サルマン・ラシュディ著『ムーア人の最後のため息』買いました!

筑波大学でのあの不幸な殺人事件以降、もうこのまま永遠にサルマン・ラシュディの日本語訳は読めないと絶望していた。ラシュディの著作で日本語訳されたものはすべて読んできた。『東と西』や『ジャガーの微笑』のような比較的軽いものは古本屋に売ってしまったが、その他はすべて書棚に永久保存している。『恥』なんかは間違えて2冊も買ってしまった。それもこれもラシュディの新刊はもう出ないと思っていたからだ。
1991年のあの事件では、出版社や書店や作家やペンクラブや警察やマスコミがどのように動いたか、いまでもよく憶えている。事件当日、紀伊国屋書店は全店舗から『悪魔の詩』を取り払い、マスコミは『悪魔の詩』をイスラム冒涜の奇書のような扱いをし、警察は犯行の翌日に帰国した筑波大学留学生のバングラディシュ人の捜査を打ち切り、書店では好奇とゴシップのおかげで上巻のみが爆発的に売れ、週刊誌は五十嵐教授が残した「壇ノ浦で殺される(階段で殺される)」という謎にみちたメモを執拗に取り上げ、唯一、日本ペンクラブは犯人の特定のできていない翌日の時点でこの犯罪が『悪魔の詩』による思想的な殺人であったと断定する声明を発表するというまともな動きをしたのだった。それは文化衝突の悲しい数ヶ月であった。だがそのときはだれもこのちょうど10年後にアメリカであのような大規模テロによる悲劇がおこるとは考えておらず、アメリカ文明があそこまでアラブ人を追い込んでいるとも気づかず、ましてその2年後にアメリカのあたまの狂った大統領がイラクに爆撃をしかけるとは思ってもいなかった。
いま思えば、五十嵐教授殺人事件は、日本が十字軍以来の西と東の憎しみの構図に巻き込まれるはじまりでもあり、ユーラシアが宗教戦争による怨恨に血塗られていることを日本人が身をもって知った最初の事件でもあったのかもしれない。



それが今年2月下旬、『ムーア人の最後のため息』が日本語訳になって出版された。この少々勇気ある訳者は『真夜中の子どもたち』とおなじ寺門泰彦で、出版社は河出書房新社である。生粋のラシュディファンでなくても、わるくなるいっぽうの世界情勢に毎日うんざりしている身にとってラシュディの日本語訳は朗報である。

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