エーコ『薔薇の名前』と、知識の共有と実念論

クレルヴォーのベルナール
けっきょく失敗に終わってしまったが、それでも第2回十字軍の勧誘運動に絶大な能力を発揮した12世紀の神学者クレルヴォーのベルナールは、実念論的思考でこう考えた。「信仰に学問は必要ではない。キリストは学問を修めることもなく、ただひとりで自己の偉大な目的に到達したではないか」と。
中世において学問は、まだ神の認めたものかどうかの判断のつきかねる危うい概念であった。そもそも聖書にはこう書かれている。

「聖なるものを犬に与ふな。また真珠を豚の前に投ぐな。おそらくは足にて踏みつけ、向き返りて汝らを噛みやぶらん」(ヨハネ伝八章六節)

アレキサンドリアのクレメンス
「聖なるもの」とは神の教えであり、それを具現化した聖書のことである。豚とは教会から遠い平民、あるいは平信徒のことである。そうとらえてもよかろう。つまり、平信徒に学をつけるということは、教会自体の権威にたいする脅威にもなりえるということである。
聖アウグスティヌスが、天と地を結びつける「神の国」として提唱してのち、教会の権威はますます絶大であり、教会に属する神父は聖書を記憶しており、文字の読めない平民は教会と神父を通してしか救われる道がなかった。この構造は15世紀ごろに大学という教会に依存しない公共の学習施設が一般化するまでかわることがなかった。それまでの学問の施設といえば、修道院に併設された付属学校のことであり、修道院そのものであった。
クレルヴォーのベルナールよりずっと以前、2世紀頃の神学者アレキサンドリアのクレメンスは、平民に対する学問についてもっと直接的な表現をしている。

「全てを書物に書き記すことは、子供の手に刃物を委ねるようなものだ」(ボルヘス『続審問』からの孫引)

誰でも読むことのできる書物がバカや犯罪者や悪人や平民に渡ってしまうと、子供の持つ刃物のように危険である、というのだ。

ウンベルト・エーコの『薔薇の名前』では、盲目の図書館長ブルゴスのホルヘは、その謎めいた迷宮のような図書館のもっとも奥深い場所にある「アフリカの果て」とよばれる密室に、「異教徒の書物」(たぶんイブン・ルシュドだと思われる)や、この小説でもっとも重要な意味をもつアリストテレスの『詩編 第二部』を隠し持っている。
1番目の殺人事件の被害者であるアデルモの細密画にたいして、ホルヘは上記ベルナールの言葉を引用して非難するところなどを見ると、ホルヘとベルナールは同じ実念論者としても、知識が人類に共有されることを憂う者としても、おなじ思想に立つのがよくわかる。逆を言うと、ホルヘやベルナールは、イブン・ルシュドやアリストテレスの著作の本当のちからをいちばんよく知っていたのではないだろうか。
物語の終盤で主人公バスカヴィルのウィリアムが『詩編 第二部』を評して言うところの「現実にあるものとは異なった事象を物語ることによって、実際には、それらの事象を現実よりも正確にわたしたちに見つめさせ、そうか、ほんとうはそうだったのか、それは知らなかった、とわたしたちに言わしめる」ような書物の存在を、世界や信仰への理性による検証として平民が利用することは、教会、ひいてはキリスト教の発展のために全力で回避すべき事態であった。
そうして、そのホルヘの不安はそのまま中世における普遍論争のテーゼと一致するのである。アリストテレスやイブン・ルシュドの理性による科学的なものの捉え方は、信仰を理性の原理として検証しようとしたアベラールなどの唯名論とそのままつながっていく。信仰に学問は必要ないと説くクレルヴォーのベルナールやホルヘが、理性や知識や科学を超越した、「バラ」という普遍概念にこそ薔薇の本質があるという実念論の立場に立つのと対照をえがいている。
だからこそホルヘは『詩編』に毒を塗り、知識が図書館の最深部からあふれ出すことを阻止しようとし、その努力が報われぬと悟ったとき、彼自らが毒のついた『詩編』をのみ込むのだし、この後百年の時間をかけて実念論は姿を消し、教会の権威は失墜し、聖書はアリストテレスを超える書物ではなくなるのである。

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