『セブンス・コンチネント』 ミヒャエル・ハネケ

ちょっと古いネタだが、2009年にイギリスの雑誌「エンパイア」が「落ち込む映画ベスト10」を発表した。「落ち込み度」の基準がいまいちわからないのだが、結果はそれなりに納得できるものであった。

1.「レクイエム・フォー・ドリーム」
2.「ひとりぼっちの青春」
3.「リービング・ラスベガス」
4.「道」
5.「21グラム」
6.「火垂るの墓」
7.「ダンサー・イン・ザ・ダーク」
8.「冬の光」
9.「リリア 4-ever」
10.「ミリオンダラー・ベイビー」

だそうである。

1位の『レクイエム・フォー・ドリーム』は、ヘロインやコカインといった麻薬が、貧困や孤独や自己嫌悪から抜けだそうともがくごく普通の人々を破滅させていく群像劇。残念にも「今の自分」から抜け出すためにさらにドラッグにはまっていく姿とその結末は、たしかに「落ち込む」こと間違いなしである。
『火垂るの墓』が6位なのが意外だったが、戦勝国から見たらそうなるのだろうか。そうであるなら戦勝国のイギリスやアメリカ人の方がこの映画を「おもしろく」みれたのではないだろうか。自分たちのしたことが、その末端でどのような結果を無実の子どもたちに与えたのかを見るのはよい経験じゃないだろうか。日本人には絶対できない、「戦勝国ならではの楽しみ方」かもしれない。
どこが落ち込むのか不明な『道』や『ミリオンダラー・ベイビー』を別にして、この中でのボクのオススメは『ダンサー・イン・ザ・ダーク』である。ラース・フォン・トリアーの手ぶれカメラに酔ったあと、盲目の母の最期に精神までグラグラになり見終わった後はほんとに吐きそうだ。


ミヒャエル・ハネケ監督『セブンス・コンチネント』をDVDで鑑賞。おそまきながらの「MYハネケ祭り」の一環。
どこにでもいるようなごく普通の家族が、観客にはまったくわからない理由で一家心中するものがたり。
まず冒頭の自動洗車機での洗車シーンからなにか落ち着かない。乗っているはずの人間がみえない。自動洗車機だから乗っていないのかもしれない。でもやっぱり人物の影がシートにみえる。ここでは、洗車する人間を描いているのではないのだろう。映しているのは洗車機の方なのだ。そんな描写の映画はあまりみたことがないので、どうしても落ち着かない。
家の中の描写も、ドアノブ、コップ、コーヒーメーカー、シリアル、洗面台、歯磨き粉と、物ばかりが映る。人物の顔はみえない。「トムとジェリー」でのジェリーの飼い主の描写を思い出す。カメラはトムとジェリーとおなじミクロの位置にあり、飼い主である人間は声とその足下しか映らない。子どもの時に見たあのシーンの不安感みたいだ。
コーヒーカップを置いたお母さんは、そのままスクリーンの外側に出て行ってしまう。カメラはそれを追わないし、スクリーンには朝食の置かれたテーブルが映されたままである。
シーンのあいだをつなぐブラックアウトの微妙な時間も落ち着かない。長すぎるのだ。かといってそれが意図的なものだと意識するほど長くはない。
家族は買い物にも行く。冷凍野菜、パン、ワインとつぎつぎにカートに入れていく。それがまた落ち着かない。そんなどうでもいいシーンなのにえらく具体的な描写が不安なほど長く続くため、なにを買っているか、どうしても見てしまうのだ。レジでは大げさなほど数字がクローズアップされる。なんだろう、この数字の繰り返しは・・・。
そのなかに少ないエピソードと両親への手紙が挿入される。娘エヴァは虚言癖があり、「目が見えなくなった」と先生にウソをつく。物語の最後のほうでは授業中ずっとお腹が「かゆい」といって掻きつづけて先生にしかられる。
母親はちかごろ親を亡くしたようだ。弟はそのためこころの病気をわずらっており、食事中にいきなり泣き出したりしてしまう。母も映画後半、たまたま通りかかった交通事故現場をみて泣き出す。
「落ち着かなさ」を抱えたまま家族の日常がすすむ。すすむというよりは「回る」といったほうがいいかもしれない。それも1987年から89年までのあいだの、それぞれの1日だけを描写する。3年たっても家族のやることは一緒である。物、数字、反復、微妙な空間、「落ち着かなさ」、それからやっぱり洗車。
3年目にしてようやくものごとが動き出す。両親に会いにいき、父は会社を辞め、母は事業を弟に譲り、また洗車したあと車を売り、銀行ですべての預金を引き出し、大量に買った豪華なごちそうで晩餐した翌日、家族3人は家中の物を徹底的に破壊しだす。アルバムの写真や本を破き、服をひとつずつ引きちぎり、レコードを割り、ハサミでソファーを切り裂き、カーテンを破き、タンスをハンマーで打ち砕き、テーブルをチェーンソーで粉々にし、お札を切り裂いてすべてをトイレに流してすてる。昨晩、娘のエヴァがいっしょうけんめい描いた絵も、なんの躊躇もなく引き裂くのである。
破壊をはじめるまえに父は言う「秩序立てて順序よく」。たしかに破壊の描写は、まるで家具かなにかの組み立て説明ビデオを逆回しにしているように秩序だっている。だから人間はまたしても映らない。作業用手袋をはめた手がなんでもかんでも破壊するのをアップで見せられるだけで、それを実行する人物がだれなのかもわからない。「物」の部分だけが存在し、ひたすら壊れてなくなっていく。
ずっとその破壊をみていると、なんだか逆に笑えてくるほどである。「もういいや、やってしまえー!」と。ところがそこに、突如として人間的、有機的なものが挿入される。娘が大事に飼っていた熱帯魚を、父がまちがえて水槽ごと破壊してしまうのである。ぴちぴち跳ねながら死んでいく熱帯魚、それがまた黒くて異様にグロテスクなのだ。大泣きする娘。「魚はダメだったんだ・・・」と、なんとかこのわけのわからない人たちの価値観についていこうと思うのだが、かえってそれが混乱を招く。さっきまでチェーンソーに切り刻まれるタンスをみて笑いかけていた気分が、これで一挙にゆりもどされる。
鬱な方向にもどされたまま、最初に娘が死ぬ。母親から渡されたジュースを飲んで「これにがい」といい、それ以降はもう画面に出てこない。この一家がなぜ死ぬのかわからないことなど、こうなったらもうどうでもよくなってくる。
見てられないほどの苦労をかさねて、つぎにやっと母も死ぬ。溶かした睡眠薬を飲み込むその苦痛の表情をみるのは、地獄のつらさである。全預金を引き下ろすとき、投資をすすめる銀行員に母は「オーストラリアに移住するんです」とこたえていたのを思い出し、「ねえオーストラリアいくんじゃなかったの? はやくいこうよ。たのむからオーストラリアいってくれよ!」と、願ってしまう気分である。でもふらふら歩いている姿をみたのを最後に、やはり母ももうこの映画には出てこない。
かわいそうに父は吐きもどしてしまって、死ねない。また大量に睡眠薬をのみこみ、壁に家族3人の名前と死亡日、死亡時間を書く。自分の欄はあけておいて。最後までつけておいたテレビは砂嵐になっている。その後、この家族がいこうとしていた「セブンス・コンチネント(7番目の大陸)」のような海岸の風景が映る。オーストラリアのようでもあるし、あの世のようでもある。落ち着かないという意味ではこの風景がもっとも落ち着かないかもしれない。
それで映画は終わりである。


デビュー作ではまだ自分の個性を探究中でその後めきめきとその人独自のスタイルを確立していく作家と、はじめからすべてを持って登場しそのあとで丸みをおびてくる作家と2種類あるが、ハネケはまちがいなく後者である。この映画には「ハネケ的なもの」の大部分がつまっている。断言してもいいが、傑作である。
しかし、鑑賞にはいくつかの条件がある。まず第一に「調子の悪いときにみない」である。なにをやってもうまくいかない、とか思っているときには絶対におすすめしない。次に「家族でみない」。さらに「多重債務者はみない」。「プレゼンのある人はその前日にみない」などである。
落ち込む映画、もしかするとボクにとってはこれが1位かもしれない。




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