身体拡張を得た潜在願望 ツイッターとパニック

今回は、社会学において賛否はあれども重要な位置をしめる2冊の本を紹介しようと思う。
  1. 『グーテンベルクの銀河系』 マーシャル・マクルーハン
  2. 『オルレアンのうわさ』 エドガール・モラン


1. 『グーテンベルクの銀河系』マーシャル・マクルーハン

イギリスの幻視者でもあり画家でもあり詩人でもあるウィリアム・ブレイクは「エルサレム」という詩にこう書いている。
もし知覚の器官が変わるとしたら、
知覚の対象も変わるらしい。
メディアとは身体の拡張であると、トロント大学の文明批評家でもありメディア論学者でもあったマーシャル・マクルーハンは言う。テレビは視覚の拡張であり、電話は聴覚の拡張であり、車は足の拡張であり、衣服は皮膚の拡張である。有限的に閉ざされた身体機能から人間がより大きな自由と発展をのぞむのであれば、われわれはその身体機能にかわるなにかを見つけだすか、その身体機能を拡張するよりほかに方法がない。マクルーハンの言うメディアとは、身体拡張として生みだされた器機のことである。だから物理的な技術革命によって人間はたえず「感覚の比率」を修正しつつ暮らしている。「目の時代」もあれば「聴覚の時代」もある。すでにして、活字やハードディスクといった外部記憶装置を発明したわれわれは、古代における知識伝承者がもっていたような長文暗記能力を失っている。『平家物語』を最後まで諳誦できる現代人などもういないだろうが、当時多くいた琵琶法師はその能力をみなもっていたのだ。
おなじトロント大学教授でマクルーハンにも大きな影響をあたえたハロルド・イニスは、自著『帝国とコミュニケーション』で、国家の成り立ちにおいて知識の保存方法があたえる多大な影響を指摘している。石盤、羊皮紙、パピルス、インキュナビュラ、活版印刷と、数百年単位でかわる知識保存のテクノロジーの変移が、国家の価値のみならず、国家形成においてもその根底部分から影響をあたえているというのだ。人間ひとりひとりが自分自身の「感覚の比率」を修正しつつ生きなければならないのであれば、国家もおなじ「比率の変動」を乗り越えなければならないのだろう。そして知識保存、つまりメディアの変化がおこるとき、すさまじい葛藤がおこると、マクルーハンは『グーテンベルクの銀河系』の中で書いている。
ブレイクの詩が示唆するように、あるいはイニスの国家形成論にもあるように、メディアとはたんなる「情報の入れ物」ではないということである。これをマクルーハンは彼のなかでももっとも有名な箴言「メディアはメッセージだ」という言葉であらわした。
われわれはつねに情報の内容そのものを主題と思い、重要であると解釈し、コンテンツをおいかけてきた。しかしわれわれがみているものはテレビというメディアそのものであり、映画というメディアであり、本というメディアを見たり聞いたり読んだりしているのである。われわれはあたえられたメディアにしたがって思考を組み立て、感性に影響をあたえ、文化を形成しているのである。なぜならばメディアというものは身体機能の拡張としてはじまっており、目や耳や言葉やあるいは神経や脳の拡張として、情報を伝達する能力そのものが重要であるからだ。身体のある一部分、例えば視覚の機能になにか固定的な意味があるわけではない。視覚は永続的で根本的なメッセージなどもたないのだ。
これに関しては、映画化された小説だとか、おなじ情報や事件をちがったメディアで摂取する場合の差異といった具体論で説明することもできる。しかし最近の身近な例をあげるとすれば、やはりツイッターの流行がわかりやすい。ツイッターの成功は使いなれたインターネット経由の情報伝達の様式を変更することで、利用者の身体をうまく拡張できたことによると考えていいだろう。単に文字数を制限するだけで、われわれはメッセージ(情報の本質)さえもかえて対応し、あたらしいコミュニケーション、つまり口頭や聴覚の代替機能として利用してみせるのだ。意志や命令、計画といった内容には古くから拡張機能としてのメディアが存在したのだが、それ以下の無意識域にちかいところにあるつぶやきや独り言、かるい思いつき、あるいは潜在願望といったものが拡張される歴史はなかった。ツイッターはその部分が社会的に拡張されるメディアとして登場し、実際われわれは日々、いままでの人類史では書き留められることのなかった無意識層にちかい部分の意識を社会のなかに送り出すことに精を出している。人類は、あたらしいメディアによってあたらしい器官を得て、あたらしい意識を拡張する能力をえたのだろう。


2. 『オルレアンのうわさ』 エドガール・モラン

1969年、フランス北部の地方都市オルレアンにおいてひとつのうわさが発生した。街の洋服屋の試着室に入ったまま、数人の女性がそれきり行方不明になったというのだ。不審に思った恋人、あるいは夫が地下にある試着室にいってみると、その地下室には地下道が通じており、行方不明になった女性たちはその地下道を通って売春組織に売られていたというのだ。街はこのうわさで持ちきりになる。オルレアンの中心部にあった洋服店6店はうわさを否定し警察もそのような被害届は出ていないと証言するが、加速度的にひろまるうわさで6店の洋服店は市民の攻撃にあい警察が介入するまでに事件は発展する。
『オルレアンのうわさ』はこの事件をしったエドガール・モランが調査した「うわさ」に関する社会学の本である。
うわさ自体の出所はモランの調査ですぐにわかる。もっとも早い時点でこのうわさをはなしていたのは街の女学生だった。モランは少女期後期の女性がもつ性への怖れと憧憬が根も葉もない、むしろ彼女たちでさえ本気で信じていたわけでもないこのうわさの原型を作ったとみる。それが、いつのまにか洋服店そのものへの憎悪にかわる。そのすぐ背後には街の洋服店がすべてユダヤ人の経営であったという事実があった。ユダヤ人への憎悪という勢いをえたうわさはまたたくまに燃え広がるが、警察と新聞が事実を報じると、洋服店の試着室といううわさは鎮火した。しかし本体を失って四散したうわさの火だねは、ユダヤ人と警察との癒着、ナチスとの関連、そもそも新聞がユダヤ人擁護のキャンペーンをはらねばならないほど、フランス人とユダヤ人のあいだには深い溝があるという認識をひとびとにあたえてしまった事実のなかでくすぶるのであった。
この「オルレアンのうわさ」は日本でも多くみられ、現代では「都市伝説」と呼び名がかわるだけである。もっとも有名なのは関東大震災で被災した東京で、強制連行してきた朝鮮人が井戸に毒をいれてまわっている、というものである。うわさそのものの悪質さに加え、実際に多数の朝鮮人がリンチされ虐殺されている。アメリカ白人社会に根強い、黒人暴動の恐怖とおなじメカニズムがここでは働いている。
時代が下ると異文化への恐怖がうわさを支配する。海外旅行先の見せ物小屋になにげなく立ち寄ると、あきらかに日本人とおもわれる人物が手足を切断された「だるま」状態で見せ物にされ、おなじ日本人に助けをよんでいる、といった内容である。場所がインドであったりタイであったりとバリエーションは多いが、どれも共通するのは日本語の通じない閉鎖環境に閉じ込められ、自力で脱出できない状態であることだ。このうわさが流行した80年代に、猛烈な勢いで日本人が海外旅行をし出していることを考えると、単純な恐怖感がそのまま都市伝説となったと考えてよいだろう。
おなじ異文化への恐怖が、80年代後半からは流入に対する恐怖にかわる。出稼ぎイラン人が多くあつまる東京東部では、中東の男に少女がレイプされ殺されたといううわさが次々とでるようになったのだ。そのような事件はないと警察が発表しても、うわさは消えることがなかった。上野公園に何千とあつまるイラン人男性の「むれ」の習慣と文化を理解するのに、われわれ日本人はおおかた30年かかったということだ。
さらにその中東男性が代表する流入するオリエンタリズムへの恐怖が、テロへの恐怖と合体するようになる。中東の男性に道を聞かれた女性が親切に答えると、彼はこう言う。「君はやさしい人だから教えてあげる。明日ぜったいに地下鉄に乗ってはだめだよ」。あきらかにオウム真理教による地下鉄サリン事件と911の影響をのみこみ、みごとに成長した都市伝説である。しかもテロという社会的に大きくあつかわざるをえない事件をごく私的なできごととして物語るために、テロ前日に犯人あるいはその組織内に属する人物とであってしまった市井の一般人という話者の設定までが巧みに変えられている。
ここで取り上げた例がみな悪意のあるものばかりなのは、好意の感情よりも恐怖の感情のほうがより強いため、うわさ自体も強力に根強く人口に膾炙するからだろう。しかし実際は好意により流布するうわさや都市伝説も多い。
どちらにしても、このような事実のないうわさが人々を混乱させ、形のないうわさが人々を不条理な行動にかりたてるという意味ではおなじである。これは、人の潜在意識の問題である。そのことを怖れるあまり、人は多くの場合そのことを夢みて待ち望むのであるというフロイトの解釈を援用するなら、これらは人の潜在願望である。こうなったらいいな、こうなったら怖いなという、一般社会のなかではまず口にしたり文字になおしたりすることのなかった、本人も気づくことのないまま抑圧された願望なのである。
だからこの潜在願望は、ごく限られた範囲での口から耳への身体の接触でしか流布しなかった。伝播の時間は長くかかったし、地理的な広がりも限定的であった。つまり今まで適切な情報伝達のメディアをもっていなかったのだ。
ところがわれわれ人類はつい最近において、この無意識層にちかい部分で生まれる潜在願望に対して非常に適切なメディアを拡張する身体の一器官として手に入れたのだ。確固たる意志でも命令でも計画でもなく、ぼんやりとした情報の伝達手段として、ツイッターという最良のメディアを発明したところなのだ。


今回の東日本巨大地震において、ニュースより早くチェーンメールが届き、ツイッターでは都市伝説ぎりぎりの情報がご丁寧に「拡散希望」とまで注釈されて、善意のカタチで届く。
「千葉に有毒の雨が降る」や「今月中に首都直下型地震がくる」などは現実に対する恐怖がそのままうわさになったものであり、「有名マンガ家が死亡した」などはゴシップが被害状況報告のなかにまぎれこんだ形式をとる。画像の間違いも多い。支援のために日本に派遣された原子力空母ロナルド・レーガンの写真といって掲載されているものの多くは、2003年に横須賀基地に原子力船としては国外初の配備となる原子力空母ジョージ・ワシントンのプロモーション写真であるし、ひどいものになるとソマリア地震の被害写真を陸前であると偽る悪意のすり替えもあるようだ。また有名なものでは関西電力や中国電力社員を名のる節電要請や、自衛隊からの支援物資募集といった人の善意に訴えるものが相当数人口に膾炙したし、あるいは東京や仙台では電力会社を名乗って女性の一人暮らし宅に押しいる被害が急増中という初期オルレアン型のものもある。
これらがすべて偽の情報かどうかの検証はできないし、気をつけるにこしたことはない。また火事場泥棒のような卑劣な犯罪も多いということは、阪神大震災で学んだことである。しかし検証できないところにこの手の都市伝説は生まれるのである。ただ、唯一言えるのは、この手の情報にはソースが明記されていないことであり、その情報もとを追っていっても、そのなかにだれ一人として自分のあつかった情報に最終的な責任をもつ者があらわれないということだ。ボクはテレビも新聞も好きではないが、すくなくとも既存のメディアは自分があつかった情報に対して最終的な責任をもつというメディア特性の基本的なルールは知っているし、実践している。もはや総数ではテレビの視聴者数をうわまわる勢いのニューメディアであるが、そのあつかいはあまりに無責任で、あまりに拙い。
現実が耐えられないほど悲惨であるとき、こうあって欲しいという願望に忠実であることもひとつの対処法かもしれない。自分にも何かができると思いたい気持ちもわかる。しかし、その他大多数のユーザがいま目の前の危機をのりこえる道具として利用している一方で、21世紀のニューメディアは、表に出ないはずであった個人の恣意的で利己的な潜在願望を危険なほど拡張する諸刃の剣でもあるのだ。
情報の入手が水や電気につぐほど重要であることは、被災地の現状をみてもよくわかる。だからこそ、われわれが新しく手に入れた身体は、脚の拡張である自動車のような「便利だが人を殺す機械」にならぬようにしなければならないのだろう。

最後になりましたが、今回の地震で亡くなられた方にお悔やみ申し上げます。


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