをあとにする。
タルコフスキーは「ゾーン」を未来的なポストモダンとして描かなかった。それはまるで廃墟であり、かつて栄えていたものが衰退した没落のしるしとして描写した。この映画が上映されたのは1979年であるが、ゾーンのその光景と意味は、ソビエトの原発事故を知ったものからすればチェルノブイリの廃墟であり、その中心部にある部屋はまさしく原子炉容器であるようにみえる。
かつて存在した別のストーカーは、事故死した弟を生き返らせるためにその部屋に入った。しかし帰宅すると、彼をまっていたのは弟ではなく大量の札束であったそうだ。自分のこころのずっと奥深くにある欲望のほんとうの姿を知り、そのストーカーは自殺してしまう。ゾーンがチェルノブイリであるなら、われわれの欲望は、ほんとうのところなにをもとめているのだろうか。おなじく強烈な核廃絶を訴えた黒澤明の『生き物の記録』に触発されたともいうこの映画は、難解であるぶん逆に、鑑賞者のかかえる環境、時代、問題意識としなやかに呼応する振り幅をもっている。こんにちのわれわれがみると、それは福島にも、六ヶ所村にも見えるのであった。
超名画である。おなじタルコフスキーの『サクリファイス』とセットで見ると、無限の欲望をもつ人間が「核」という制御も消去もできないものを手にするとどうなるかがわかる。「核」というテーマで考えたとき、悲劇の直前(サクリファイス)と悲劇のあと(ストーカー)というように見てもたのしめる。
このように、にわか原発評論ブームははからずもマイナー作品に光をあて、時代に埋もれ行く名作を思い起こさせもする。わるいことではないのだろう。
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