記憶と記憶補助装置としてのノート

スーザン・ソンタグは「ノートとは、全てを主題とするものにとって、完璧と言える文学形式である」という。だからノート、というか記録のための道具はいろいろと試してみた。
しかし気づいたのは、憶えたことをメモしてもなんの役にもたたないということである。メモすべきは「忘れる予定」の事柄にすべきだ。
そして、記憶には短期記憶と長期記憶があり、メモは短期記憶であるはずの事柄を長期記憶におきかえる儀式でもある。
さらにいうと、記憶をノートやデータベースに移し替えるということは、書いた内容をそっくりそのまま忘れてしまうということである。忘れても大丈夫だという安心感が必要なのだ。
しかし、書いた内容はすべて忘れてもよいのだが、それを書いたことは記憶しなければならない。「なんだか忘れたがたぶんソンタグにかんしてのメモしたよな」という漠然とした記憶である。ここは人間の得意な記憶で、比較的長期記憶になりやすい。
イギリスの詩人W・H・オーデンはこう言っている。
「自分の知っていることしか書くことはできない。ただし書いてみるまでは、自分がなにを知っているのかということも、知らないことのひとつである」
写真を撮るとは、フレームに収まらなかったその他すべてのものを「撮影しなかった」ということでもある。絵を描くとは、その絵の対象となったもの以外は「描かなかった」ということと同義である。憶えるとは、憶えた事柄以外のすべてを知らないということである。
だから記憶とは、そして記憶の補助装置としてのノートとは、書いた事柄以外は、すべて記憶していないし書いてもいないということである。
記憶を誇ってはいけない。どんな人間でも、ボルヘスの恐るべき短編に書かれたすべてを記憶するフネスのような人間になることは不可能だし、むしろそんな記憶に本質的な意味はない。
われわれが意識すべきは、記憶された事柄によって、かえって未知という空虚がわれわれの周囲に広がるという事実だ。ひとつを知ることによって、その他すべてを知らないということをわれわれは知るのである。


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