「読み」の多様性 『アクロイド殺し』

19世紀にサントブーヴが近代批評を確立するまでは、批評といえば読んだ本の印象を主観的に述べる読後感想の域を出ないものだった。彼は、膨大な資料と出典を精査することで文学作品を研究対象とした、学問としての批評芸術をはじめたのだった。
しかしサントブーヴの方法論は、あくまでも作品の本質に到達するにはそれを創造した作者を研究すべきであるという立場であった。作者の生い立ち、環境、思想、人格、時代といった作者をとりまく社会性に作品の本質と意味をもとめるということは、前提条件として作者はその作品についてすべてを把握しているという事実が必要になる。
だからプルーストは、作者の著述に向かう表面上の意識だけが作品を作っているのではないと、彼の唯一出版された評論『サントブーヴに反論する』において語るのである。
サントブーヴのやろうとしたことは、作品のなかに作者が込めた、あるいは隠したその意味を、作者の背後にある社会性から推測し、摘出しようとする試みであった。
ところがヴァレリーなどの新しい批評の動き、フロイトによる心理学の発展、とくにその後発生するシュールレアリズムの「無意識下の意識」という概念の影響から、サントブーヴの方法論はいっきょに時代遅れとなってしまう。ひとつの作品の中に存在する「本質」や「意味」はひとつではなく、読者と作品との共犯関係の上に成立する多様な結論として存在するものだと思われるようになったのだ。
いまでも小説の意味の「本質」というロマンチックで理想主義的なものを追い求める読者も多いが、けっきょく小説に書かれた「本質」とは「文字のならび」であって、余分な装飾や無駄話を排して抽出した意味の「核心部分」といったものは残念ながら存在しないし、したとしてもそれを「文字のならび」から抜き出すこともできず、ましてそれを表現し他者に伝えるためには、再度「文字のならび」に書きもどさなければならないというジレンマを抱えているのだ。
だから、文学とはあらゆる「読み」を許容する無限の多様性を持ちえていると言えるのだ。

それは読者個々人のおこないによるものだけではない。今、われわれはわれわれの生きる21世紀の「読み方」を実践しており、その読み方から自由になることはできない。われわれは16世紀にシェークスピアが読まれたようにシェークスピアを読むことはできないのだ。われわれがはじめて手に取った瞬間でさえシェークスピアは古典であったし、シェークスピアが『ハムレット』を上梓したとき、それは古典ではなかった。リバプールの片田舎で彼の実質的な処女作である『オデット』が上演されたとき、彼の属するギルドは芝居において高い評価を得ていなかったのだ。その芝居をはじめて見た人々と、われわれが読む『オデット』とのあいだには、その本質と意味の解釈において決定的に埋めることのできない溝があるのだ。
同じように、17世紀に書かれたとき、ドン・キホーテも17世紀的な読み方をされていた。当時は国が定まっておらず、戦争は近く、人々は生き方の手本を古の兵士たちにもとめ、騎士道物語が空前のブームであった。
ボルヘスは短編『「ドン・キホーテ」の著者、ピエールメナール』でその「読み」の無限の多様性を、ピエールメナールというひとりの作家のひどく極端で画期的なこころみによって表現している。
ピエールメナールは、20世紀においてセルバンテス作の『ドン・キホーテ』を一字一句違えることなくリライトすることで、17世紀には存在しなかったまったくあたらしい『ドン・キホーテ』の「読み」を創造するのだ。それは彼の解釈上のドン・キホーテであってはならない。一字一句おなじものを再度構築する、つまり『ドン・キホーテ』に一切ふれることなくその意味をすべて書き換えることができるということなのだ。作品の周辺条件を変えるだけで作品はその意味の一切が豹変してしまうし、本というものはつねにそうやって無限の意味や本質や解釈や読解をまき散らしながら歴史を吸収していく。われわれがロマンチックに追い求める「作品の意味」とは、つまりそういう読者個人の幻想に立脚したものなのだし、セルバンテスがほんとうは作品の中に隠したかもしれない「意味の本質」も、われわれの前ではピエールメナールが創造しようとした「新しい意味」と同列に並ぶしかないのである。
文学とくらべて比較的読解の多様性を許容していないように思われる推理小説においても、それが文字と言語の羅列である以上、「読み」は無限の可能性を持っている。

ネタバレ注意!
以下の文章にはアガサ・クリスティーの長編推理小説『アクロイド殺し』の核心部分に関する記述が含まれています。

アガサ・クリスティーの長編推理小説『アクロイド殺し』は、メタ推理小説の構造さえもった驚異のミステリーである。そこでは推理小説の常套手段である「語り手」の位相が逆説的な意味において物語の鍵となっている。
エドガー・アラン・ポーの発明した「名探偵」という、天才的な頭脳をもった主人公が驚異的なひらめきと緻密な事実検証の能力を行使するためには、それをそのあと理解し、さらに遅れて理解するはずの読者と結びつける橋渡し役をする狂言回しが必要になる。狂言回しがいなければ、よほど独り言の多い名探偵でないかぎり、われわれはなぜこの人物が犯人で、なぜ彼は殺人をおかし、どんなトリックをつかったのか理解することができない。天才でない狂言回しが「それはいったいどういうことです?」と名探偵に間抜けな質問をしてくれるおかげで、われわれは名探偵の突飛な行動や理論がようやく理解できるようになるのだ。
それはポーにおける名もない「私」という一人称の人物であり、アーサー・コナン・ドイルにおいては医師であるワトソンであり、アガサ・クリスティーにおいてはヘイスティングズ大尉がその「間抜けな」役目を担う。しかもポーにおける「私」が事件の一部始終を記録したものがそれぞれの推理小説作品となっているように、その影響下にあるコナン・ドイルでもとうぜん伝記作家でもあるワトソン医師がシャーロックホームズの活躍を事件簿として記録し整理したのだし、クリスティーにおいてはエルキュール・ポアロの友人でもあるヘイスティングズが事件を記述したものが小説の形式になったという体裁をとっているのである。
つまり語り手は物語の進行の中に入り込んでその全容を見て理解していながらも、同時にその外側に位置する作者や読者と近いメタフィクショナルな立場をも持っていることになる。だからこそわれわれ読者は安心してワトソンやヘイスティングズの語る驚くべき事実に驚き、彼らの書き残したすべてを完全に信じることで推理という楽しみに没頭できるのだ。
ところが『アクロイド殺し』という推理小説自体にしかけられたトリックは、連綿とつづくこの語り手の位相というセオリーそのものの中に存在しているのであった。読者はまさか狂言回しであり間抜け役でありいわゆる「ワトソン役」である「語り手」そのものが犯人であるとは思ってもみない。もしそんなことがおこるとすれば、今まで安心して信じ切ってきた事件の記述、つまり小説そのものの信憑性が瓦解してしまう、と思う。ところがこの『アクロイド殺し』を読み返してみると、たしかに故意に省略した部分はあっても嘘は一切かかれておらず、語り手がポアロや警察に話したであろう内容そのものが記載されているのを発見する。笠井潔が言うように、ここでは手記であるはずの物語を、読者が勝手に一人称小説だと思い込ますような作者の企みがあり、しかし作中には語り手がこれは手記だと告白する場面がきちんと用意されている。しかも語り手である狂言回し役が、ヘイスティングズからこの小説ではじめて登場するジェームズ・シェパードという医師に巧妙にかえられている。さらによく見るとタイトルが「アクロイド殺人事件」ではなく「殺し」となっている。書いた本人が犯人であることがほのめかされているとも言える。
アメリカの推理小説作家で「推理小説20則」でも有名なヴァン・ダインは、この『アクロイド殺し』を推理小説として「フェアではない」といって酷評した。逆に英国の推理小説作家のドロシー・L・セイヤーズは『探偵・ミステリー・恐怖傑作選』というアンソロジーの序文において「必要なデータはすべてそろえられている。見過ごしたのは読者だ」といってフェアの立場をとった。この「フェア・アンフェア論争」はいまでもつづいており、『アクロイド殺し』をどうみるかで、推理小説への各自のスタンスが理解できるまでになっている。

ピエール・バイヤール著『アクロイドを殺したのはだれか』は、「読み」の曖昧さを逆手にとることで徹底的に反証をくわえ、最終的には作者を凌駕するところまでいった評論である。
バイヤールはそこに書かれているすべての記述、事実、時間経過、登場人物の発言を徹底的に論証することで、『アクロイド殺し』において語り手であるジェームズ・シェパード医師が犯人ではないと結論づけるのだ。バイヤールの論証を読んでいくうちに、たしかにシェパードが犯人ではつじつまのあわない部分がでてくるのに気がつくのだ。
バイヤールの指摘する真犯人をここに記載するほど無粋なことはしないが、おおかたの読者はこう気づくだろう。物語の語り手の言うことが信じられないのなら、クリスティーの書くことだって事実だという保証はない。ミスリードされたまま終わる小説だってあるのかもしれないし、名探偵が間違えた推理をする物語もあるかもしれない、と。
この場合によりどころとなるものは、「誰が作者か」や「誰が語っているのか」ではなく、「どの論証が正しく思えるか」になってくる。シェパード医師なのか、ポアロの言うことか、あるいはバイヤールの語るところが真実なのか。つまり、作者でさえこの小説の結論を間違えているかもしれない可能性の前に、サントブーヴのような批評の成り立つ余地はもうどこにも残されていないということだ。
だからわれわれ読者は、この無限の「読み」の過剰な自由さにおそれ戸惑いながら、その自由さゆえに絶対の真理や「意味の本質」といものが文学や小説にはもう存在しない時代になったことを、そろそろ認めなくてはならないのかもしれない。

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