「魔王」ミシェル・トゥルニエ(みすず書房)書評

「魔王」ミシェル・トゥルニエ

何度か偶然が重なると、それになにか意味があるような気になってくる。例えば、朝おきるとヨメ、あるいは母、あるいは夫や父が「これお隣にもらったんだけどドイツの手作りなんだって」といってドイツ製のジャムを持ってきてひとしきりドイツの食品はうまいだのまずいだの話す。会社に行くととなりの同僚が明後日からドイツ出張だといってあわてている。退社後、後輩がいいところだといって連れて行ったくれたのはドイツ風ビアケラーであった。
この男ないし女が車の買い換えを予定していたとする。選択肢はふたつあって、ひとつはVWだかBMWだかのドイツ車、もうひとつはプジョーだかシトロエンだかのフランス車。非常にはげしく葛藤しているその悩みが大きければ大きいほどこの日のこの偶然は彼ないし彼女に大きく影響する。
「そうか、やはりドイツはすぐれた製品を作り出すのだな」とか「やっぱプジョーにしよう」とかなんとか思いながら、普段なら見逃すささいな偶然に突如意味が、直接自分に影響をなげかける意味となる。
あとから考えれば、はじめのころのジャムなどの偶然は、だからつまり「兆し」となる。
車の購入でドイツ車かフランス車かぐらいの葛藤だとしたら重複する偶然もたいした影響はないかもしれない。しかしこれが人生の岐路であるとか報われぬ恋であるとかいう場合だと、その偶然が与える影響も複雑でより強力なものとなる。「兆し」が持つ意味も当然、形而上学的になっていく。

「魔王」の主人公は「偶然」はじまった「奇妙な戦争」によって幼児わいせつのえん罪から釈放される。戦場では鳩を飼い、馬で鹿狩りをし、ドイツ的な観念に惹きつけられ、軍事学校でスカウトマンをし、敗戦をむかえる。
読書を終え、主人公のたどった戦争の体験を思い返せば、この「魔王」という本の中には偶然につらなる「兆し」が山のように含まれていることに気づく。こども、担ぎ、鳩、鹿、馬、狩り、男根、ドイツ、ヒットラーユーゲント、近眼、学校と、それこそ多数の兆しが豊富に用意されており、読む人はその兆しを読み取って哲学的な解釈をしてみたり読み損ねてあとから気づいたりして楽しむことができる。
そのためには第一部でややガマンして主人公ティフォージュの手記を読まないといけないような仕掛けになっている。そこに山のような兆しが盛り込まれており、それはまるでロールプレイングゲームでダンジョンへ向かう港町で不思議な武器や食料をたくさん売っているようなものだ。あとからあの魔女が売っていた紫色のリンゴは、この傷を回復させるまじないだったのだと、記憶力があれば気がつく。
ロールプレイングゲームが人生の縮図とはいわないが、伏線や兆しという意味ではデフォルメした関連性が時間軸の中にわかりやすく浮かび上がるのは、人生の中で繰り返される「偶然」とその「兆し」をうまくあらわしている。
「魔王」はもう少し意地悪というか、哲学的である。なぜなら人生や人間の意識がRPGよりずっと複雑ですべてが絡み合っているからだ。記憶力の方もRPGより多少もとめられる。RPGが遊びであるように、「魔王」も基本的に哲学的で読者の意識と呼応する読書体験という遊びである。ただしその体験を得ようとすると、西洋哲学でできた巨大な伽藍を徘徊することになる。迷うことも多いし、読み損ねてあとから「あの部屋みてないの?」と、ルーブル美術館見学から帰った人がよく言われるような轍を踏むこともある。
しかしこの物語のあらすじは、ちょっとヘンなフランスの中年男が、少年愛で逮捕されたり、鹿狩りをしたり、森の廃墟に一人暮らしをしてみたり、軍事学校の住み込みとしてお世話になったりして、戦時中のドイツ的なものの深部にはまり込んでいきそのまま敗戦を迎えるというちょっとしたロードノベルだ。だから、なにも考えずに読んでもそれなりに楽しめるだろう。
と、軽く書いてみたが、本当はまれにみる高尚な小説だ。もうあとちょっと多く著作を出せればミッシェル・トゥルニエのノーベル賞受賞も近いかもしれないし、実際に受賞したとしても驚きはしない。それほどの作家である。

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