サブリミナルの修辞学 『メディア・レイプ』ブライアン・キイ『映像の修辞学』ロラン・バルト
サブリミナルの例 |
他の光源とくらべて、蛍光灯の光を「疲れる」という人がいる。よく聞く話である。なかには「チカチカしてる気がする」と表現する人もいる。インバーターでないかぎり、たしかに交流をつかう蛍光灯は電極の関係で1秒間に100〜120回ほど点滅をくりかえしている。これが「疲れる」原因であり「チカチカする」と感じる理由のひとつなのはまちがいなさそうである。
しかし理論上は1秒間に100回の点滅を知覚できる人はいないはずである。だから人間の知覚には、蛍光灯はつねに光っているように見える。それでも「つかれる」とか「チカチカしている」と人がいうのは、高速の点滅のように意識の閾値下でも環境やものごとを把握する能力があるということなのだろう。つまり知覚していることが、意識にのぼるすべてではないということである。
意識と潜在意識のこの能力に着目した表現方法がサブリミナルである。そのなかでもとくに有名なのはジェームズ・ヴィカリ博士が映画館でおこなった実験で、映画本編に非常に短いフレームレートでコカコーラの広告をはさむと、上映後のコーラの売り上げが18%だか20%だか伸びたという話である。
その後、研究室でなされたヴィカリ博士の同様の実験が予想していたほどの結果でなかったこともあり、閾値下の高速フレームレートが潜在意識と生体にどのような影響をあたえるのかはほんとうのところはよくわかっていないし、サブリミナルの恐怖は容易に人口に膾炙する、つまりゴシップになりやすいパラノイア的な要素を多分に含んでいることにも注目しておくべきだ。ただしいろいろな放送団体が自主規制しているように、視聴者の認識しえない部分においてメッセージを伝えるのはフェアでないことはたしかだろう。
『メディア・レイプ』では、グラスの中で溶けた氷がえがく髑髏の模様、「SEX」とよめる花の絵、男性器を抱えるようにみえる女性モデル、女装した男性のヌードグラビアを読者がそれと気づかないよう掲載する男性月刊誌などの豊富な事例をつぎつぎと開示する。ウィルソン・ブライアン・キイはこういう。
ただイエスとノー、真と偽、あるいは正と誤という答えしかないような問いは、人間の知性とは無縁な言語を構成する。それらは単純素朴な人々に対して仕掛けられた罠なのだ。言語的に構成されたジレンマはほんとうのジレンマではない。たんなる操作にすぎず、通常それにコミットするものがすべて敗北するようにできている。ジレンマを作り出したものが勝つのだ。彼らがコントロールする広告とメディアの内容には、こうした偽のジレンマがぎっしり詰め込まれている。この350ページ強の短くない書籍『メディア・レイプ』を読むと、われわれがおかれているメディアの状況が、いかに強権的で秘密主義的なものであり、またそのサブリミナルコントロールから消費者は容易に逃れられるものではないのだということがわかってきて戦慄する。また一方で、われわれの潜在意識のほぼ大部分が、「性」と「死」に対して極度に敏感に反応することも思い知るだろう。
だが、逆を言うとそのようなサブリミナルコントロールを含んだ広告がわれわれの生活に「紛れこんでいる」と不安になる必要はないのである。なぜならそもそも広告表現というものに、読者・視聴者を消費に結びつけるという確固たる目的と方法論を持たないものなど存在しないからである。ブライアン・キイが例証した広告の事例は、つまり「やりすぎた」だけだ。
アメリカの雑誌「Restaurants & Institutions」は、サンフランシスコ州立大学講師シビル・ヤンがレストランのメニューから価格につく$マークを外すだけで売り上げが8.15%も高くなったという研究結果を掲載している。ヤンは「ドルマークは、客の意識のなかにお金というイメージを呼び起こしてしまうのです」という。またメニュー上部のキャッチコピー要素を多くすればするほど価格が意識されなくなりより高額で粗利の高い料理を選んでくれるという。(CURRiER Japon 10月号)
このような消費者をちょっとした混乱に陥れ消費に誘う表現手法は、ほぼすべての「よくできた」広告において見つけることができる。むしろこの努力を怠っている店や企業はサービスや品質などのその他の面においても劣っていると、消費者自らが判断するような時代である。清涼飲料水を飲んだタレントの不気味なほどの笑顔、消臭剤を使用した部屋の異常なほどの清潔さ、女性タレントの性的な魅力を見事に商品に転換するカット割、買わなければ疎外されると言わんばかりの主婦むけCMの脅迫の演出など、われわれはもうこんな広告表現には慣れっこになってしまっている。
しかしもっと広い範囲で考えたときに見えてくるのが、映像というものがもつ「意味」の理論である。それはまるでわれわれが文章を組み立てるように映像の意味と文脈を組み立てる。フランスの哲学者・記号論学者のロラン・バルトはそれを「イメージの修辞学」と読んだ。ロラン・バルトは書く。
本来の意味でのイメージにおいて字義的メッセージと象徴的メッセージの区別は操作的なものである。純粋な状態での字義的メッセージには(少なくとも広告では)決してお目にかかることはない。完全に≪素朴な≫イメージを作り上げたとしても、それはただちに素朴さという記号と結びついてしまって、第三の象徴的メッセージで補完されてしまうだろう。
リュミエール『列車の到着』 |
動画という技術的驚きをべつにすれば、映画はそもそも演劇の代用品という認識しかなかった。役者は固定されたカメラ前で演技し歌い踊ったのだ。世界初と言われる『列車の到着』で、リュミエール兄弟は駅のプラットフォームにカメラを据え置いて到着する機関車の映像を撮影した。そこに写っているのは列車の到着という日常的に目にする事実の再描写でしかなかった。その後、だれかが機関車の車両にカメラを乗せて前方に進む風景を撮影した(J・C・カリエール)。だれのものでもない無人称的な事実だけを描写していたカメラが、このときを境にだれかの視線となり、映画は文法を、文脈を、修辞を手に入れたのだ。
映画といわず映像はすべて、修辞の進化の歴史である。文字がそうであるように、映像もその修辞学を時代にあわせて進化させていく。その進化の過程で、たまに倫理的セオリーを踏み外す技術も発明された。サブリミナルがそのひとつのだろう。だからサブリミナルそのものは恐るべき方法ではない。消費者を裏切るということの他は、凡百の技術である。
ロラン・バルトはこうも言っている。「イメージは意味の極限である」と。意味をもたないイメージは存在しない。またわれわれはメディアを通して事実そのものを知ることはできない。われわれが知るのはつねに送り手側の「意味」であり、意味を合成する映像の修辞なのである。
だからわれわれはあたえられるイメージにたいして「読み解く」という作業をしなくてはならない。読み解くことを拒否するイメージにたいしても、である。読み解くことで、イメージとしてあたえられた意味のむこうに、また別の意味をもつことができる。ただしその第二の意味が本来のものであるというのではない。あたえられた意味と読み解く意味との差異にもとづく関係性、つまり第三のイメージをもつことこそが、われわれがメディアを利用する本来の理由であるはずなのだ。
そして読み解く作業をメディア自らもとめつづけるイメージこそが、表現や芸術とよばれる行為であり、われわれの読み解く作業を拒否するイメージは、すべて広告と呼ぶべきなのである。
ボクの考える表現にかんする二元論はこのようなものであり、そう思いながら芸術と広告を日々みている。個人的にはいわゆる「芸術」とよばれるものよりも、サブリミナルコントロールまでしようとする広告の方がおもしろいと思っているのであるが・・・。