投稿

『日本の作家が語るボルヘスとわたし』

イメージ
ボルヘスを直接語るのはなんだかコワイのである。『千夜一夜物語』や『ドン・キホーテ』を語るのはこわくはないのに、ボルヘスだと躊躇してしまう。 だからボルヘスの「周辺」をかたることでしか、(ボクは)ボルヘスを語れない。 だから明日、岩波書店から刊行される『日本の作家が語るボルヘスとわたし』を執筆する人はえらいと(ボクは)感じてしまう。よくボルヘスを語れたな、と。 『日本の作家が語るボルヘスとわたし』 http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/4/0247790.html 明日、買いに行こうっと。

レゴ・オリジナル・ミニロボット

イメージ
. ミニフィグが乗れて、なおかつなるべく小さいロボット、というお題で作成。この手の小型ロボットって、SF映画ではもううんざりするぐらい使われてますねー。『エイリアン3』とか『マトリクス3』とか『ガンヘッド』とか『第9地区』とか。無理だってわかってるのに、どうして二足歩行に憧れるんでしょうね、男子って。 前から。手は3本指。 後から。箱みたいなのはバックパック。

書かれたものは残り言われた言葉は飛び去る 『ボルヘス、オラル』『遠野物語』『平家物語』『千夜一夜物語』

イメージ
小学校のころ音読という国語の授業があった。もちろん今でもある。教科書に書かれた小説や詩を声に出して読むのであるが、これがなかなか厳しいもので、一字一句読みまちがえてはいけないのである。まちがえると、前にもどって訂正しつつ再読させられる。ひどいときなど数回読みまちがえると「立ってなさい!」と罰をうけたりする。なぜこんなに厳しいかというと、音読のもととなっているものが活字のテクストであるからだ。学校教育においては、テクストに書かれたことは絶対なのである。 人から聞いた話をまただれかにつたえるとき、最初の人の言い回しはほとんど無視される。話の筋や物語やオチが重要であって、筋をつたえるための語彙の選択やレトリックはこのさい関係ない。「山のようにおおきな鬼の影が、村をすっぽり包み込んでしまった」という話も、ひどい場合は「でっかい鬼が村にきた」とつたえても厳密にまちがいではない。まして訂正させられたり立たされたりするわけもない。なぜなら話者がもとにしているのは、文字ではなく話し言葉、耳から入る口頭の情報だからである。 ここが書き言葉(リテラシー)と話し言葉(オーラリティー)の違いである。 もともと文学とは口承の芸術であった。いや、文学だけではなく学問とはもともとすべて口頭でおこなわれていた。 ピタゴラスは膨大な数学的・物理学的・哲学的発見をしておきながら、一切文字に書き記すことをしなかった。はじめからピタゴラスは文字の効用を信じていなかったのだ。ピタゴラス教団においてすべては、口頭による伝承だけで受け継がれたのである。 そこにかの有名な言葉が生まれるようになった。ピタゴラス教団の師と弟子が議論をするとき、彼らは最後にこういうのである。「Magister dixit(師曰く)」。 これは議論の終了を意味する符丁でもあり、ピタゴラスという師の考えを反復する行為でもあり、実証的に正しいものを優先することでより真理に近づこうとする理論でもあった。ピタゴラス教団がかなりカルト的で謎めいていたこともあって、「ピタゴラスが言ったんだからそれ以上議論するべきではない」という妄信的な言葉であると思われていることが多いが、実際は真実だと決定できた事柄を同心円としてさらに論理を発展させるためのオープンエンドの言葉なのである。 ボルヘスは「知の伝承、伝達の絶対的...

記憶と記憶補助装置としてのノート

イメージ
スーザン・ソンタグは「ノートとは、全てを主題とするものにとって、完璧と言える文学形式である」という。だからノート、というか記録のための道具はいろいろと試してみた。 しかし気づいたのは、憶えたことをメモしてもなんの役にもたたないということである。メモすべきは「忘れる予定」の事柄にすべきだ。 そして、記憶には短期記憶と長期記憶があり、メモは短期記憶であるはずの事柄を長期記憶におきかえる儀式でもある。 さらにいうと、記憶をノートやデータベースに移し替えるということは、書いた内容をそっくりそのまま忘れてしまうということである。忘れても大丈夫だという安心感が必要なのだ。 しかし、書いた内容はすべて忘れてもよいのだが、それを書いたことは記憶しなければならない。「なんだか忘れたがたぶんソンタグにかんしてのメモしたよな」という漠然とした記憶である。ここは人間の得意な記憶で、比較的長期記憶になりやすい。 イギリスの詩人W・H・オーデンはこう言っている。 「自分の知っていることしか書くことはできない。ただし書いてみるまでは、自分がなにを知っているのかということも、知らないことのひとつである」 写真を撮るとは、フレームに収まらなかったその他すべてのものを「撮影しなかった」ということでもある。絵を描くとは、その絵の対象となったもの以外は「描かなかった」ということと同義である。憶えるとは、憶えた事柄以外のすべてを知らないということである。 だから記憶とは、そして記憶の補助装置としてのノートとは、書いた事柄以外は、すべて記憶していないし書いてもいないということである。 記憶を誇ってはいけない。どんな人間でも、ボルヘスの恐るべき短編に書かれたすべてを記憶するフネスのような人間になることは不可能だし、むしろそんな記憶に本質的な意味はない。 われわれが意識すべきは、記憶された事柄によって、かえって未知という空虚がわれわれの周囲に広がるという事実だ。ひとつを知ることによって、その他すべてを知らないということをわれわれは知るのである。 .

編集もまた創作である。『映画もまた編集である』『ヒッチコック 映画術』『真夜中の子供たち』『人間の条件』

イメージ
10年のあいだにブッカー賞を受賞した全作品のなかから、さらにそのなかの最優秀賞をあたえるという派手な企画、ブッカーオブブッカー賞を受賞したサルマン・ラシュディの代表作 『真夜中の子供たち』 は、執筆当初ラシュディの自伝的なリアリズム小説であった。できあがった原稿をよみかえし、ラシュディは彼に影響をあたえたマジックリアリズムの手法を大胆にとりいれ、内容を組み替え、当初書かれた分量の半分をけずって現在出版されているかたちにおちついたという。いちど創作されたものの手法を入れ替え、物語を組み替え、半分にダウンサイズするのは、もはや編集というよりも創作そのものにちかい。ちかいというか、編集と創作は不可分だからそもそもわけて考えることのほうがほんとはおかしい。もともとの原稿からは似ても似つかぬはずの(残念ながらラシュディの最初の原稿は残っていない)あの歴史的な作品がうまれてくるなら、むしろ『真夜中の子供たち』にとっては、後半の編集作業のほうが真の創作行為と言えるだろう。 が、現実は「芸術」といえば奇矯な発想とそれをとりまくインスピレーションのことばかりが話題になりがちである。俳句や川柳であればインスピレーションの重要度はそうとう高いだろうが、芸術ぜんぶがぜんぶインスピレーションによって発生するわけではないのである。 とくに日本人の芸術家像には、気むずかし屋で一瞬のインスピレーションを最重要視し、短時間の爆発的衝動によって芸術を遂行する、自然主義を信奉する、ヒゲ面で破滅的な芸術家の極端なステレオタイプが存在しているような気がする。西洋の戯画にみる「出っ歯の日本人」とさしてかわらぬこの偏見み満ちあふれた芸術家観は、つまるところ芸術家の創作行為と、われわれが日々こなす労働がまったく別のものだと思い込みたい一般人のロマンチックな欲求からでていると思う。芸術はコツコツと労働をしつづける徒労とは対局にあると、どうしてだか人々は考えようとする。そしてその代償として、芸術家に芸術家ならではの苦悩をあたえて満足する。 ユダヤ系アメリカ人の政治哲学者ハンナ・アーレントはその著書 『人間の条件』 において、人間の活動を3つに大別している。1.活動、2.仕事、3.労働、である。 「活動」は人間関係においておこなう行為である。これは平等で差異のない人間同士のあいだにおこることである。この行為によって...

サブリミナルの修辞学 『メディア・レイプ』ブライアン・キイ『映像の修辞学』ロラン・バルト

イメージ
サブリミナルの例 他の光源とくらべて、蛍光灯の光を「疲れる」という人がいる。よく聞く話である。なかには「チカチカしてる気がする」と表現する人もいる。インバーターでないかぎり、たしかに交流をつかう蛍光灯は電極の関係で1秒間に100〜120回ほど点滅をくりかえしている。これが「疲れる」原因であり「チカチカする」と感じる理由のひとつなのはまちがいなさそうである。 しかし理論上は1秒間に100回の点滅を知覚できる人はいないはずである。だから人間の知覚には、蛍光灯はつねに光っているように見える。それでも「つかれる」とか「チカチカしている」と人がいうのは、高速の点滅のように意識の閾値下でも環境やものごとを把握する能力があるということなのだろう。つまり知覚していることが、意識にのぼるすべてではないということである。 意識と潜在意識のこの能力に着目した表現方法がサブリミナルである。そのなかでもとくに有名なのはジェームズ・ヴィカリ博士が映画館でおこなった実験で、映画本編に非常に短いフレームレートでコカコーラの広告をはさむと、上映後のコーラの売り上げが18%だか20%だか伸びたという話である。 しかし、実はこれは眉唾もので、博士の発言以外にきちんとした論文にもなっていないし、そもそもこの実験そのものがおこなわれていなかったのではないかという指摘も多い。鈴木光太郎の著書『オオカミ少女はいなかった』には、オオカミ少女「アマラとカマラ」、「クレバー・ハンス錯誤」などとともに、歴史上にいくつも存在する心理学実験のデマであったと書かれている。 その後、研究室でなされたヴィカリ博士の同様の実験が予想していたほどの結果でなかったこともあり、閾値下の高速フレームレートが潜在意識と生体にどのような影響をあたえるのかはほんとうのところはよくわかっていないし、サブリミナルの恐怖は容易に人口に膾炙する、つまりゴシップになりやすいパラノイア的な要素を多分に含んでいることにも注目しておくべきだ。ただしいろいろな放送団体が自主規制しているように、視聴者の認識しえない部分においてメッセージを伝えるのはフェアでないことはたしかだろう。 メディアのなかの映像表現、とくに広告における表現に隠されたこのアンフェアさに鋭く切り込んだ書物といえば、やはりウィルソン・ブライアン・...

ラプンツェル考 『グリム童話集』『ピアニスト』『競売ナンバー49の叫び』

イメージ
男性優位社会の日本では、女性は「家庭」という箱に閉じ込められているという。家庭の秩序をまもることさえしていればいいという社会の圧力は、おのずと女性から性別を超えた個人の能力や価値観、はては権利と権利の行使の意識さえ徐々に剥奪していくことになるだろう。たしかに、日本の社会がかかえる問題のひとつに、女性から剥奪されるこれらの社会性と、男性側からみた女性の価値基準が齟齬をきたしていることがあげられる。 日本の男性の擁護をするわけでもないし、まして合コンで「得意な料理は肉じゃが」と答える女性にときめく志向もまったくないが、ただ、女性を「閉じ込める」傾向はなにも日本独自のものではない。 『グリム童話集』 古くは1812年にドイツで出版されたいわゆる『グリム童話』に集録されている「ラプンツェル」は、魔女に育てられた髪の長い少女が出入り口のない高い塔に幽閉される物語である。改訂ごとに性的な逸話は削除されていったようだが、1812年の第一版では夜な夜なラプンツェルの髪をつたって塔を這い上がる王子と性交渉をかさね、身重になって以前の服が入らなくなることで魔女に妊娠をさとられ長い髪を切られたうえに高い塔から放逐される物語が描かれている。「ラプンツェル」は、女性と「閉じ込め」が結合したもっとも有名な物語だろう。 その後、王子は魔女にだまされて両目を失明してしまう。何年も荒野を放浪したあと、双子を出産し育てていたラプンツェルの歌声を聞いて巡り会った王子は彼女の涙で視力を回復し、ふたりは幸せに暮らしたという。 改訂で削除されていったとはいえ、「ラプンツェル」には性的な隠喩がおおくふくまれている。そのもっともわかりやすいのがラプンツェルの幽閉されている場所が塔であることだ。上空にむかってそそり立つ塔のイメージは男性器そのままである。幽閉されるなら魔女の住居の地下や納屋でもよさそうだが、そういった空虚ではなくあくまでも人目につきやすい直立建造物そのものを幽閉場所とする設定の無理は、この隠喩の隠された意味の重要性をあらわしているからだ。 しかしここで思いつくのは、このラプンツェルの物語に「父性」を象徴する人物が一切登場しないことである。 『クレオール主義』今福龍太 コロンビア大学のジーン・フランコ教授は、彼女の論文『エスノセントリズムを超えて』のなかで「ラテンアメリ...

戦争報道のコンテキスト 『他者の苦痛へのまなざし』『ウィキリークス アサンジの戦争』

イメージ
ある女性タレントが近日公開される映画のプロモーションキャンペーンで雑誌社をまわる。雑誌のタイアップで映画の記事を書くかわりに、タレントが表紙を飾る。タイアップ先は女性ファッション誌もあり、なかには男性一般誌もある。だからおなじタレントが、おなじ月のまったくちがう雑誌に同時に登場することになる。それらがコンビニや書店にならぶと、ちょっと不思議な光景になる。 おなじタレントの顔がずらっとならんでいるのはまあいいとしても、女性ファッション誌では清楚でフェミニンなそのタレントが、週刊の男性一般誌ではなまめかしくエロティックな様相で表紙を飾っている。メイク、衣装、背景、照明など具体的な演出のちがいはおおいだろうが、その演出のちがいを生みださせているのは、雑誌購読者の視線のちがいである。視線のちがいにこたえるために、カメラマンや編集者はタレントの「意味」を変えるのである。視線によってこのように変わる「意味」を、われわれは「文脈(コンテキスト)」とよぶ。 文脈がちがえばおなじタレントでも「すてきな奥さん」にもなるし、トレンドセッターのOLにもなるし、コケティッシュな不倫女にもなるだろう。 「民族浄化」という恐ろしい言葉が一世を風靡したとき、ボスニア・ヘルツェゴビナではまったくおなじ一枚の写真が、セルビア、クロアチアの双方で利用された。(スーザン・ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』) それは爆撃された村に生きのこった子どもらの写真であるが、セルビアはその写真のキャプションに「クロアチアの爆撃で家族を失った子ども」と書き、クロアチアはその逆を書いた。ボスニア紛争によって、いかにメディアを上手く利用するかがその戦争の勝敗さえも決定するのだということがよくわかった。しかし驚くべきは、写真に付されたたった一行のキャプションによって、どんなに衝撃的な写真だろうとその意味を180度かえてしまうという、コンテキストのおそろしさである。そのようなコンテキストのおそろしさを知ってしまったら、もはやそこに写る悲惨な境遇の子どもが本当はセルビア人だったのかクロアチア人だったのかはもう関係がなくなってくる。もっと言うなら、コンテキストのからくりがばれてしまったあとでは、その子の悲惨な境遇もあまりたいしたものではないような醒めた気分になってくるのである。つまり写真のもつパワーがいっきょに失われるのである。...

原発報道の偏向と「アラブの春」

イメージ
震災とソーシャルメディア エジプト、リビア、イエメン、シリアに今年つぎつぎとおこった民主化運動、いわゆる「アラブの春」では、フェースブックとツイッターが大きな役割りをはたし、あらたな「人民のメディア」として注目が集まった。それはこの3月におこった東北大震災でもツイッターが安否情報などで威力を発揮したのと時期を同じくしている。その後、原発問題によってさらにツイッター、ユーチューブ、フェースブックなどのCGM、ソーシャルネットワークは注目されるようになった。有り体にいえば、民主化運動や震災によってソーシャルメディアは「株を上げた」のである。 正常化のバイアス 一方で株を急落させたのがテレビである。震災被害の第一報にかんしては速報性と網羅性でテレビの効用を見なおす動きがあったにもかかわらず結果的に「値を下げた」のは、その後に発生した原発問題の報道姿勢があったからだ。 「国民は冷静な対応を」「ただちに人体に影響のあるものではない」といったような、口の悪い人はそれを「大本営発表」と揶揄するテレビの報道姿勢は、むしろ大本営というようりも災害心理学でいう「正常化のバイアス」であるようにかんじられる。 通常、正常化のバイアスは災害に直面した個人におこる心理作用である。簡単にいうと、警報の鳴る音を聞いても「非難訓練かなにかだろう」と正常時に引きつけて結論づけてしまう心理のことだが、今回はテレビという巨大な組織がその罠に陥った。懸命に働くテレビ報道関係者には申し訳ないが、テレビの報道はジャーナリズムとしての指針を完璧に見失ってしまったように見える。未曾有の原発事故を前にして、政府を叩けばいいのか、国民の安全を考えればいいのか、事実だけを報道しつづければよいのかという、この信じられないぐらい難しい問題にたいして、「わが社はこの方向で行く」と決定できたテレビ局はおおくなかった。だからさまざまなバイアスのなかでもっとも国民のためになりそうだ、と予測しえた唯一の方向、つまり「事態はそれほど緊迫していない、だから国民は日常の暮らしをしていればいい」という「正常化のバイアス」を選んでしまったのだ。くしくもその姿勢が70年前の大本営と似てしまったのである。戦意を高揚するためには虚偽の発表は仕方がないという思考方法である。 「エリートパニック」 大本営発表も正常化のバイアス報道も決定的にまちがえて...

「現代思想 震災以後を生きるための50冊」

イメージ
1938年に発表された『嘔吐』は、サルトルの著作のなかでももっとも売れた作品である。サルトルの主著である哲学書『存在と無』の小説化であるとも言える『嘔吐』は当時、実存主義のバイブルとさえなり、サルトル本人は辞退したが、ノーベル賞の契機となった。 しかしその後、アンガージュマンの思想とソビエトへの偏向を強めていったサルトルはこう言う。 「飢えた子どもを前にして『嘔吐』は無力だ」 未曾有の被害を日本にもたらした今回の地震により、哲学者や文学者は思想的にさまよっている。「飢えた子どもを前に」している以上の過酷な現実に、思想や文学がなんの役にもたたないことを痛感しているのだろうか。思想や文学なんて衣食足りた閑人のすることである。サルトルの言うように、本なんて食べられないし、いくら読んでも金になるわけじゃない。 であるなら、知識人はみな政治に参加すべきだろうか。各人のおこないがすべて政治である必要があるのだろうか。 書店にいくとそういう悩みを抱えた人のための書籍が数多く売られている。雑誌「現代思想」も臨時増刊でその悩みに対応しようとしている。 「現状を乗りこえる」というよりも、むしろこのように過酷な現状を自分のなかに取り込み消化したいという欲求が、書店の「話題の本」コーナーに顕在化している。しかしよく見ると、そのすべてを読んだとしてもそのような欲求が解消されないのはわかるはずである。 『2012年 日本経済は破綻する』というタイトルの書籍の横に『日本復活のシナリオ』といった名前の本がならぶ。経済だけでも政治だけでもなく、原発問題をふくむあらゆるジャンルで、矛盾し相反する書籍が同時に売られ、同時に購入されていく。むしろ、3・11以降の日本の迷走と混迷がそのまま書棚に表現されているだけのようにかんじられる。「現代思想」臨時増刊「震災以後を生きるための50冊」という特集で渋谷慶一郎がこう書いている。 「これがきっかけで読む本が全部原発に関するものになったりするのはどうかしていると思います。いままでやってきたことを否定しても現状にコミットする戦力になりえないですよね」  『つづきをやればいい』 「現代思想」7月臨時増刊号 そういうことである。地震から4ヶ月たっても3・11を乗りこえる思想をわれわれが持ちえないのは、必死になっていままでの自己の否定をしている...

5冊でじゅうぶん 『砂の本』ボルヘス

イメージ
ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編『疲れた男のユートピア』で、主人公の男は一種のタイムスリップをする。平原のかなたに見える家をたずねると、ひどく背の高くどの言語も通じない男が出むかえる。彼は、唯一話すことのできるラテン語で「言語の多様性は、民族はもちろん、戦争の多様性さえ助長します。それゆえ、世界はラテン語にもどったのです」という。「過去については、まだいくつかの名前が残っているが、言語はそれを失いかけている。われわれは無用の細部を回避します。年代も歴史もない。統計もありません」という遠い未来で、彼は主人公が控えめに自慢する2000冊の蔵書を笑う。「2000冊もの本を読める者はいません。わたしも、今まで生きてきた4世紀のあいだに、半ダースの本も読んでいません」。 そして、「大事なのは、ただ読むことではなく、くり返し読むことなのです。今はもうなくなったが、印刷は、人間の最大の悪のひとつでした。なぜなら、それは、いりもしない本をどんどん増やし、あげくのはてに、目をくらませるだけだからです」という。 ケベードの書く「ありもしない場所」というギリシャ語から由来するユートピアを夢想したこの短編は、ボルヘスの戯れのようでもあり、高級な皮肉のようでもある。 しかし、2000冊の蔵書は身につまされる話題でもある。はるか未来の男とちがって、われわれ現代人は読書という人生に有益であるはずの行為を評価する尺度を、数で計測する以外にもっていないのである。 知の殿堂であるはずの図書館でさえ今ではその蔵書数を誇る世の中で、人によって天と地ほどもかわるはずの「読書の質」を、いったいどうやって評価すべきなのかわれわれは知らないし、読書をメディア鑑賞としてとらえられる世界を変革する方法もわからない。 本質だろうと些事であろうと、数のみが評価軸となるのである。 だから多読が読者のもっとも誇れる武器となる。膨大な蔵書が知識の鏡なのである。それがわかっているから蔵書用のいかめしい装幀の「世界文学全集」といった読むためというよりも書斎を飾るための高額な本が売れたりする。 ほんとうに重要な本は、人生にせいぜい4、5冊出会うか出会わないかといったところだろう。あとは、その本と出会うための試練というか、むしろ重要な本にたどり着くのを阻止する目くらましの経済原則であり、「版」という超低コストで再生産可能な商品販売...

今福龍太『身体としての書物』についての随筆

イメージ
「メディアはメッセージである」という箴言で有名なカナダの社会学者マーシャル・マクルーハンは、メディアを身体の拡張として定義した。テレビは目の拡張であり、ラジオは耳の拡張であり、電話は音声と聴覚の拡張であると。総合的ではあるが、そういう意味で本は記憶の拡張である。だから記憶の集積した図書館は人類のメディアなのである。 ひとつの記憶が脳のひとつの場所に集まっているのではないと、最近の脳神経学者はいう。シナプスの電気信号が遠く離れた細胞どうしを結びつける関係性が、記憶であるというのだ。分散化し、クラスター化し、最近ではクラウド化しつづけるサーバと電子網は、まるで地球を覆う脳の拡張のようだ。 ボルヘスは、人間の道具がみな身体の拡張であるのに対し、本というものは脳・記憶の拡張であることから、本は通常人間が使用する道具とは根本において意味が違うのだと書いている。であれば、本は今福龍太のいうような「身体性」をもっているのだろうか。 まずもって書物は記憶の入れ物である。入れ物であるということは、言い換えれば器である。器は道具であり、だから書物は道具であるといえる。書物のもつ「厚さ」は強烈な身体性である。開始と終了をつなぐ読書という直線上のどの位置に自分がたっているのかをつねに意識しながら、われわれは本を読む。読書は、ものがたりや書かれた理論の終わりがいつくるのかを常に指先でかんじながら進行していくのである。人差し指と親指の距離がどのくらいであるのかによって、われわれはたとえば推理小説において作者の安易なミスリードを看破するのである。 ステファヌ・マラルメはこういっている。 「印刷された紙を折りたたむということは、ほとんど宗教的といえる行為である。だがそれ以上にすばらしいのは、紙の積み重ねが厚みを持つことで、まさに魂の小さな墓標をかたちづくることである」 記憶や魂がカタチを持たないことの、人間の不完全さに由来する事実にわれわれは悩まされてきた。だから書物のもつ身体性はわれわれにとって「墓標」であるとさえ感じられるのである。 また、書物のもつ身体性は「蔵書」というフェチズムにおいても顕著である。書棚のまえにたって背表紙をながめているだけでアイデアや理論がうかびあがると言う学者や作家がいる。視覚と言語機能の極端な接近が、書物どうしの関係性を触媒として思考をうみだすのである。...

『SUPER 8』と『ミツバチのささやき』と『極私的エロス』

イメージ
テレビへの愛を語るテレビ番組はあまりないが、映画への愛を語る映画はおおい。書物への愛を語る小説もあるにはあるが、あまり一般的ではないものがおおい。映画は愛されるメディアなのだろう。古くから映画そのものがモチーフとなった映画がたくさんつくられた。それがちゃんとヒットしたり、メジャー作品であったりするから、どれだけ愛されているかわかるというものだ。 『SUPER 8』 J・J・エイブラムス監督『SUPER 8』をみた。全編、映画への愛満載であった。「映画への愛」というよりも、「スピルバーグ的な映画への愛」といったほうがいいだろうか。映画そのものがすでにしてスピルバーグへのオマージュとなっている。 主人公たちが熱中しているのは8ミリカメラによる映画撮影である。8ミリであることを強調したかったのか、あるいは監督自身の子どものころを時代背景としたかったのか、映画の舞台は1979年である。主人公ジョー少年となかまたちはゾンビ映画を撮影している。こどもたちの個性付けは笑ってしまうほどのステレオタイプである。メガネ、デブ、ガリ勉、出っ歯、それに美しいヒロインの少女と気弱な主人公。『グーニーズ』のようでもある。またその少年らの名前が往年の映画人たちからとられているのもわかりやすい。 映画撮影の最中にアメリカ軍の列車が脱線事故をおこし、その中から「なにか」が逃げ出す。それを目撃した少年らは軍隊に狙われることになる。が、ここでストーリーを語ってもしかたないのである。『E.T.』をみたひとならこの映画のストーリーを聞く必要はないだろう。 オチで飛び立つ宇宙船の輝きは『未知との遭遇』である。その他にも、監督が影響をうけたとおぼしき映画への「愛」が、この映画にはつめこまれている。それらをひとつずつ取り上げていっても、それも意味のあることではない。目的が映画への愛であるのだから、ディテールも映画への愛にあふれているのはあたりまえのことである。 さらに、エンドロールで子どもたちの撮影したゾンビ映画がながれる。だれかが言っていたが、2時間のメイキングをみたあとに、3分間の本編がはじまるのである。にくい演出である。願わくば、この映画をみた子どもたちのなかから、次のエイブラムスやスピルバーグが育つように、といったメタ鑑賞も含まれているのだ。 物語は予定調和であり、現状をのりこえるちからも...

陰謀とパラノイア 『競売ナンバー49の叫び』『フーコーの振り子』

イメージ
「漢字Talk」のころの古いマッキントッシュに「Kilroy」というフリーソフトがあった。インストールするとファインダーのウィンドウ上部から、みしらぬおじさんがその大きな鼻をウィンドウのこちら側に垂らしてマウスのあるほうをじろじろ見るという、なんの役にもたたないネタソフトである。ウィンドウの前面に干渉する当時としては比較的高度な技術とその不気味だが愛嬌のある動きが、フリーということもあってかなり流行った。 その「Kilroy」のもとになったものが、かつてはアメリカ海軍で都市伝説とまでなった落書き「キルロイ」である。キルロイは壁の向こうから長い鼻を垂らしてこちらをのぞき込む人物の落書きのことである。その発祥には諸説あるが、大概の説に共通するのは、第二次世界大戦に生まれたこと、通常一般兵士が立ち入ることのできない区域の壁や、艦船や潜水艦内部の手の届かないところにまでそれが描かれていたということ、ベトナムのジャングルの奥地や、地中から掘り出した不発弾にもキルロイの落書きがあったということで、海軍兵士を中心に一挙に噂がひろまり、それをまねるものが続出した。 アメリカの作家トマス・ピンチョンは、長編小説『V.』のなかでキルロイ発祥の自説を語っている。それによるとキルロイはバンドパスフィルタ回路図がもとになっているという。『V.』主人公のベニー・プロフェインが軍人だったころはまだキルロイは現役の流行をつづけており、それはどこにでも出没する謎の徴(しるし)だったのだ。 おなじ徴をたてつづけにみるとたしかになんでも気になってくる。ボクははじめてSTUSSYのロゴをみたとき、その抽象グラフィティ的なロゴの読みにくさと目撃する頻度の絶妙さからあれはいったいなんなのだと非常に気になったものである。流行のはじまりとはそういうもので、それが南カリフォルニア発祥のサーファーアパレルブランドだとわかるとひと安心し、むしろ謎を振りまく「こっち側」の人間になろうとする。 ブランドロゴでさえ気になるのであれば、キルロイを原子力潜水艦の原子炉隔壁の内側に発見した当初の人間の驚きと恐怖はどれほどであったろうか。造船所の検査員が、検査済みリベットにその印としてマークしたものだという説を聞くまでは、ひどいものだと宇宙人の仕業だとかスパイの暗号だとか超自然的な符号であるとかいうような荒唐無稽な説になび...

信頼できない語り手 『このページを読む者に永遠の呪いあれ』『蜘蛛女のキス』ほか

イメージ
ウンベルト・エーコの長編小説『薔薇の名前』の主人公バスカヴィルのウィリアムは、中世の閉鎖的な修道院でおこったおぞましい殺人事件を解くために、あらゆる手がかりをもとに犯人を探し当てようとする。ウィリアムは当初、殺人の方法と使われた凶器により、この殺人事件が旧約聖書の七つの大罪を模した犯行であると推理する。その推理の果てにたどり着いた、入室を禁じられた迷宮のような図書室でウィリアムはみごと真犯人と対峙することになる。 しかしウィリアムは、最初に推理した七つの大罪が自分の推理ミスであったことを真犯人に告白する。真犯人の方でもウィリアムが間違えた推理をしていることをしっており、その間違えた推理をさらにミスリードするためにウィリアムの打ちたてた仮説にのっとった犯行をしようと企てる。しかしミスがミスをよび、両者は最終的におなじ目的地にたどり着いてしまうのである。 『読んでいない本について堂々と語る方法』の著者ピエール・バイヤールは、そのなかで「一度間違えをおかした探偵の言うことが、二度目には絶対正しいといいきれるだろうか」と言っている。つまり探偵役のウィリアムはいまでも間違えた推理をしたままかもしれないし、真犯人の告白はもっと大事な秘密を隠蔽するための便宜上の肯定なのかもしれないのである。 ウンベルト・エーコのこの小説にはそう考えさせるだけの振り幅があるという結論でもいいのだが、そもそもウィリアムが間違えた道をたどって偶然に真犯人のもとにたどり着くというプロセスをわざわざ入れ込んでいるのには、エーコの技法上のたくらみをかんじる。 それがなんのたくらみかというと、一定の流れで終了してしまうような単純な構造から、物語そのものを救い出すためであると思われる。古典的なミステリー文学の体裁をとりながらも、通常であれば絶対的善で間違えをおかすことのない理性的な主人公に、決定的な亀裂をあたえることでこの物語は不完全なものとなる。ボルヘス的にいうと、円環をなす物語となっていく。主人公で探偵役でもあるウィリアムが根本において間違えていたのであれば、あの時のあの推理は正しかったのか、あの場面での描写はほんとうに正しく描写されていたのだろうか、ウィリアムが断定したあの台詞はいいかげんなものであったのではないか。つぎつぎとうかぶ疑問は、われわれをけっきょく再読へと誘う。さらにエーコは、ウィリア...