惨禍のメディア論 『他者の苦痛へのまなざし』

吉本興業のお笑い芸人「ダイノジ」のブログに、悩み相談のこんな投書がきたそうだ。
ボクは、地震のことがあまりにも衝撃すぎて食事ものどをとおらないし、夜ねむることもできません。
そんなとき、おもいきってお笑いのDVDをみたら、その日はぐっすりとねむることができました。でもそのことをツイッターに書くと「不謹慎だ」といわれ、はげしくショックを受け、それでツイッターもやめてしまい、食欲もなくなりまた不眠になり、外出するのもいやになりました。ボクは笑ってもいいのでしょうか?
事の大小はあれど、これは非被災者の多くが感じている心境と共通しているものなのではないだろうか。どこまでがゆるされることで、どこからがゆるされないことなのか。想像を絶する災害をまえに、自分たちはいったいなにをすればよいのか。この前例のない事態に対して、われわれがもっている行動規範が対応できずにあきらかに機能不全をおこしている。
ちなみにこの少々センシティブにすぎる青年にたいして、回答者はこう答えている。
「絶対君間違ってない。元気でいろ。必ず役割が来る。君は人間として品格をもって健康に生きる。
これが君の戦いだ。」(TechinsightJapan 3月18日)

この問題は、対象との距離に関係する。もし質問者が、ボスニア・ヘルツェゴビナでの民族浄化やルワンダのツチ族大量虐殺や、イスラエルのレバノン侵攻にたいしてもおなじような反応をしてしまうのであれば、彼は年がら年中、生まれてから死ぬまでずっと衝撃を受け続けて暮らさなければならないだろう。そうならないのは、惨禍との距離があるからである。距離とはとうぜん物理的距離でもある。東京在住者にとって千葉の地震は脅威だが、北海道の地震は遠くのできごとであり、外国ならなおさらである。また、肉親や知人が被災した場合はその距離はいっきょに縮まる。人間関係上の距離が介在するからだ。
しかしわれわれがひとつの事件や事故に対してもつ「距離」を最終的に決定しているのはメディアであり、テレビである。しかもわれわれがその事件にたいしてどれだけの衝撃をうけるのかを決定しているのはテレビが映すその情報の中身ではなく、その「扱い」の大きさであり、情報がいきわたる「範囲」にたいしてである。「冷静な対応を」といいつつ原発爆発のシーンを繰り返し見せ続けるテレビの映像に対して、われわれはどのような対応をすればよいのかが、そのあまりの「扱い」の大きさゆえわからないのだ。
だからといってテレビはわれわれをパニックに陥れようとしている、と考えるのも早計である。メディアはそれよりもずっと以前に必然的にできあがった独自のルールにしたがって扱いを決定し、距離をきめているだけなのだ。そのルールとは「視聴者のまなざしを満足させるものを提供する」というマスの必然である。

スーザン・ソンタグは自著『他者の苦痛へのまなざし』において、人類ができれば議論したくないとおもうようなテーマをあつかっている。つまり、戦争などの惨禍をメディアを通して見るということは、ほんとうにわれわれを良い方向へ導くのだろうか、われわれは事件を安全な場所から「見学」するだけで、悲惨な現実をのりこえる力を得ることができるのだろうか、ということである。そのためにソンタグはまずヴァージニア・ウルフの『三ギニー』での議論を引き合いに出す。
ウルフは知人の弁護士の「どうしたら戦争を避けることができるとお考えですか」という手紙への回答というかたちで、戦争をおこす側の男と、ウルフが属する女との「深い溝」を越えるための手段を提案する。それは「映像の中の戦争」をみることである。男にも女にも共通の「恐怖と嫌悪」を引き出すために、スペイン内乱での残虐な写真を見、ジェンダーを越えた「われわれ」という統一体ができるのである、と。
しかしソンタグは他者の苦痛を主題とする映像に対して、「われわれ」という言葉は「自明のものとして使われてはならない」と警告するのである。なぜならそのスペインの「男か女かもわからない、もしかすると豚の死骸かもわからない」というほど残虐な場面を撮した写真は、もしかするとスペイン共和国擁護のためのものとして使用されるのなら、映像はその闘争が正当であったという彼らの信念をよりいっそう強固にする力をもっているからである。ボスニア・ヘルツェゴビナでは、爆撃された村の子どもたちのおなじ一枚の写真が、クロアチア、セルビア双方で、相手方の非人道的行いを非難する宣伝のために利用さえされたのだ。また、ソンタグは語らなかったが、長いあいだセルビア人に抑圧されてきたボスニア・ヘルツェゴビナ共和国側のムスリムは、アメリカの広告代理店「ルーダーフィン社」に依頼し「民族浄化」というアメリカの大衆に迎合されやすいキャッチコピーを流布させ世論誘導のPRをおこなったのは有名な事実である。そこではわれわれが事実だと思い込み、バージニア・ウルフでさえ「善意の人々を結びつける」と考える映像の意味は、もはや「プレイボーイ」や「ローリングストーン」といった雑誌に掲載されているコマーシャルフォトとなんらかわりはない。だからひとつの映像をまえにして、「われわれ」という主語を自明のものとして使用することはもはやできないのである。
時代を経るとジャーナリズムはさらなるイデオロギーの使者となる。敵を嫌悪させるための報道も、戦争に反対するための報道も、そもそも「流血があれば売れる」と考えるジャーナリスト自身も、つねになんらかの動機と背後関係をもって日々映像を生産している。なのにわれわれはつねに絵は「メイク」であり映像は「テイク」であると考える。その一例として、芸術的な写真は否定され、ロジャー・フェントンやフェリーチェ・ベアトの演出された写真は贋物だと糾弾され、スペイン兵の死の瞬間を偶然撮したロバート・キャパの「崩れ落ちる兵士」が高く評価されることを書く。
しかし、どうして絵画があるひとつのテーマをある一方の立場で表現することが許されて、映像にはそれがゆるされないのか。ソンタグは書く。「それがひとつの痕跡であるかぎりにおいて、単に事件を透明に反映したものではない。それはつねに誰かが選びとった映像である。写真を撮ることは枠をつけること、枠をつけることは排除することである」。

ウンベルト・エーコは「文化とは残ったものだ」と言う。なにかが残り、なにかが消えていったあとで、われわれはその残りをあつめて文化とよぶ。そこでは非情で過酷な選択がつねになされていて、排除や消去というできればそうであってほしくない動詞がわれわれの宝物のかたちを決定している。それは映像という小さなひとつの成果物についてもおなじである。ほとんど大多数の人がそうするように、映像の主体を送り手側が意図したように感じることもできるのとおなじ方法で、われわれはその切り取られたフレームの外側に、われわれ情報の受け手には知らされなかった無数の事実が存在していると想像してみることもできるのだ。
情報の送り手が企画した意図の上にだけ立脚して、その信憑性や中立性を議論しても不毛な結論しか導き出せないのはそのためだ。誤解をおそれずに言うと、送り手の意図した「意味」という器の中でどれほど思索しようと、それは結局よくできた「ぬりえ」でしかない。それは誰かが書いた下絵にきれいな色を入れていく作業なのだ。そこに写らなかった事実、書かれなかった真実をもふくめて事件や現象や世界を考えるとき、その思考のちからを、本当の意味で「想像力」とよぶのだ。
だからわれわれはテレビをみて、そこに映る驚異的な他者の苦痛に同情を感じたり、あるいはバタイユの言うような性的な満足をおぼえたら、その後かならずこう気づくべきだ。「自分はそこにいなかったのだ」と。ソンタグはこうも言う。
映像は距離を置いた地点から苦しみを眺める方法であるという理由で非難を受けてきた。まるでそれ以外に眺める方法があるかのように。しかし近距離で、映像の介入なしに苦しみを眺めることも、眺めるという点では同じである。
ジャーナリズムとは、その事件事故にたいして自分が関わりを持っていなかったのだと認識するための手段でしかない。自分が惨禍を「眺める」立場であると確認する場所でしかない。そうすることでしか視聴という行為を自分の人生に組み込むことはできない。冒頭に書き、ソンタグが読者に投げかけた「メディアを通して惨禍を見るということはわれわれをよい方向へ導くだろうか」という疑問に対して、東北をおそったこの困難な惨禍をのりこえる希望とともに、ボクはある一定の条件下でイエスと答えようと思う。
そうやって自分が被災地にいなかったことが確認できたら、テレビを消して、ダイノジが言うようにわれわれは「品格をもって健康に生き」ればよい。自分がなすべきことをそれまで以上になせばいい。願わくばそのなすべきことが邪悪でないように努力すればいいのだ。



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しかしスーザン・ソンタグの『他者の苦痛へのまなざし』にはふたつの問題がある。
ひとつはソンタグが映像を議論するために題材とした戦争がもつ、その発生のメカニズムがいちども問題になっていないことである。まるで世界中の人間がみなすべて等しく戦争に嫌悪を抱いていると考えていることだ。市民感覚でいうとだれだって戦争はいやなはずだ。しかし戦争発生のメカニズムは市民の「いや」という感情をこえて機能する。その機能の重要な一部として働くジャーナリズムや映像を論じるのに、「戦争は悪」という一方的で市民的な価値判断だけで論証をかさねても、より大きな枠組みのなかで働く戦争は捉えられないのではないか。戦争発生のメカニズムはそれほど単純な図式ではない。誰だっていやなのに、その抵抗そのものが戦争を引き起こすことだってあり得るのだ。戦争を主題とする映像を語るのに、市民感覚の戦争観を基礎として論を進めるのはソンタグのような世界的知識人がすべきことではない。
また二つ目は、惨禍の映像を見るものが同情と恐怖を感じながらもその一方でそれを求めているという主題にたいして、せっかくバタイユの『エロスの涙』まで持ち出しておきながら、その先にあるはずの人間の負の部分に踏み込むことなく一般的な戦争忌避に引き返してしまうところである。中立であろうと欲するジャーナリズムの意志の裏側には、イデオロギーよりももっとずっと恐ろしい人間の性的な衝動に根ざす破壊と破滅の欲望がある。だからこそ残虐な写真が存在し、そもそも残虐な行為がなされ、それがジャーナリズムによって広げられ、戦争というものが発生するのだ。写真ははからずもその信じたくない破壊と破滅へのエロスを映し出す。映像が映し出す以上、この問題は「苦痛へのまなざし」として避けて通れないはずなのだが、ソンタグの論理はそこを省略してしまっているような印象を受ける。
結論めいたことを言うと、この『他者の苦痛へのまなざし』は短すぎる。単行本で130ページ弱であるが、このテーマを扱うのであれば少なくともその3倍は必要だったような気がする。だからソンタグらしい着目の鋭さ、明快で理論的な文体、それと多くの例証をもっていながら、どこか論理的な組み立てが弱い気がしてしまうのだ。

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