震災とカネッティ『群衆と権力』
前回の記事で、中井久夫著・編の『1995年1月・神戸 「阪神大震災」下の精神科医たち』は絶版であると紹介したのだが、みすず書房のニュースページによると中井久夫が被災後の50日間を記録した第一部のみを再編集し『災害がほんとうに襲ったとき』と題して4月20日を目処に復刊予定だそうだ。また、その続編である『昨日のごとく』も5月に復刊予定という。みすずのウェブサイトには「たくさんのお問い合わせをいただき」とあるので、やはりいま必要とされている本なのであろう。
しかも、ノンフィクションライター最相葉月の提案で「災害がほんとうに襲ったとき」の部分が電子化されてだれでも無料でよむことができるようになっている。
WEB(PC、携帯など): http://homepage2.nifty.com/jyuseiran/shin/shin01.html
ePub(iPhoneほか): http://homepage2.nifty.com/jyuseiran/shin/mae.epub
この本をいま読むと、いかに神戸の人たちが冷静沈着にかつ人間性を損なわずにあの危機を乗り越えたかに、作者が多くの部分を割いているのがわかる。当時、神戸・阪神間では、「もしこれが神戸以外で起きていたらきっとこうはならなかった」というような意見がおおく、ボク自身もその意見に汲みしたものだった。平常時には少々過剰で他地域の人には疎ましくも感じられる神戸の地元愛が、少なくとも被災時においてその強固なコミュニティーの結束を守ったのだと。
これに関しては予想が外れたというしかない。「神戸・阪神間は」ではなく、少なくとも「日本は」と言うべきであったと、今回の震災をみて思う。
中井久夫もこの本のなかで引用するカネッティの『群衆と権力』には、民衆がメルトダウンをおこすことでいっきょに暴力的な群衆にかわってしまうプロセスが書かれている。それはカネッティが群衆の情緒的支配内容によって分類する5つの群衆タイプ論のなかの「追撃する群衆」にあてはまる。そもそも群衆の成立は、未知への恐怖に根ざす。われわれが通常おこなう生活習慣、儀礼、建築、法律といったおよそ人間がつくりだしたもののほとんどすべては他者というものへの恐怖から発生した「接触恐怖」が根本的動機となっている。その「接触恐怖」への転換的解決として、有事において人々は群衆と化すのである。カネッティの研究家でもあるユセフ・イシャグプールはその著書『エリアス・カネッティ』において「群衆とは社会ではなく、社会の転覆である」と言う。
しかしながらカネッティは群衆のなかではあらゆる差別が存在しなくなるとも言う。「接触恐怖」を乗りこえる方法として群衆が発生した以上、そのなかでは「恐怖」は存在せず、一時的ではあるが「平等」がうまれる、という。イシャグプールの言う「社会の転覆」というものも、群衆誕生以前に存在していた社会的制約、つまり人間のあいだの距離、区画、差別、序列、格式、儀礼、職務、そして権力といった「社会的なもの」の転覆であるということだ。
われわれがかつて神戸で見、いままた東北で見ている、惨禍のなかでも人間性を失わない被災者の活動は、はからずも国家としての組織活動が崩壊したあとにあらわれる群衆としての平等が有機的に機能したものだと考えることができる。
カネッティは希望的な結論ばかりを群衆考察でおこなったわけではない。むしろ群衆のもつ動物的で本能的な破壊と暴力をとりあげ、さらにその破壊と暴力にたいして権力というものが関係するとき、一対多という公式が死というものを媒介にして、フランス革命以降いかに非情な歴史を形成してきたかを書いている。
しかしカネッティの特異なところは、そのなかにも群衆が解放する自由と平等が存在することを見逃さなかったところだと、イシャグプールも述べている。そのカネッティの懐の深さが、こんかいのさらに特異な「大災害下での組織化されていない日本人群衆の行動理論」といったレアケースにまで『群衆と権力』があてはまる理由となったのだろう。
『1995年1月・神戸』と『昨日のごとく』を読み終えたあとで『群衆と権力』を読むとまたちがった読み方ができるだろう。2度の大災害を乗りこえつつあるわれわれに、もしかするとそれは著者であるカネッティさえも越える発想を与えるかもしれない。その発想と思考が、われわれに惨禍を「乗りこえるちから」となれば幸いである。
しかも、ノンフィクションライター最相葉月の提案で「災害がほんとうに襲ったとき」の部分が電子化されてだれでも無料でよむことができるようになっている。
WEB(PC、携帯など): http://homepage2.nifty.com/jyuseiran/shin/shin01.html
ePub(iPhoneほか): http://homepage2.nifty.com/jyuseiran/shin/mae.epub
この本をいま読むと、いかに神戸の人たちが冷静沈着にかつ人間性を損なわずにあの危機を乗り越えたかに、作者が多くの部分を割いているのがわかる。当時、神戸・阪神間では、「もしこれが神戸以外で起きていたらきっとこうはならなかった」というような意見がおおく、ボク自身もその意見に汲みしたものだった。平常時には少々過剰で他地域の人には疎ましくも感じられる神戸の地元愛が、少なくとも被災時においてその強固なコミュニティーの結束を守ったのだと。
これに関しては予想が外れたというしかない。「神戸・阪神間は」ではなく、少なくとも「日本は」と言うべきであったと、今回の震災をみて思う。
中井久夫もこの本のなかで引用するカネッティの『群衆と権力』には、民衆がメルトダウンをおこすことでいっきょに暴力的な群衆にかわってしまうプロセスが書かれている。それはカネッティが群衆の情緒的支配内容によって分類する5つの群衆タイプ論のなかの「追撃する群衆」にあてはまる。そもそも群衆の成立は、未知への恐怖に根ざす。われわれが通常おこなう生活習慣、儀礼、建築、法律といったおよそ人間がつくりだしたもののほとんどすべては他者というものへの恐怖から発生した「接触恐怖」が根本的動機となっている。その「接触恐怖」への転換的解決として、有事において人々は群衆と化すのである。カネッティの研究家でもあるユセフ・イシャグプールはその著書『エリアス・カネッティ』において「群衆とは社会ではなく、社会の転覆である」と言う。
しかしながらカネッティは群衆のなかではあらゆる差別が存在しなくなるとも言う。「接触恐怖」を乗りこえる方法として群衆が発生した以上、そのなかでは「恐怖」は存在せず、一時的ではあるが「平等」がうまれる、という。イシャグプールの言う「社会の転覆」というものも、群衆誕生以前に存在していた社会的制約、つまり人間のあいだの距離、区画、差別、序列、格式、儀礼、職務、そして権力といった「社会的なもの」の転覆であるということだ。
われわれがかつて神戸で見、いままた東北で見ている、惨禍のなかでも人間性を失わない被災者の活動は、はからずも国家としての組織活動が崩壊したあとにあらわれる群衆としての平等が有機的に機能したものだと考えることができる。
カネッティは希望的な結論ばかりを群衆考察でおこなったわけではない。むしろ群衆のもつ動物的で本能的な破壊と暴力をとりあげ、さらにその破壊と暴力にたいして権力というものが関係するとき、一対多という公式が死というものを媒介にして、フランス革命以降いかに非情な歴史を形成してきたかを書いている。
しかしカネッティの特異なところは、そのなかにも群衆が解放する自由と平等が存在することを見逃さなかったところだと、イシャグプールも述べている。そのカネッティの懐の深さが、こんかいのさらに特異な「大災害下での組織化されていない日本人群衆の行動理論」といったレアケースにまで『群衆と権力』があてはまる理由となったのだろう。
『1995年1月・神戸』と『昨日のごとく』を読み終えたあとで『群衆と権力』を読むとまたちがった読み方ができるだろう。2度の大災害を乗りこえつつあるわれわれに、もしかするとそれは著者であるカネッティさえも越える発想を与えるかもしれない。その発想と思考が、われわれに惨禍を「乗りこえるちから」となれば幸いである。