ツタヤの矜恃とカットの苦しみ 「わが心のボルチモア」をDVDで観賞。

ツタヤの新企画「発掘良品」シリーズの中の1本。ツタヤはこういう企画をもっとすべきだ。リコメンドや口コミなどの横の広がりが伝播しにくい店舗型サービスでは、この手の企画は顧客の信頼を高め、リピートを産み、利益率をおしあげる・・・。と、軽薄なマーケティングコンサルみたいなこと言いましたが、この企画はほんとによい。
そもそもツタヤには「文化を扱って商売をしている」という気概がまったく感じられない。大きなパイをどこよりも大きな地引き網で引き上げようと、つねにスケールで勝負している。
これだけのビジネススケールになった以上、それは基本的にしかたのないことだ。いまさらツタヤに街の古本屋みたいに店主の趣向で品揃えを変えろとか、ビレッジバンガードみたいにターゲットを絞った提案をしろとかいうのではない。
ただ扱う商品が「映画」や「音楽」という文化なのに対して、その「文化産業」に属しているという雰囲気がまったく感じられない。大型といえども紀伊国屋やジュンク堂、丸善などの書店には感じられる「文化を扱う誇り」のようなものがまったくない。社名をみるに、あえて消し去った結果の成功だとも、たしかに思う。
しかし、その業界内でナンバーワンの立場になったものはつぎに何をしなければいけないのか。それは文化産業に限らず言えることだ。つまり、自身が属する文化圏の裾野を広げることだ。映画なら映画文化を広げ、音楽なら音楽ファンを増やし、車なら自動車文化を広め、ワインなら特定の銘柄にこだわらずにワインそのものの魅力をアピールすることだ。
最近元気がない、というかかつてほど人口に膾炙されないが、例えばスターバックスコーヒーはこれでもかというほど「コーヒー文化圏」というものを押し広げようとし、消費者はみなその「文化」の部分に150円おおく支払って満足していた。「To Go」はオシャレだったし、スリーブをつけたスタバの紙コップをもって出社するのはどこか知的なかんじがした。コーヒーを扱う以上、そのコーヒーがかかえる文化ともども広がっていかなければ、最終的なパイのサイズは大きくなりはしない。
ツタヤに欠落しているのはそこだ。映画を手軽に楽しめることで、圧倒的な数のコンビニエンス映画ファンを作り上げた功績はすばらしいが、こうして王者になったいますべきなのは、その文化産業の裾野を、店舗数以外の部分でも広げるべきだ。つまり、ツタヤが常にターゲットとしている「マス」の消費者に対して、いつも店頭を飾っている「マス」以外の商品に触れる機会をあたえることだ。それも限りある売り場面積を考慮し、決してロングテールに走らず、だ。
そういった考えの上で、つねにイライラしながらツタヤをみていた。だからこの「発掘良品」をみたとき、この会社にしかできない文化伝播のためのすばらしい企画だ! と喜んで5本(で1000円)借りたのだ。
しかし残念ながら、これぐらいで「文化を扱う誇り」は根付かないだろう。あくまでもこの会社は「カルチャー」を「コンビニエンス」に提供する「クラブ」なのだ。カルチャーそのものではない。
が、スターバックスコーヒーが2010年4月現在で880店。ツタヤが同じく4月時点で1383店。規模の点で遅すぎたということはない。やってやれないことはないだろう。とりいそぎ社名変更後、まずはあのクローン人間風アルバイトたちを手術台にしばりつけ、瞬きできないよう広げた瞳に目薬をさしつつ、黒澤明全DVDを視聴させて文化への矜恃とサービスマンとしての人間性を持つよう矯正するのだ。それがいい。
そうしてツタヤは、ツタヤにしか持てない矜恃を掲げ、文化の伝道者となればいい。

しかしこの企画の「100人が選ぶ」の100人ってだれなのだろう?

で、その「発掘良品」企画のおかげで近所の小さなツタヤでも借りることができた「わが心のボルチモア」を本日観賞。ポーランドからの移民家族の、3世代にわたる悲喜こもごものものがたり。
3世代だから日本で言うとサザエさんに近いのだろうか。サザエさんは移民ではないが、時代的に戦後であり、テレビの勃興であり、ほのぼのを良しとし、ノスタルジーを許可し、家族のとらえ方が今とは違うところが同じである。
ボクはアメリカに住んだことも移民したこともないので、ほんとうのところこの映画を一番おもしろくみた人がどんな人たちだったのかわからない。移民のおじさんがみたらなつかしく思い涙するのだろうか。だとしたらサザエさんよりも「三丁目の夕日」とかだろうか。こちら、圧倒的に「絵」の美しさがちがう。感謝祭のアバロンの美しさは、むしろこの始まり部分と最後の養老施設のサムを見舞うケイの場面だけをみてその他の中間部分でサムになにがあったか想像するほうが記憶の中ではよい映画になる、と思ってしまうほど美しい。
実際「その他の中間部分」では、そうやって想像したほどドラマチックなことも、ショッキングなこともおこらない。バーの経営と失敗、子供の結婚、孫、息子の商売が上手くいったり失敗したり、死んだと思っていた甥との再会、火事になりそうだったこと、実際火事になったこと、妻の病気、死、10年前が昨日のように感じること。歳をとればみな誰にでもある思い出だ。
監督のバリー・レヴィンソンはそんな誰にでもある思い出をひとつずつ丁寧に描いていく。丁寧に描くから時間が足りない。きっとどのエピソードもカットするのはつらかったろう。だから最終的に長くなってしまった。長くなった分だけ、この映画は「長く感じる」ようになったのだ。
なにか結論があってそこに行くためのプロセスなら観客のついてこれる範囲でカットすることもできる。しかし1家族3世代の物語を淡々と実際にあったように描くとなれば、カットの基準は曖昧で、まして脚本も自分が書いたものなら、いっそうそれは自分の思い出と照らし合わして検証しなければならなくなる。自分が体験した誰にでもあるような思い出を、ウソをつくことなく淡々とえがきながら、誰もがおもしろいと思うように、そのうちのどれかを削る。というとんでもない仕事をしなければならなかったのだ。
その複雑な仕事にバリー・レヴィンソン監督が出した答えは、ウソをついてエンターテイメント性をあげることでも、客観的な基準でくだらないと思われるエピソードをバサバサとカットしていくことでもなかった。映画全体がつねに優しいイメージで覆われているように、きっと自分の思い出からうまれたエピソードをすべて「優しく」あつかったのだろう。それは「優しい映画」という評価で一部は成功を収め、また一部では「長く感じる」失敗の原因にもなった。
ただもう一度言うが、アバロンの描写をはじめとして、単純な街の景色をここまで美しくえがけるのは優しいだけのイメージでは無理だ。またこの画面の美しさがそれ以外の欠点をおおかた補っている。ランディ・ニューマンの音楽もすばらしい。もしあなたが移民の生まれでお爺ちゃんが最近死んだのなら、生涯のナンバーワンの映画になるだろう。


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