「終着駅 トルストイ最後の旅」

シネマポップで観賞。なんか偶然わりびきの日だったみたいで、1000円。ラッキー。
まだ明るい館内でお客さんを眺め回すと、ほとんどぜんぶおじいさん。そうか、そういうことか。ボクも歳とって仕事がなくなったら、こうなるのだろうな。年金なんてもっと少なくなってるから、大切に映画を鑑賞するんだろうな。割引券とか招待状とか集めたりして。
ということは学生のときと一緒じゃないか。いかにして金をつかわず多くの名作にめぐりあえるか、毎日がチャレンジだった。あのころは大毎劇場やヴェリテ、アクトシネマテーク、国名小劇、テアトルなんかが行き着けだったな。第七芸術劇場もシネリーブルもまだなかったころだ。
ま、そういうのはどうでもいいのだが、上映する映画によって観客の質や層、階級も民度も大違いする。そこを見るのもたいへんおもしろいことだ。


トルストイの妻ソフィアがトルストイの思想やその行動にたいして理解がなかったことは知っていたが、「世界三大悪妻」という言い方はしらなかった。ちなみにのこり二人はソクラテスの妻クサンチッペとモーツアルトの妻コンスタンツェだそうだ。
彼女らの妻としての行動や言動が、才能ある亭主にどのような影響を与えたかは分析のしようがない。その影響が悪影響だったのか好影響だったのかさえ、推測してみるしかない。「もしナポレオンがモスクワに入城していたら」とか「ヒットラーが絵描きになっていたら」とかの「もしも遊び」として表現するぐらいしか過去の歴史を捉えることができない。
いやいや、歴史どころか今の自分だってこの妻(夫)と結婚してなかったらどうなっていたか、わかる人なんていないはずだ。
藤子・F・不二雄のマンガで「分岐点」という短編がある。凄まじい夫婦げんかに嫌気をさした主人公のサラリーマンは、霧に覆われた公園に住む怪しいホームレスの手引きで人生をやり直す。かつて些細な理由でわかれた美しい彼女との、もうひとつの可能性に人生をまるごと鞍替えしてしまう。しかしもうひとつの現実は、もともとの現実よりもさらに「現実的」なシニックで覆われている。よくもないし、なにもかわらない。
もうひとつの現実にむかって霧のなかを歩いていく主人公を、もとの世界に住む子供が泣きながら呼び止める。「パパ、パパ、どうしてぼくをおいていくの?」
歴史の「もしも」遊びは酒の席の遊びですむが、自分自身のもうひとつの可能性など考えないほうがいい。藤子・F・不二雄先生のいう通りだ。この物語にハッピーな結末がくるなんて、どんな読者も初めから考えちゃいないだろう。「あの男の子はどうなったのだろう」と、暗い記憶が一生後ろ髪を引くことになる。
だからあえて極論すると、その才能ある人たちの妻が悪であったのか善であったのかなんて判定は、つまるところ歴史遊びの「もしも」程度の無責任な価値判断なのだ。
そもそも無限のはずの可能性を、「悪妻」「良妻」と二元的な判断に収縮させているところが言葉の遊びでしかない。

といった前提を自分では持ちつつ、一方でこの映画の原作が「ソフィアとトルストイとの愛」を書いていると知りつつ鑑賞してみる。
案の定、これを見た人は思うだろう、「ソフィアってほんとに悪妻だったのだろうか」って。

しかし、しかし、この自分の前提とこの映画のいわんとするソフィア像を前にしても、考えてしまうのだ。ソフィアがああでなければ、世界と言いすぎるならロシアは、もう少し早く「近代」を加速させていたはずだ。インターネットの特殊な「オープン」文化でようやく著作権の解放という考え方が一般的になったが、もしトルストイが著作権放棄していたら、この流れは若干早くなっていただろう。
また、映画にもちらっとかかれていたが、ソフィアは夫の臨終が近いことを知って専用列車にロシア正教の司祭を同乗させてきていた。高熱のトルストイがもし臨終にロシア正教の司祭を受け入れてしまっていたら、彼の宗教を超えた「愛の」哲学はどうなっていたのだろう。ジョンレノンは即死だったが、もし今際の時にオノヨーコがカトリック司祭を立ち会わせていたら、ジョンレノンの思想はもっと凡庸で非普遍的なものになってしまっていただろうし、オノヨーコはもっと嫌われていただろう。
けっきょく、トルストイの交わした契約にもかかわらず著作権は3年後にソフィアのもとに帰る。

ソフィアが悪妻か良妻かの判断は馬鹿げている、ということは間違いない。
周囲のトルストイ主義者との対立で加速されたところもあったとは思うが、しかし最後までソフィアはトルストイの思想が理解できなかった。
宗教を超える、著作権という法規を超える、そういう根本の部分で彼の「ロシアという大地への愛」を、もっとも身近な人間にわかってもらえなかったトルストイをみると、この映画がソフィアへのシンパシーを含み、悪妻という呼称が罪なものだと理解していても、ひどく不憫に感じてしまうのであった。


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