ラプンツェル考 『グリム童話集』『ピアニスト』『競売ナンバー49の叫び』

男性優位社会の日本では、女性は「家庭」という箱に閉じ込められているという。家庭の秩序をまもることさえしていればいいという社会の圧力は、おのずと女性から性別を超えた個人の能力や価値観、はては権利と権利の行使の意識さえ徐々に剥奪していくことになるだろう。たしかに、日本の社会がかかえる問題のひとつに、女性から剥奪されるこれらの社会性と、男性側からみた女性の価値基準が齟齬をきたしていることがあげられる。
日本の男性の擁護をするわけでもないし、まして合コンで「得意な料理は肉じゃが」と答える女性にときめく志向もまったくないが、ただ、女性を「閉じ込める」傾向はなにも日本独自のものではない。

『グリム童話集』
古くは1812年にドイツで出版されたいわゆる『グリム童話』に集録されている「ラプンツェル」は、魔女に育てられた髪の長い少女が出入り口のない高い塔に幽閉される物語である。改訂ごとに性的な逸話は削除されていったようだが、1812年の第一版では夜な夜なラプンツェルの髪をつたって塔を這い上がる王子と性交渉をかさね、身重になって以前の服が入らなくなることで魔女に妊娠をさとられ長い髪を切られたうえに高い塔から放逐される物語が描かれている。「ラプンツェル」は、女性と「閉じ込め」が結合したもっとも有名な物語だろう。
その後、王子は魔女にだまされて両目を失明してしまう。何年も荒野を放浪したあと、双子を出産し育てていたラプンツェルの歌声を聞いて巡り会った王子は彼女の涙で視力を回復し、ふたりは幸せに暮らしたという。
改訂で削除されていったとはいえ、「ラプンツェル」には性的な隠喩がおおくふくまれている。そのもっともわかりやすいのがラプンツェルの幽閉されている場所が塔であることだ。上空にむかってそそり立つ塔のイメージは男性器そのままである。幽閉されるなら魔女の住居の地下や納屋でもよさそうだが、そういった空虚ではなくあくまでも人目につきやすい直立建造物そのものを幽閉場所とする設定の無理は、この隠喩の隠された意味の重要性をあらわしているからだ。
しかしここで思いつくのは、このラプンツェルの物語に「父性」を象徴する人物が一切登場しないことである。

『クレオール主義』今福龍太
コロンビア大学のジーン・フランコ教授は、彼女の論文『エスノセントリズムを超えて』のなかで「ラテンアメリカ社会における女性の従属的立場は、女性をもっぱらプライヴェートな空間にきびしく封じ込めることによって成立した」と主張している。(今福龍太『クレオール主義』)
「プライヴェートな空間」は3つの位相によって成立している。第一に「母性」、第二に処女性をあらわす「尼僧」、第三に母親でも処女でもない「娼婦」という存在であるという。もちろん家屋といった物理的空間からの「監禁」も存在した。もっと巨視的には土地といった概念も存在しただろう。
南米コロンビアの作家ホセ・エウスタシオ・リベラの『渦』という作品では、混血の女に白人の男が生まれと血筋を問いかける。生まれはこの大地だという答えのあと、男は続けざまにそのクレオールの息子に質問をする。
「きみの父親はだれ?」
「ママが知ってるよ」
すると母親は言った。
「息子よ、なにより大事なのは、おまえが生まれたってことだよ」
祖国や父性、血筋や来歴を執拗に気にする白人男性と、自分の生きる大地そのものと息子の生そのものを重要視するムラータ(混血女)との会話には、決定的な乖離が存在する。
土地そのものはおおくの言語で女性名詞であるように、大地は母の象徴でもある。しかしいったんその所有を宣言し、区分けされ、名をあたえられた大地は「土地」となり、それらを仕事とする男性たちのものとなる。「すなわち白人の男にとって、祖国とは父親の存在によってその正統性をあたえられているようななにかなのである」と今福龍太は言う。
ラプンツェルの物語に父性が出てこないのは、ラプンツェルを処女性という位相に封じ込めているものが、環境、社会、風土、それらの原理そのものであるからだ。だから原理そのものの平原に垂直にそそり立つ男性器がラプンツェルを監禁し、王子の侵入を拒むのだ。

『塔の上のラプンツェル』バイロン・ハワード
そのあたりを考慮して、ディズニーはこの「ラプンツェル」を下敷きにした記念すべき50作目の映画『塔の上のラプンツェル』の設定にいくつかの重要な変更をくわえている。
まず庶民の子だったラプンツェルを王女にし、王子であった相手役を一般庶民の階層にしている。自分が王女であることをしらない女性へと、ディズニーお得意の「プリンセス物語」に変貌させているのである。また、原作ではラプンツェルの両親に非があった物語の発生理由を、魔女(ゴーテル)の責任に帰すことでわかりやすい勧善懲悪とし、なによりもラプンツェルその人が能動的に動き、悩み、状況を打破していく現代風の女子にアレンジされていることである。だからディズニー版ラプンツェルでは、あくまでもラプンツェルは「出生の事実をしらされていないどこにでもいる少女」であって、性的な意味での「閉じ込められた状況」は一切ふれられていないし、その人格形成に多大な影響を与えたであろうはずの特殊性への言及もない。
むしろ、その特殊性は受動でしか享受できない王女という社会からあたえられたヒエラルキーにあるようだ。つまりここでは、ラプンツェルの真の幸せは、これからなにをしてもいいし何にでもなれるという解放そのものにあるのではなく、家族も血族も地位も権力も富も確実に担保された社会性のある閉鎖状況に帰るということである。そこがディズニーの考える「女性の幸福」であるだろうし、ディズニーのすぐれたマーケティングによる映画鑑賞者の最大公約数的な落としどころでもあるのだろう。

『ピアニスト』ミヒャエル・ハネケ
ノーベル賞作家エルフリーデ・イェリネクの原作を映画化したミヒャエル・ハネケ監督の『ピアニスト』で、主人公エリカはまるで魔女のような母親とふたり住まいである。ウィーン音楽大学のピアノ教師であるエリカは、ゾッとするほど過保護・過干渉の母親の影響力に辟易しながらも、彼女の呪縛から逃れることもできないし、いつも最後には母親にたいする自身の異常な愛情に屈してしまう。認識論的には完全に閉じられた空間で、エリカの性的な欲求は、過干渉の母親へのストレスをエネルギー源として、社会が許容できる範疇を完全に逸脱するような行動と想像になっている。
そこへ突如として男性的な脳天気さと能動性をもった男が、エリカへの愛を告白しつつ闖入してくる。これでアンバランスな均等をたもっていた塔の中の小さな閉鎖世界は徐々に崩壊していく。ド変態になるまで煮詰められたエリカの妄想は、その対象をえることで一挙に現実に開かれた欲望となり、同時に社会性の審判を受けることになるのだ。そこには男性の卑猥さや暴力性、あるいは自分自身にわき出る嫉妬といった負の要素が渦巻いており、妄想ド変態で過干渉な閉塞空間と比較してなにか明るく素敵な結果がまっているわけではないし、エリカのはかない願いはことごとく失敗に終わり欲望は事態を悪化させるだけなのである。
思うに、これはラプンツェルの現代風の意訳である。魔女、つまり母親の支配する閉鎖空間で性的な妄想をする処女のもとに、ある日突如として王子のような男性があらわれる。王子は異常な閉鎖空間からラプンツェルを救い出すが、彼女が慣れ親しんだ異常性欲が象徴する閉鎖空間の環境は、悪意の渦巻く現実の社会や、そもそも王子そのものが持つ激しい性欲や暴力といった男性的なものに適応できずにすべてが破綻するのである。
ラプンツェルがこの現代にいるとすればそれはつまりエリカだし、この物語はポストモダン的なラプンツェル解釈でもあるだろう。ちょうどディズニーが性的な部分を消去することで逆に古典的な純化に成功したのと対照的である。

『スノウホワイト』諸星大二郎
諸星大二郎のグリム童話を下敷きにした短篇集『グリムのような物語 スノウホワイト』に所収の「ラプンツェル」では、もはやラプンツェルは人間でさえない。「ユーザー」とよばれる所有者の人格を劣化コピーしたプラグド型の介護ロボットである。
そこへ内戦かなにかの残党探索のためにきた男性兵士によってラプンツェルは「発見」される。彼女は孤立した高層マンションの一室から廃墟となった街を眺めつつ、自分の過去と出自が深い霧の中のように思い出せず、なぜ自分が高いビルにあるこの部屋にいるのかさえわからない。
仲間の部隊をつれてもどってきた兵士によって、ラプンツェルの長い髪が、はるか以前に死亡した老女のヘッドセットへとつながる「コード」であったこと、コードにつながれたラプンツェルはユーザーの意志によって働く介護ロボットであったこと、さらに生前の老女の人格が一部コピーされたうえに何度も読んでいたグリムのお話が触媒となってラプンツェルの状況への認識を形作っていたことなどが解明される。
『ピアニスト』のエリカの妄想が修復不能なアイデンティティーだとするなら、諸星のラプンツェルはアイデンティティーの消失である。性的な意味を消したという点ではディズニー版ラプンツェルとおなじであるが、ここでは「閉じ込め」られた状況とアイデンティティーの消失という切り離せない因果関係を見事に描写しているのだ。
諸星の描くラプンツェルのように、社会的な役割りが一切たたれた状況で、われわれはどのようにアイデンティティーを確保するのだろうか。廃墟の街の閉鎖空間では、このあわれなラプンツェルのように人格障害を引き起こすしかないのではないか。白人男性の確信的な質問に答えた『渦』の混血女が拠り所とするような、大地も、息子も、生そのものも持たざるこの荒廃した近未来では、アイデンティティーが意味をなすことがあるのだろうか。
常に組織立った没個性的な男性兵士たちの描写に対して、ロボットのこのラプンツェルはあくまでも自己の生の本質をもとめているようにもみえるし、われわれには人間にしかみえないラプンツェルをユーザーの劣化コピーロボットであると断定する兵士たちは、父性と祖国とその来歴にのみ正統性をもとめる『渦』の白人男性の原理に従っているようにも見える。男性原理と女性の本質論に横たわるこの埋めがたい溝を超えるための、そのほんのかすかな可能性として、はじめに彼女を発見した兵士によってまるで生身の女性のように抱きかかえられ保護されるラプンツェルの描写を諸星は用意する。ラプンツェルはどこにつれていかれるのだろうか・・・。

『愛、ファンタジア』アシア・ジェバール
アルジェリアの女性作家アシア・ジェバールの『愛、ファンタジア』では、主人公の「私」は「広大な葡萄畑に取り囲まれた、サヘルのとある集落の真ん中にある明るい光の入る家」に、毎年春と夏休みのあいだ「閉じ込められる」のである。そこでは日課のアラーへのお祈りが欠かさずおこなわれ、むしろおなじ女性の年配者が「少女を閉じ込めろ」と言う。
だがしかし、進歩的な父の考えによって主人公の「私」はフランス語を習得し、一緒に「閉じ込められ」ている親戚の三姉妹の長姉からの影響を受けて「もちろんアラブ世界の男たちに対してだが」文通まではじめてしまう。
それによって幽閉する物理的な「塔」の高さや頑丈さ、塔のある立地の辺鄙さなどはまったく問題ではなくなるのである。そのおかれた環境の強固さと広さではグリム版ラプンツェルの比ではない状況で、ジェバールの分身である主人公は世界と直接話をし、世界と直接交歓することの可能な伝達方法を手に入れるのである。
世界と直接ことばを交わすことで閉じられた社会ではさまざまな軋轢が生じもするが、主人公は白人男性のはじめたアルジェリア戦争を自ら習得した「敵の言語」で書くことによって、戦争そのものを大地の歴史として内包し、100年にわたるアルジェリアの悲劇を綴るのである。それはフランスの武力による監禁状態にあるアルジェリアの、さらにその内部においても男性原理によって監禁された少女の、たった一本のペンのちからによって。
その二重の監禁状態の中心から、彼女のことばは戦争をも超越するアイデンティティーを手に入れ、愛の原理さえ理解するのだ。主人公の少女は早くもさとるのである。「愛とは絶対、見て聞いて分かる言葉や行為を越えた別の場所にあるものだ」と。
だとするなら、ラプンツェル的な「閉じ込め」られた状況を打破するには、女性は社会に開かれた情報の伝達と交歓に頼ればよいのだろうか。
アルジェリア戦争の時代よりももっと複雑になったポストモダンの社会では、しかしその「情報の伝達」そのものが人々を監禁状態に陥れるというエントロピー理論が支配しているのだという。

『競売ナンバー49の叫び』トマス・ピンチョン
トマス・ピンチョンの初期長編『競馬ナンバー49の叫び』の主人公エディパ・マーズは、メキシコの女性シュールレアリズム画家レメディオス・バロの作品『大地のマントを織り紡ぐ』を展覧会でみて泣き出してしまう。そこには高い塔に幽閉された少女が、背後に立つ魔女のような女性が産み出す糸によって世界そのものが描かれたマントを織り紡いでいる姿が描かれている。エディパはこうかんじるのだ。「彼女が塔のなかで自ら織りあげたもの全てが、彼女が世界でみるものの全て」なのではないのかと。
作品冒頭、エディパは主婦仲間のパーティーから帰宅する。パーティーとは名ばかりで、それはアメリカ企業タッパーウェアー社主催の商品販売会である。逆さまにしても液体のこぼれないほどの密閉を誇るタッパーウェアーは、ピンチョンお得意の現代的な隠喩である。「平凡な主婦」エディパが日々の生活をおくる日常が、なにか得体のしれない閉塞的なものによって閉じられていることを冒頭から予言しているのである。
パーティーから帰宅したエディパは、かつて愛人関係にあった大富豪ピアス・インヴェラリティーが死亡したこと、その巨額な遺産の遺言執行人に自分が指名されていると書かれた不可解な通知を受けとる。「KCUF」という馬鹿げた名のラジオ局でDJをする夫に事情を説明し、彼女は共同執行人の弁護士メツガーに会いにピアスの本拠地サン・ナルシソ市へとむかう。そこでエディパはピアスの遺品に含まれた謎の偽造郵便切手の発見を皮きりに「トライステロ」とよばれる反国家的な地下郵便組織の存在を知ることになる。
ピアスの奇妙な遺言を別にすれば、エディパはごく普通の幸せな主婦であるように見える。しかし彼女のおかれた漠然とした閉塞感は、出入り口のない塔に監禁されたラプンツェルのそれとたいした違いはない。それは、監禁状態の日常から脱出するためであれば、もしかすると自分がパラノイアであるかもしれないという危険をおかしても、トライステロの謎を追うことでもうひとつの現実を知りたいという彼女の衝動に表れている。ピンチョンはここで「エントロピー」の法則をもちだすのである。エントロピーの第二法則では、運動する物体はいずれかならず運動と熱量の死滅する絶対零度の状態におちつくという。エディパの日常は、徐々に運動も情報もあらゆる出来事が平均化し死滅にむかう高エントロピーの日常なのである。
エディパがラプンツェルと違うのは、彼女には外界とのあらゆる通信連絡手段が用意されているということである。しかしそれこそが高エントロピーの状態を作りだしているのである。エディパをかこむあらゆるメディアのシグナルは、エディパにとってはノイズでしかない。夫ムーチョの勤務するラジオ局は先述したように真面目で有益な情報を放送することに社命をかけるジャーナリズムであるとは到底思えず、ムーチョはカーディーラーから転職したDJであり、不仲の上司との軋轢に疲れて完全にノイローゼ状態である。さらに彼女の専属カウンセラーは患者の数十倍ひどい精神病を患っている。共同執行人の弁護士メツガーとはじめて会ったホテルの部屋で彼に言いよられる彼女がつけたテレビには、メツガーその人が少年のときに出演したという映画が放送されている。彼女はメツガーがこの放送時間にあわせて登場したのか、それとも彼のいうように単なる偶然なのかがまったくわからない。しかもその映画はメツガーが知っている筋と自制が狂っているという。もはやこのような状態で信頼できる情報がエディパに入ってくるとは思えない。彼女にとって周囲の人間の話すことばもメディアからながれる情報も、エントロピーを高めるノイズでしかないのだ。しかも、ムーチョもメツガーもピアスも彼女の周囲の男たちはみなエディパを塔から救い出すどころか、さらに彼女を高エントロピーへと誘う存在でしかない。
だからますます孤立するエディパは現実のうちにあらわれるパラノイア的なトライステロという陰謀論にはまり込んでいく。そうなるともう、現実にも超現実にも彼女の居場所はないのである。その状況はそのままレメディオス・バロの絵画と重なっていく。塔の内部で描かれた世界の縮図が、その外側の世界と地続きであり同一であるというジレンマは、現代のラプンツェルにもはや逃げ場はないという絶望的な構図であるかもしれない。

ラプンツェルは女性であるし、ここでは女性のもつ閉塞感と閉じ込められた状況にかんして考察した。しかしラプンツェルも、介護ロボットも、エリカも、ジェバールの「私」も、そしてエディパも、基本的には人間社会が、ただしそのおおくが男性によってつくりだされた社会という監禁のシステムによって生みだされた苦悩であり、複雑なアイデンティティーの姿である。
それほどに、グリムの採取し発表した「ラプンツェル」は人間の業をあらわしていると言えだろうし、とくに女性にとって監禁とは社会そのものであるのかもしれない。


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