『日本の作家が語るボルヘスとわたし』 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ 9月 26, 2011 ボルヘスを直接語るのはなんだかコワイのである。『千夜一夜物語』や『ドン・キホーテ』を語るのはこわくはないのに、ボルヘスだと躊躇してしまう。だからボルヘスの「周辺」をかたることでしか、(ボクは)ボルヘスを語れない。だから明日、岩波書店から刊行される『日本の作家が語るボルヘスとわたし』を執筆する人はえらいと(ボクは)感じてしまう。よくボルヘスを語れたな、と。 『日本の作家が語るボルヘスとわたし』http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/02/4/0247790.html 明日、買いに行こうっと。 リンクを取得 Facebook × Pinterest メール 他のアプリ
「ファミキャン」ブームがきもちわるい件について。『イントゥ・ザ・ワイルド』『地球の上に生きる』 11月 04, 2010 学生のころよくキャンプをしていた。はやっていたわけではないので、今でいう「マイブーム」みたいな感じだろうか。しかしキャンプが一般的なブームになり、自分も就職し仕事がいそがしくなると行かなくなる。つぎに子供がうまれて「第二次キャンプブーム」がやってくる。現に今やってきている。 「第二次キャンプブーム」は、半ば野宿みたいな学生のキャンプとはちがうので、それなりにお金もかける。かけるというと大げさだが、子供もいるので最低限の環境は必要になる。仕事の合間の限られた時間を使ってのキャンプだから行き当たりばったりに出かけるわけにもいかず、フリチン立ちションの男同士でもないからおのずときれいなキャンプ場を予約することになる。 そうやってかつては毛嫌いしていた高規格なキャンプ場に行くと、ものすごい数の家族がきている。「そうか、キャンプは今ブームなのだな」と今さら気がつく。 だから高規格キャンプ場に行くと似たようなテント、タープ、椅子、机、ミニバン、家族、子供が区画されたサイトにきちんとならんでいて、それはまるで孵化器にならんだ卵かひよこのような印象である。 そうなると違いを出すには道具しかない。スノーピークのテントを持つ家族はコールマンのそれを笑い、MSRの家族はスノーピークのそれを笑う。面と向かって笑いはしないが、ナチュラムあたりでは、ほのぼのとした家族愛の仮面を被ったブロガーが、やさしく、楽しそうに、お互い見栄の張り合いをしてる。けっきょく、マンションやアパートなどの集合住宅や区画整理された郊外住宅の狭い範囲におこるあのギスギスした近親増悪が、それを逃れるためのキャンプ場でも再発してるとしか思えない。きっと行き帰りのミニバンの中でも同じことなのだろう。日本で仕事をし、家を用意し、子供を育て、レジャーをするとは、とどのつまりこの手の「他人との関係性」をつづけることなのだろう。希薄でありながら粘着質、均一を尊びながら他をさげすむ。住宅地、高速道路、キャンプ場、公衆浴場、ショッピングセンター、アウトレットモール、最近では登山道。およそ「家族」同士がすれちがう場面ではほぼこの手の「きもちわるさ」が充満している。 こういうきもちわるさから逃れたいと思う。逃れるためにはこのきもちわるさの根本を定義しなくてはならない。なにが「きもちわるい」のだろうか。 まず、区画整理さ 続きを読む
トマス・ピンチョン『V.』とはなにか? 4月 07, 2011 米国の推理小説作家ダン・ブラウンの大ヒットした長編『ダヴィンチ・コード』のなかで、主人公ロバート・ラングドン教授がレオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」を指してこう解説する。中央に座るイエスの向かってすぐ左側に座る人物は、イエスの12使徒のなかでひときわ若くなまめかしく描かれており、その長い髪はまるで女にしか見えない。「このなかの一人が私を裏切るだろう」と言うイエスの言葉に他の使徒たちは怖れ、驚くが、左手の人物は悲しげな顔をしているだけである。しかも聖書には「イエスの愛しておられた者がみ胸近く席についていた」としか書かれておらず名前もない。そしてなによりイエスとこの人物とのあいだには不自然なほどの距離があいており、そのひらいた空間はアルファベットの「V」のかたちをしている。「V」は杯のかたちであり、それは聖杯を意味する。さらにこの左手の人物を左右裏返すと、ちょうどイエスの肩にしなだれかかるような位置に来る。つまり、イエスの傍らに座したこの髪の長い若い人物は、イエスの妻であるのだ、と。 「ダヴィンチ・コード」を楽しませてもらった恩を仇で返すわけではないが、残念ながらイエスの左手に座るのは弟子のなかでもっとも若いヨハネである。レオナルド・ダヴィンチはそもそも男か女かわからないような人物を他にも多く描いており、それはダヴィンチの絵の有名な特徴のひとつである。また、イエスの左側の大きく開いたV字型の空間は、まず弟子たちを3人一組で描写するためにまとめた結果であり、視線が中央のイエスに自然と集中するように図った技法であり、右側のトマスと大ヤコブの手が邪魔してわかりにくいが、よく見るとイエスの右手にもV字型の空間はある。それまで聖者を描く場合には当然だった後光を廃して、ダヴィンチはイエスの背後に見える窓からの外光を後光のように利用した。そのためにイエスの周囲には他の使徒よりも広いなにもない空間が必要だった。さらにボクは思うのだが、もしヨハネを左右反転してしまうと、ユダの左側、テーブルの左から2番目の小ヤコブの真下にあるナイフをつかんだ右手がだれのものか説明がつかなくなってしまうのだ。これはイエスに愛されたヨハネがいち早く裏切り者がユダであることを知り、手をのばして右手にあった果物ナイフをつかみ取った瞬間の描写なのではないか。だからヨハネは驚いておらず、悲しむというより 続きを読む
イデオロギーによるリンチ殺人 山本直樹『レッド』・ドストエフスキー『悪霊』・山城むつみ『ドストエフスキー』 1月 06, 2012 1969 年末から 70 年 2 月にかけて、「山岳ベース」とよばれる山中の「アジト」に潜伏した連合赤軍の中核組織「革命左派」の若者ら 30 名は、「総括」とよばれる他者批判と自己批判運動による「思想点検」から発展した暴力行為によって、アジトこもる 30 名中の 12 名を集団リンチによって殺害した。その前年の東大安田講堂陥落いらい国民の支持を喪失したこれらの新左翼は、強硬姿勢を強めた警察の検挙もあってますます過激で硬直した組織へと坂道を転げ落ちるように転落し、ついには社会改革とは似ても似つかぬテロリストとなり、おたがいを殺しあうようになってしまったのだ。 その殺害方法がまたおぞましい。生きたまま縛りつけアイスピックを突き刺したうえで厳冬の屋外に放置する、食事を与えずロープでつるしたまま何日にもわたって殴打される。なかには妊婦を殺害後、腹部を開いてその胎児をとりだそうとさえしたものもあったらしい。俗に言う「山岳ベース事件」である。 そのなかのさらに先鋭化した 5 人が群馬県側に逃げ、軽井沢の浅間山荘に人質をとって立てこもった。これが「あさま山荘事件」である。 その過激すぎる思想、殺害の残忍さ、殺人の動機がイデオロギーであったこと、また彼らのほとんどが高学歴の優秀な大学生であったこと、また浅間山荘での立てこもり事件がテレビによって大々的に生中継されたはじめての報道であったことなどから、日本犯罪史上類を見ない事件といわれている。 だからこの事件をテーマにした文学作品や映画がおおくつくられている。軽い気持ちで引き受けられるようなテーマではないので、どの作品も質的に相当重いものばかりである。 もっとも有名なのは立松和平の『光の雨』だろうか。もはや老人となった、山岳ベース事件に関与したもと連合赤軍メンバーの語る記憶、というスタイルで物語がすすむ。 最近では雑誌「イブニング」に連載中(2012年1月現在)の山本直樹のマンガ『レッド』がある。物語の端々に最終的な悲劇を彷彿とさせる描写(殺される順番に登場人物に番号が振ってある、副題が 1969 ~ 1972 など)があるが、全体的に感じるのは、異常な思想の極悪犯罪者を描くのではなく、まるで学生の群像劇のように描写する山本直樹一流のその「クールさ」である。 映画で特筆すべきは熊切和嘉の『 続きを読む
異常な愛とナチズム 『愛の嵐』『アーレントとハイデガー』 5月 03, 2011 1957年のウィーン、主人公マックスが夜勤のポーター係として働く「オペルホテル」という二流のホテルに、ある日高名なオペラ指揮者の夫婦が訪れる。偶然にも、マックスと、指揮者の妻ルチアは20年も前の古い知り合いだった。しかも、男はナチのゲットーで権力を揮う親衛隊員として、女はその収容所の倒錯した性のユダヤ人奴隷として。ふたりの封印したはずの記憶がよみがえる。しかも悪いことにルチアの夫は急遽フランクフルトにもどらなくてはならなくなる。親衛隊残党の秘密組織の一員であるマックスは、一人になったルチアの真っ暗な部屋に合鍵で忍び込み、「なぜここにきたのだ」とルチアを殴りつける。悲鳴をあげ、真っ暗な部屋を逃げ惑うルチア。しかし暴力が契機となり、閉じ込めていたはずのふたりの情念は爆発してしまい、ふたりは強制収容所でおこなった過酷で退廃的な性の魅力におぼれ、狂ったけもののようにお互いを求める。ルチアはホテルを引き払い、マックスのアパートで二人は焼けつくような情事を重ねる。それはまるで死ぬ以外に終わり方をしらない情念のようだ。 一方、オペルホテルを隠れ蓑にしているナチ残党は、密告をおそれてルチアを暗殺することにする。それを知ったマックスは、仕事もやめ、ルチアとともにアパートに立てこもる。しかし電気も水道もとめられ、食料も底をつきた二人は、20年前とおなじ親衛隊の服と収容所時代のワンピースを着て、暗殺を狙うナチ残党やナチ狩りの刑事らが追跡するなか、ドナウ川の橋をわたっていくのであった・・・。 リリアーナ・カヴァーニ監督のこの『愛の嵐』が描く倒錯した性のあまりの過激さとデカダンさに、ローマ法王は上映中止を申請したという。逆にルキーノ・ヴィスコンティはこの映画を「もっとも退廃的な愛を描いた」と絶賛した。 なかでも、ルチア役のシャーロット・ランプリングが、半裸に親衛隊の軍帽とサスペンダーで踊る強制収容所の酒保のシーンはみごとである。あきらかに「サロメ」を思わせるデカダンな雰囲気に、ユダヤ人少女の冷たい無表情な顔がかえってエロい。禁じられているはずなのに、ここで「エロさ」を感じるのはナチ親衛隊と一緒じゃないかと思いながらも、あまりにデカダンで、さらにタブーだからこそ、観客はゴクッと固唾をのむことになる。この酒保のシーンでタブーの愛と性欲をゴクッと感じたからこそ、後半において全てを捨て 続きを読む
メタ推理小説 『哲学者の密室』『虚無への供物』 6月 22, 2011 うどん好きは、週に10食とかただひたすらうどんを喰うのに専念するのに対して、蕎麦ずきは喰う量は少ないくせにやたらと文句をいいたがる。割合は二八がいいとか十割が最高とか、薬味はどこどこのワサビにしろとか、つゆには半分しかつけたらいけないとか7割までつけろとか、そば湯をつかうのは最初だとか最後だとか、噛むなとか噛めとか、挙げ句の果てには蕎麦を入れる器にまでいちいち好みを言い立ててやたらとうるさい。おなじ麺類だが、うどんと蕎麦ではこうも好きになる人種がちがうのかといつもビックリする。さらに言うと、うまいうどん屋は流行り、店もおおくなり全国にひろがるのに対して、うまい蕎麦屋はつねに1店舗だけである。どんなにうまくてもフランチャイズしている蕎麦屋の蕎麦を「うまい」とは絶対にいいたくない、蕎麦ファンにはそんな捻れた心理があるようだ。 蕎麦とおなじぐらいボクも推理小説が好きで比較的よく読むのだが、推理小説ファンには蕎麦ファンに通じる「頑固さ」「めんどくささ」があるように思う。 いわく、推理小説には他のジャンルには存在しない「流儀」というものがある。その最たるものが推理小説作家でもあるヴァン・ダインの「推理小説20則」である。 「20則」では犯人に設定してよい人物の職業、探偵役の人数、事件解決方法、プロットの立て方、やってはいけないトリックなど、推理小説にかんするさまざまな禁則が語られている。なかには「推理小説は犯人を正義の庭に引き出すことであり、男女を結婚の祭壇につれてくることではない」と、推理小説内でロマンスを語ることを禁じる内容さえあり、読んでいると頑固じじいの遺産相続にかんする遺書かなにかのような印象さえもってしまう。もし「蕎麦ずき20則」みたいなものがあれば、きっとこうなっていたろう。 かといって、じゃあ推理小説ずきの読者はそういう風潮に辟易しているかというと、そうでもない。あんがい嬉々として20則的な「頑固さ」を受け入れている。 他の小説ジャンルにくらべると、推理小説には「作者対読者」の構造が目に見えて顕著である。作者は読者をだまし「あ、そうか!」と言わしめるのを仕事とし、読者は作者の意図を先読みして「犯人が読めた!」と言いたいがため貴重な時間とお金をかけて読書にはげむ。だから推理小説にはつねに対決の緊張感があり、その緊張感に興奮をおぼえるようにな 続きを読む
うつ病とメランコリア 『メランコリア』ラース・フォン・トリアー 2月 26, 2012 うつ病の人がおおい。厚生労働省の調査結果では日本人のおよそ15人に1人はうつ病だという。うつ病を発症させる因子が社会性ストレスといわれているところから、現代病の一種と考えている人もおおいようだが、そうでもない。増えたのは、この病気が社会的に認知されたからである。 うつ病という名前がなかった昔は、それを「メランコリア」と言っていた。紀元前400年頃すでに、「医学の父」とよばれるヒポクラテスがこの悩ましい病気について言及している。 ヒポクラテスによると、人間には4つの体液があるという。血液、粘液、黄胆汁、黒胆汁の4つの体液が正しい状態にないと、人は病気になるという。これを「四体液説」という。 四体液説を信じている医者はもういないが、それでも体内のバランスが崩れて病気になるという考え方はいまでも通用している。なんのバランスなのか指摘できないのに、やたらとバランスが大事だという人がいるのは、2400年前に流布した四体液説のなごりかもしれない。 その四体液説のうちの黒胆汁が過多になると患うのが、メランコリアである。メランコリアになると悲しみや不安や憂鬱をかんじ、病気が進行すると無気力になり、妄想や幻覚をみることもあるという。つまりいまでいううつ病である。 16世紀初頭の版画家アルブレヒト・デューラーの傑作『メランコリアⅠ』は、まさにこの鬱気質を描いている。 版画の中で、小屋の前に腰かけた翼のある人物が右手にコンパスと本を抱えている。しかし彼女が見ているのは手元の本ではなく、版画の枠外のどこか遠くのようである。足もとには大工道具が転がっており、痩せた犬が寝そべり、不思議な多面体が置かれている。はしごが立てかけられた背後の小屋の壁には、魔方陣が描かれ、鐘、大きな砂時計、はかりがつるされている。背景は波のない海のようであり、上空に虹が架かり、その向こうを巨大な彗星が飛んでいる。 「うつ病」というアカデミックで散文的な用語にはなく、「メランコリア」という言葉には存在する意味に、憂鬱、憂い、思索、悲哀といったものがある。デューラーの『メランコリア』には、そのどれもが含まれているように思える。暗い顔の天使は、うつ病というよりもなにかを憂いているようにも見えるのである。 ヒポクラテスの四体液説は、物質の四大元素(空気・火・水・土)につながっ 続きを読む
インフレする暴力映画 『ファニーゲーム』 10月 12, 2011 父と母と息子ひとりのごく平凡な家族が避暑のため湖畔の別荘にいく。母が夕食の用意をしているとき、白い服に白いズボン、白い手袋をしたふたり組の男が「たまごを貸してくれ」といって突如やってくる。白手袋の男たちはそのままその別荘に居座りつづけ、家族を縛りあげたうえでこう宣言する。「おもしろいゲームをしよう。明日の朝までにきみたちが生き残れるか、それとも全員惨殺されるか、どちらかに賭けるのだ」。それから、白手袋たちによる罪のない平凡な家族の惨殺物語がはじまるのである。 ミヒャエル・ハネケ監督 『ファニーゲーム』 はほんとうに観客をいやーな気分にさせる最低のゴミクズ映画である。ここでは映画が潜在的に持っているすべてのセオリーと調和が、一切の容赦なく反故にされている。だからゴミクズ映画なのだが、しかし最強なのである。 まずもってこの映画はアンチスリラー映画である。正義がかならず勝つ、という映画制作者と観客の暗黙の了解が無視されている。いったんそのセオリーを解除してしまうと、観客は感情移入に混乱をきたす。感情的にぺったりと張り付く人物を見失って、映画鑑賞の指針を見失ってしまうのである。だから白手袋に憎悪をかんじながらも、なぶり殺しにされる惨めな家族によりそうこともできない。あくまでも被害者家族は第三者であって、鑑賞者である自分と主人公がぴったりと重なることはないのである。だから劇中、白手袋の男は突然スクリーンにむかって話しかけたりする。観客はあくまでも観客なのである。 次に、これだけ凄惨で救いようのない暴力を描きながら、ハネケはただの一度も暴力そのものを描写していないことがあげられる。この映画では、暴力はかならずスクリーンの外側で発生しており、われわれ観客はその事後によって不運な家族のひとりが殺されたことを知るのみである。 コワイ映画、凄惨な映画、グロテスクな映画であれば、この『ファニーゲーム』以上のものが山のようにあるだろうし、レンタルビデオショップにいけば専門のコーナーさえ用意されている。だがそんな映画をみても満足することはまれである。なぜなら観客はもう暴力のあらゆる描写になれてしまい、よほどの技術的新奇さがないかぎり満足できない体質になってしまっているからだ。当時は失神者が続出したというR・ブニュエルの『アンダルシアの犬』であるが、今では目玉をカミソリで切 続きを読む
フエンテス『アルテミオ・クルスの死』書評(年表、登場人物表) 1月 23, 2020 フエンテス『テラ・ノストラ』を途中で読むのをやめてしまった人(ボクもですけど!)の多くは、この『アルテミオ・クルスの死』を先に読んでいれば挫折せずにすんだのではないかと思う。 『老いぼれグリンゴ』ほど平明でなく、『テラ・ノストラ』ほど複雑難解でもない。 あらすじを言ってしまえば、私生児として生まれた少年が、混乱のメキシコ革命に参加し、詐欺まがいの手法で地主となり、政敵を消し去り、愛人を作り、巨万の富を得て経済的にのし上がるという、ラテンアメリカ特有の血なまぐさい男の一生の物語である。 その71年の一生の中の12日を、一人称(現在時制)、二人称(未来形)、三人称(過去形)という3種類の記述方法で、12日×3種類というセクション分けで語っている。 12のセクションにおいての、詳細な日付とその時点でのクルスの年齢は以下の表の通り。 掲出順位 年 年代順番号 出来事 クルスの年齢 1 1941年7月6日 10 買い物する二人の女。職場でのクルス。 52 2 1919年5月20日 5 クルス、ベルナール家を訪問、カタリーナと出会う。 30 3 1913年12月4日 3 革命時に出会ったレヒーナとの恋と死。 24 4 1924年6月3日 6 ガマリエルの死。カタリーナの孤独。 35 5 1927年11月23日 7 国会議員のクルス。政治的駆け引き。大統領との会見。 38 6 1947年9月11日 11 アカプルコでリリアとヨットに乗る。嫉妬。 58 7 1915年10月22日 4 ビリャ派との戦闘。捕虜となりベルナルと出会う。 26 8 1934年8月12日 8 ラウラとの生活。ラウラの倦怠。 45 9 1939年2月3日 9 スペイン内戦に参加するロレンソ。 49 10 1955年12月31日 12 毎年恒例の新年のパーティー。ハイメと会話。 66 11 1903年1月18日 2 メン 続きを読む
イスラームへの旅 サルマン・ラシュディ『悪魔の詩』 2月 01, 2012 1991年7月11日、筑波大学助教授の五十嵐一が研究室のあるビルのエレベーターホールで何者かに殺害される事件がおきた。前年の1990年に五十嵐教授はサルマン・ラシュディによる長編小説『悪魔の詩』の日本語訳を上梓しており、そもそも『悪魔の詩』は当時イラン最高指導者であるホメイニによって禁書とされ、著者であるラシュディは死刑宣告のファトワ(イスラムの勧告)をうけていた。同年にはイタリア語版の訳者が襲われ重傷を負い、93年にはトルコでこの本の研究者の集会会場が襲撃され37人もの死者をだしている。 この本のなにがそんなにイスラーム指導者を怒らせたのか。 理由は2つだと考えられている。ひとつは予言者ムハンマドの12人の妻とおなじ名前の娼婦がでてくることである。とくに最初の妻ハディージャは世界最初のイスラム教徒であり、ハディージャの実家であるハーシム家はメッカの迫害から最後までムハンマドを保護し続けた名家なのである。しかしこれは表面上の理由だろう。作者であるラシュディもここになにか本質的な問題を含めたわけではないだろうとおもわれる。 もうひとつはムハンマドと悪魔との取引に関してである。もともと多神教であったメッカは、メディナで勢力を拡大し続けるムハンマド率いる「イスラーム共同体」に恐れをなし、停戦協定を申し出る。その取引条件というのが、イスラームのアッラーを認めるかわりにカアバ神殿にまつられる多神教の神々を認めろ、といものである。じっさいクルアーン53章にはムハンマドが多神教を認めたともとれるような記述が存在した。のちにムハンマドはこれは悪魔が書かせたものであるとして撤回したのだが、ラシュディの小説には、そのメッカとの取引において、正しい信仰であるイスラームをひろめる合理性や共同体の仲間への身を案じ、多神教の偶像を認める決断をする場面が克明に書かれている。 しかし2段組上下巻600ページの、けっしてみじかくも読みやすくもないこの『悪魔の詩』を読み切ってみると、キリスト教でもましてムスリムでもないわれわれ一般的な日本人には、どちらかというとイスラームの擁護をしているようにかんじられるのである。 その最たる部分が、この長い物語の強力なサブプロットをとる絶世の美女アーイーシャの物語である。 天涯孤独の孤児アーイーシャは、そのこの世のものと 続きを読む
『コード・アンノウン』ハネケ 5月 31, 2011 ミヒャエル・ハネケ監督6作目の劇場映画。『カフカの城』のつぎ、『ピアニスト』の前に撮られた映画。なるほど、ぶつ切りの映像と被写体を横から追うワンカットカメラは『カフカの城』のようだし、フランスに移ってから極端に美しくなるハネケの映像美は『ピアニスト』のようでもある。群像劇としては、『71フラグメンツ』にもたいへんよく似ている。違うところは『71フラグメンツ』が殺人という事件が最終的に群像のなかの人々を結びつけるのにたいして、こちらは最終的な事件や事故はほとんどなにもおこらない。だから群像劇はすれちがったままはじまり、すれちがったまま終わる。「すれちがい」というか、「無理解」というか、「コミュニケーションの不在」というか、なんしか人間の「わかりあえなさ」を痛いほど描きだしてくれる。ハネケなので、もちろん容赦なく。 冒頭、聾唖の子どもたちがクイズをしている。ジェスチャーだけでそれがなにを意味しているかを当てるのである。孤独、隠れ家、ギャング、やましさ、悲しみ、刑務所、と子どもたちは手話で答えるが、すべてちがっている。言葉を話すものであれば、それはつたえられたのであろうか。まるで回答のように、「コード・アンノウン」とタイトルが表示される。 ジュリエット・ビノッシュ演じるアンヌ(ハネケの法則にしたがって女主人公の名はアンヌかアンと決まっている)は、アパートの前で恋人ジョルジュ(同法則によりジョルジュ)の弟ジャンとあう。ジャンは父とケンカし農家である実家から家出してきたという。女優の仕事でいそがしいアンヌは「私の解決できる問題じゃないわ」といい、アパートの鍵と暗証番号をおしえておいかえす。アンヌの諫めるような態度にジャンはふてくされ、もらったパンの包み紙を物乞いの女になげつける。たまたまそれをみたマリからの移民二世のアマドゥは「彼女を侮辱した。あやまれ」とつめよる。かたくなに逃げようとするジャンともみ合いになり、もどってきたアンヌが制止するのもきかず、やがて警察がよばれる。 この、なにげないどこにでもあるような事件に関連する4人の登場人物たちの生活が、この事件から枝分かれして物語がすすむことになる。 まず第一に、アンヌとジョルジュの同棲生活。 第二に、ジャンと父との農場での生活。 第三に、マリからの移民アマドゥの家族の生活。 続きを読む