編集もまた創作である。『映画もまた編集である』『ヒッチコック 映画術』『真夜中の子供たち』『人間の条件』

10年のあいだにブッカー賞を受賞した全作品のなかから、さらにそのなかの最優秀賞をあたえるという派手な企画、ブッカーオブブッカー賞を受賞したサルマン・ラシュディの代表作『真夜中の子供たち』は、執筆当初ラシュディの自伝的なリアリズム小説であった。できあがった原稿をよみかえし、ラシュディは彼に影響をあたえたマジックリアリズムの手法を大胆にとりいれ、内容を組み替え、当初書かれた分量の半分をけずって現在出版されているかたちにおちついたという。いちど創作されたものの手法を入れ替え、物語を組み替え、半分にダウンサイズするのは、もはや編集というよりも創作そのものにちかい。ちかいというか、編集と創作は不可分だからそもそもわけて考えることのほうがほんとはおかしい。もともとの原稿からは似ても似つかぬはずの(残念ながらラシュディの最初の原稿は残っていない)あの歴史的な作品がうまれてくるなら、むしろ『真夜中の子供たち』にとっては、後半の編集作業のほうが真の創作行為と言えるだろう。

が、現実は「芸術」といえば奇矯な発想とそれをとりまくインスピレーションのことばかりが話題になりがちである。俳句や川柳であればインスピレーションの重要度はそうとう高いだろうが、芸術ぜんぶがぜんぶインスピレーションによって発生するわけではないのである。
とくに日本人の芸術家像には、気むずかし屋で一瞬のインスピレーションを最重要視し、短時間の爆発的衝動によって芸術を遂行する、自然主義を信奉する、ヒゲ面で破滅的な芸術家の極端なステレオタイプが存在しているような気がする。西洋の戯画にみる「出っ歯の日本人」とさしてかわらぬこの偏見み満ちあふれた芸術家観は、つまるところ芸術家の創作行為と、われわれが日々こなす労働がまったく別のものだと思い込みたい一般人のロマンチックな欲求からでていると思う。芸術はコツコツと労働をしつづける徒労とは対局にあると、どうしてだか人々は考えようとする。そしてその代償として、芸術家に芸術家ならではの苦悩をあたえて満足する。

ユダヤ系アメリカ人の政治哲学者ハンナ・アーレントはその著書『人間の条件』において、人間の活動を3つに大別している。1.活動、2.仕事、3.労働、である。
「活動」は人間関係においておこなう行為である。これは平等で差異のない人間同士のあいだにおこることである。この行為によって、人間は自分が何者なのかを周囲に暴露する。しかし自分ではそれを見ることはできない。また活動の痕跡は「物語」のかたちでしか残らない。
「仕事」は、ある目的を達成させるためのものであり、達成の証として最終的な生産物が残される。そのため古代ギリシャ人は「仕事」を尊び、本来「活動」であった政治を「仕事」に置き換えようとこころみた。
「労働」は生殖や繁栄という生きていくために必要な行為である。人間は生存にともなう自然的な必要を満たすため、強制的に「労働」を強いられる。しかしマルクスによりこの「労働」が生産的行為として論理的に位置づけられるようになった。
われわれが芸術家を「極端な人」と思い込みたいと願う背後には、アーレントのいう「労働」への嫌悪が存在しているのではないかとボクはかんじるのである。
しかしこれは本題ではないので、アーレントはまたこんど書こう。
ここで言いたかったのは、真に偉大な芸術は、われわれ一般人がいやいやおこなう「労働」のように果てしない、シジフォスっぽい作業から生まれてきているのだと言うことである。

ラシュディとおなじブッカー賞受賞作家であるマイケル・オンダーチェは、ひとつの作品を上梓した直後から次の作品を書いたりはしないそうである。演劇やダンスなどの小説とは別のジャンルの仕事をこなしてから次の執筆に取りかかるそうである。(訳者あとがき)
名映像編集者でありサウンドデザイナーであるウォルター・マーチとの対談集『映画もまた編集である』も、オンダーチェの小説作品『アニルの亡霊』と『ディビザデロ通り』のあいだに書かれたものである。
先に言っておくと、ボクのようにコッポラで幼少期の映画人生をはじめた映画ファンは、もう読むととまらなくなるだろう。あの謎めいた名作『ゴッドファーザー』や『地獄の黙示録』や『カンバセーション…盗聴』などの創作の裏話どころか、その技法や編集思想、はてはウォルター・マーチの無限の蘊蓄まで聞けるのである。
ウォルター・マーチの映画作りに対する思想と技法と、さらにいかに編集が根気のいる仕事であるかという話を読むと、インスピレーションの爆発によって仕事を遂行する「芸術家」など、映画制作においては存在しないのであるとさえ思えるのであった。

それは、この対談がおこなわれるよりも30年以上も前におこなわれたおなじ映画にかんする対談『ヒッチコック 映画術』でのヒッチコックとフランソワーズ・トリュフォーの対談を読んでも納得できるのである。ヒッチコックは徹底してカメラ、脚本、演出、資金、そして編集といったディテールをもとに「労働」あるいは「仕事」として映画を語るのである。ヒッチコックほどの天才がである!
上記『映画もまた編集である』も秀逸な映画本であるが、ヒッチコックが自身の技法やエモーション、恐怖の演出方法にかんしておしげもなく語るこの『映画術』はまったくもっておそるべき本である。深く読み込めば読み込むほどヒッチコックが読者に乗り移るだろう。もし読者がこの本に影響されて映画をつくるとなると、それはヒッチコックの焼き直しにしかならないだろう。だからおそろしいのである。そしてもうひとつの驚くべき点は、ヒッチコックが徹底的な観客志向の映画監督であったということである。観客のためなら論理的な理由はなんでもすてさるヒッチコックの映画が、観客にとっては論理的に整然としているように見えるのも不思議である。
そういう意味でも、われわれはインスピレーションと芸術と天才と労働と仕事と創作と編集とエンターテイメントと産業となんだかんだを、ごっちゃに考えてしまっていると反省したほうがいいかもしれない。


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