死んだ娘が歌った・・・

サルマン・ラシュディの新刊『ムーア人の最後のため息』のなかで、主人公の祖母であるベルは33才の若さで肺がんにかかり激痛にのたうち回りながら、娘であるオローラ、つまり主人公の母に対して自分の死体を力車かロバかバイクかなんでもいいから運搬手段に縛りつけるよう言いつけて「あっというまに」絶命する。この奇妙な遺言は、スペインの英雄エル・シド・カンペアドールが自分の恋人であるシエナに伝えたという伝説を踏襲したものである。エル・シドは死後、自分の亡骸を馬に縛りつけて戦場に送り返すよう言いつけた。そうすれば敵はその姿をみてエル・シドは生きていると思うだろうということだ。
このエル・シドのささやかな登場によって、この物語が衰退するムーア人の生きるイベリア半島に舞台をいずれ移すのだろうということは、冒頭において主人公がアンダルシアのベネンヘーリ村から逃げ出す部分をみなくてもおおかたの読者はわかるだろう。
しかも祖母は肺の病気で死ぬのだ。祖母の病気を受け継いだ主人公は、同じように肺の持病により呼吸困難がときおり発生する。アルハンブラ宮殿にあるという「ムーア人の最後のため息の間」が今後登場するのかどうかはまだわからないが、主人公のムーアはラテン語の言葉に真実をみる。
Suspiro ergo sum. ー 私は弱く息をする。
「生き死にを左右するのは意識でなく空気である」というムーアは、きっと弱い息(ため息)をついて死ぬ身であるのだろう。それはムーア人(モーロ人)が退却を余儀なくされるイベリア半島でのムスリムの悲劇的な衰退と重なっていくのだろう。
が、今はまだこの長い小説の10%程度しか読んでいないので、適当な推測はこれぐらいでやめておこう。

祖母ベルのこの奇妙な遺言は、ベルの住むインドとイベリア半島を結ぶためのちょっとした余談のかたちをとった修辞であろうが、この手の逸話は昔からなぜか人を惹きつける魅力をもっている。
この件についてもっとも有名なのは、モンテーニュである。彼は1580年に出版された『エセー』で死後のことを気にする人間について非常に興味深い考察をおこなっている。
イギリス王エドワード1世は自分が参加する戦争がすべて勝利であったことから、自分の死後はその骨を戦場にたずさえて行くよう皇太子に誓いをたてさせたという。またボヘミアの英雄ヨハン・ジシュカは、自分の死後に死体から皮をはいで太鼓をつくり、戦いの際にはその太鼓を打ちならすようにと遺言した。「神の恩寵が墓場にまでついて来て引きつづき遺骨にも及ぶという考え方」であるとモンテーニュは言う。
ある老人が死のうとするとき、見舞いに来たすべての貴族に自分の葬儀に列席することを約束させ、宮様に対しても宮家全員が葬儀に参列するよう命令してほしいと懇願しその約束をとりつけると、葬儀のすべてを指示したあと安心したように息をひきとる。モンテーニュは「これほど執拗な虚栄心をあまり見たことがない」という。しかしモンテーニュはつづけて、これと反対の、例えばローマの政治家マルクス・アエミリウス・レピドゥスが後継者に対して豪華な葬儀を禁じた遺言が人々に賞賛されていることにも疑問を呈する。「死後のわれわれが享楽することも認識することもできない出費や贅沢を遠ざけることも、やはり節制や質素というべきだろうか」。
この問題は葬儀というものが死者のものであるのか、残された遺族のものなのかという問題をはらんでいる。ソクラテスはどのように葬られたいかと聞く弟子のクリトンに対して「おまえの好きなように」と答えた。モンテーニュ自身とおなじくソクラテスも葬儀は残された人間のものだと考えていたようだ。
黒澤明監督の『影武者』は、逆に遺言もなく死んでしまった武田信玄の影武者が、死んでしまったはずの武将を演じつづけなければならなくなった悲劇である。だれかのふりをして生きるだけでも数奇なものなのに、死刑を言い渡されたはずのコソ泥がかの武田信玄を演じるのには無理がありすぎる。ありすぎるが、ますます台頭する織田信長を抑えるためにはその無理をなんとしでも通さなければならない。しかし、とうぜんそれもいつかは破綻する計画であった。武田家没落と同時に、コソ泥では想像さえできなかった異常な戦国武将の世界をかいま見た後、彼は破滅する。

また逆に、死んだはずの人間が魂や幽霊となってかたる物語も数多い。野坂昭如の『火垂るの墓』は終戦の昭和20年9月21日に阪急三宮駅で餓死した少年「清太」が、肉体を持たない幽霊のような存在となって、妹を亡くした経緯と戦争の悲惨をかたる物語である。
おなじく敗戦を背景として幽霊がかたる物語として、安部公房の『変形の記録』がある。満州から敗走する軍隊にコレラであることを理由において行かれた主人公は、死後、肉体をもたない魂となって将校の乗るトラックとともに移動する。トラックのなかでは将校が天皇陛下の写真を大事に抱え、最後の抵抗戦のための計画を話している。かたや戦時下の将校がもつ勝利への異常な執着と幻想があり、かたや肉体を失った人間が徐々に肉体のないことを認識する悲しさがある。それらが安部公房独特の不条理でアバンギャルドな結末で結びつけられる。
この『変形の記録』とついをなすものが『死んだ娘が歌った・・・』である。
一時期共産党に在籍していたこともある安部であることを考えると、この不思議な短編は労働問題や市民を搾取する社会構造への抗議であると読むこともできる。しかしそれだけでは、悲惨な境遇を書きながらもどこか滑稽でつかみどころのないこの小説の一部分しか認識できていない、とそう感じさせる不気味さがこの小説にはある。
「私はKさんが睡り薬にかわって、私に死ねと言っているのだと思いました。そう思うと、ほっとして、急に死にたくなりました。最初に十錠のんで、三、四分たつと、なにか恐ろしくてたまらないような気持ちになり、いそいで残りぜんぶを飲みこみました。棒クイになって、木槌でゴンゴンたたかれているような気がしているうちに、私はぐっすり睡ってしまっていました。」
東京にきて10日目に、主人公の「ウメ子」は恋人である(と思っている)Kから渡された睡眠薬を飲んで自殺し、魂だけの存在になる。自殺したのは売春宿の2階にある窓のない2畳間である。女中だと言われ出稼ぎにきたものの、宿の主人からは客をとらないことは家に仕送りをしないということだと煎じ詰められる。その主人がウメ子の死体を見て大声で罵りながらも実家にあてて見舞金の5万円と事の経緯がかかれた手紙をカワセで送る。その手紙についていけば家に帰れると気づいたウメ子は、3日目にしてふるさとの実家にたどりつく。手紙をあけた病気の父は先にカワセをみて気が狂ったように「フアフアフア」と笑い、そのあと一緒に入っていた手紙をみてばったり倒れ込んでしまう。勤め先の製縄工場から帰ってきた母はカワセをみて、みんながコッペパンを1日1個たべつづけると何日もつか計算し、そして妹もおなじ店で働かせてもらうために上京の準備をする。ウメ子は両手をひろげて阻止するが、妹は肉体のないウメ子を素通りしてしまう。
売春宿にくるまえは、ウメ子は紡績工場で働いていた。悲惨な労働環境だがそれでも働き口があるだけましである。しかしウメ子は工場長によばれ指名帰休をつげられる。家には病気の父と母と妹と3人の幼い弟がいる。工場からの帰り際に班長がいった言葉を思い出し、東京の仕事を周旋してもらうことにする。しかしそこは売春宿であり、そこにたずねてきた工場時代からの知り合いであるKに、仕事のことを罵られ「犬は自分で死ぬことができないが、人間は自分で死ぬことができる。それができないなら犬みたいにキャンキャン鳴いてろ」と、Kにとってはたぶん遊びだった女を処理するために自殺を仕向けられる。自分でも納得していない仕事であるだけに、そこを恋人(と思っている)男に責められるのは辛かろう。ウメ子は素直に睡り薬を飲みほして、肉体のない魂だけの存在になるのである。
この小説のなかでは、都会を海にたとえる比喩がおおく使われている。売春宿から逃げ出すことができなかったのは、どうせ逃げ出しても海におぼれるように道に迷うにちがいないとわかっていたからだ。
「東京には、数えきれないくらいの人がいて、数えきれないくらいの町があるのに、どの人もどの町も、見分けがつかないほどよく似ていて、いくら歩いても、おなじところにじっとしているような気がして、ちょうど海のような町なのです。どこにいても、いつでも、みんな道に迷っているのです」
「町も海、駅のプラットホームも海、汽車も海、工場も海、そしてきっと私の家も海・・・」
すべてをストップウオッチではかる工場の班長からも、売春宿とぐるの工場長からも、恋人のKからも、売春宿の主人からも、すべてをうまく丸め込まれ、搾取され、すべてに対して受動的に生きるほかなかったウメ子が自分のおかれた状況と自分自身を正確に認識するためには、労働や貧困がしみついた肉体から離脱する死しか方法がなかったのだ。泳いでも泳いでも永遠につづく海のイメージは、ウメ子が生きる辛い受動の人生と重ね合わせて考えることができる。「行き着いたと思っても、それは岸ではなくまた別の海かもしれない」と感じる自分の人生を読者に伝えるためには、ウメ子は死んで幽霊にならなければ「語る」という能動的な行動はおこせなかったのである。
『変形の記録』にしても、戦時中の軍人にしみついた洗脳思想から自由になるためには、死ぬことしか他に方法がないのだ。それは『火垂るの墓』の悲惨な少年についてもおなじである。伝えようとおもうその内容が異常であればあるほど、異常の中でかたることはむつかしい。異常を正常にかたるためには、抜け出せないはずの現実から一歩引いた位置に立たないといけない。このジレンマを解く唯一の方法が死であり、死んでしまった以上、語り手は魂や幽霊でなければならない。
死んだものが語る技法は、そのためのあると言えるだろう。

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